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時計は11時59分で止まった。写真と共にふりかえる関東大震災。

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大地震は、多くの人の命を奪う大きな災害となりました。今年2022(令和4)年には、築地本願寺では関東大震災100回忌が執り行われまました。そこで、中央区教育委員会に所属する学芸員・増山一成さんに、当時の写真と共に関東大震災の被害やその後の東京に与えた影響を伺いました。 

倒壊する家屋と迫りくる猛火。

死者・行方不明者は10万人以上 関東大震災の被害状況

 
――関東大震災の被害状況はどんなものだったのでしょうか。
 
「関東大震災」と呼ばれる首都直下型の地震は、大正12(1923)年9月1日の午前11時58分に発生した大地震で、南関東一円に甚大な被害をもたらしました。被害エリアは、東京府(東京都の前身)を中心とした1府6県(神奈川県・千葉県・埼玉県・茨城県・山梨県・静岡県)にまで及んでいます。

 この地震は、相模湾を震源とするマグニチュード7・9の巨大地震で、破壊された断層面が非常に大きかったために被害が広範囲にわたることになりました。
 
 特に、旧東京市(現・東京23区に相当)の下町エリアや旧横浜市とその周辺地域では、地割れ・土地の隆起・沈降・地下水位の変化などが著しく、家屋の倒壊などの被害が多発しました。また、直下型地震による家屋の倒壊に加えて、地震発生直後から発生した火災がまたたく間に延焼し、9月3日にかけて(延べ45時間以上)燃え広がった火災によって被害が甚大なものとなりました。

 この地震による死者・行方不明者は、全体で10万5000 人ともいわれており、全壊・半壊・焼失・流出家屋は37万棟以上にも上っています。旧東京市では、1万2000 棟以上の建物が全壊し、16万棟以上の建物が焼失しています。また、旧東京市の火災による死者は、6万5000人以上で、犠牲者の9割近くが火災によるものであったといわれています。

 飛び火がもとで焼失した地域も多く、旧京橋区の月島にも隅田川を越えた飛び火による焼失がありました。また、同時多発的に発生した火災のみならず、火災旋風と呼ばれる火を伴った竜巻状の巨大なつむじ風が各所で発生し、大規模な市街地火災に発展しました。特に、旧本所区(現・墨田区)の陸軍被服廠跡では、避難した人々を襲った猛烈な火災旋風によって4万4000人の方が焼死や溺死などで亡くなっています。

火災から逃れる群衆。

 ――当時、防災対策は行われていたのでしょうか。  

 人口や資源が集中することで発展を遂げていた旧東京市や旧横浜市は、防災対策がほとんどなされていなかったといえます。密集する木造家屋や煉瓦造りの建物などへの被害が甚大で、特に地震直後からの大火災は、火を使う昼の食事時間と重なっていたことも被害を拡大させた原因でした。複数の店舗や家屋が火元となり、旧東京市内では百カ所を超えての出火と折からの強風にあおられての市街地大火となりました。

 特に旧東京市の下町エリアでは、江戸・明治から続く区画の中に所狭しと建てられた木造家屋(人口密集地区)があり、ここに数多くの人が生活していたため防災・減災の意識も薄く、対策が十分にとられていなかったといえます。被災者・避難者の意識としては、出来る限り広く安全な場所を探してさまようしか方法がなく、火災に追われながら宮城前広場(現・皇居前広場)・上野公園・上野駅前などへと避難しました。
 
 橋の上や橋詰に避難する人、火災から逃れるように隅田川に入水する人、家族と離ればなれになりながら避難地を探す人、家族や親戚の行方を捜す人、国や市などから避難経路や指示もない中でさまざまに逃れたようです。しかし、橋上や橋詰であっても橋は落橋してしまい、広場の避難地であっても旧本所区の被服廠跡での大惨事のように火災旋風に巻き込まれて大量の死者が発生する事態にもなりました。

地震発生後の大きな揺れで、午前11時59分を指したまま針た止まった時計(地震発生は58分)。

震災によって壊滅的な被害を受けた築地の街

 
――当時の築地の街はどんな様子だったのでしょうか。
 
築地を含む旧京橋区の被災状況は、焼失率100%近くに上っていました。築地本願寺所蔵の「関東大震災記録映像」(当時の被災状況を撮影した動画フィルム)にも築地周辺の様子が360度撮影されていまして、建物のほとんどが倒壊・焼失している様子がうかがえます。

また、上空から撮影した築地一帯の様子が『大正震災寫眞集』などにも記録されていまして、歌舞伎座や海軍大学校などは建物の形状が見て取れるものの、ほとんどが更地に近い状況となっており、築地のまち全体が壊滅的な被害を受けた状況であったことがはっきりと見て取ることができます。
 
―‐築地本願寺の被災状況は?
 
地震発生直後は、築地本願寺(当時は本願寺築地別院)の建物が倒壊するほどの被害はありませんでした。明治34(1901)年に再建された本堂は、京都の本山を模した荘厳な紫宸殿(ししんでん)形式の堂々たる木造建築であったため、地震の揺れによる倒壊や破損は最小限度(屋根瓦の落下や障子が外れる程度)に留められていました。

しかし、地震直後から各所で発生した火災から免れることができず、銀座・八丁堀・築地本願寺の裏手から寺の三方を囲むように火の手が迫り、ついには別院境内へと火が回って本堂の他に境内建物が焼失(宝蔵一棟と被災した太子堂のみ残る)してしまったようです。なお、境内の南に建立されていた別院地中の諸寺院も焼失し大きな被害を被っています。

上野広小路で避難する群衆と立ち往生する電車。

 ――築地本願寺が行った救護活動とはどんなものだったのでしょうか。
 
関東大震災発生の翌日9月2日、報に接した京都の西本願寺が全国各教務所に向けて、震災罹災者の義捐救済を進めるように電命しています。9月4日には、本山内に臨時救済事務所本部を設置し、被災した築地本願寺の焼失跡地には出張所が開設されました。

なお、この時に組織された事務分掌の一つである宣伝部(映画布教班)では、被災状況の撮影を行い、その後活動写真などの上映による救護に対する奨励宣伝や慰問布教事務にあたっており、当時上映された映像が、築地本願寺所蔵の「関東大震災記録映像」として今日に語り継がれています。

また、九条武子夫人や大谷夫人(枝子・紝子・泰子夫人)らが発起人となって、全国の本願寺派寺院や門徒などに向けた200万枚に上る罹災児童愛護袋の送付と応募なども督励されており、その一部の様子が記録映像にも映し出されています。

築地別院焼失跡地に設置された臨時救済事務所の出張所では、9月10日に京都本山から急送された天幕(延べ600坪を超えるもの)を用いて、築地本願寺の焼け跡をはじめ、日比谷公園音楽堂前や神田明治会館焼け跡などに救護所を設置しました。そこでは、主に葉書供給・通信代筆・薬品や飯料の供給・人事相談・死者追弔・遺骨預かり・郵便取次などが行われました。

日比谷公園においては、医療班による救療や衛生事業のみならず、日曜学校、人事相談所、無料宿泊所、活動写真の上映(「関東大震災記録映像」)、慰問品配給なども次々と実施・開設されました。なお、こうした救護所における活動の一部が、関東大震災記録映像にも映し出されています。

京都市救護班による緊急医療。
被災児童を見舞う九条武子夫人。

 ――震災後に起こった築地本願寺の変化とは?
 
関東大震災からの復興を象徴するかのように、昭和9(1934)年に建築家・伊東忠太設計(施工は松井組東京支店)による鉄骨鉄筋コンクリート造の新本堂が完成しました。これまでの木造建築から、耐震・耐火性能を重視した震災復興の近代宗教建築に変化し、構造・設備面でも当時の近代科学の粋を集めたものが取り入れられました。

震災後の本格的な本堂再建にあたっては、江戸時代以来の当該地での度重なる火災被害、区画整理や幹線道路の拡幅整備による境内地への影響もあり、他所への移転案なども持ち上がりました。しかし、最終的に現地において西面して建立(明治末年再建の本堂から西面して建立)されることとなりました。

なお、新本堂の落成に伴って大規模に修された昭和10(1935)年の慶讃法要は、近代的な本堂建築の様子とともに、華麗な催事や行事(稚児行列など)が映像記録(「慶讃法要映像」)として築地本願寺に保存されています。

また、築地本願寺周辺には、復興道路として幹線4号(晴海通り)・5号(新大橋通り)が拡幅整備され、中央卸売市場(築地市場)の建設などが進みました。特に、幹線道路として整備された晴海通りによって、地中寺院エリアとの分断が進み、かつ、被災した地中寺院の多くが郊外へと移転し、寺を取り巻く環境が大きく変化しました。 

日比谷公園に設置された築地本願寺救護テント内の呼びかけ。

震災以降に整備が進んだ東京の都市部の変化とは

 
――震災後の代表的復興事業を教えてください。
 
大正13(1924)年に組織された復興局(内務省の外局)による帝都復興事業は、国を主体として進められた事業で、土地区画整理・街路(幅員22m以上の幹線道路)・橋梁(隅田川橋梁を含む幹線街路橋)・河川運河(改修・埋立)・公園(隅田・浜町・錦糸の三大公園)などの整備が行われています。

また、国の事業を補うように東京府・東京市(神奈川県・横浜市)が主体となって進めた復興事業も同様にあり、土地区画整理・街路(補助線街路や区画整理街路)・公園(学校隣接の復興小公園)・学校建設(復興小学校など)・上下水道・市立病院・社会事業施設・中央卸売市場(築地本場・神田分場・江東分場など)・電気事業などの施設整備が行われました。

こうした国・府・市による帝都復興事業は、大正13年から昭和5(1930)年までの6年にわたって実施され、概ね完成をみています。

なお、築地本願寺の周辺で言えば、寺域を囲むように走る幹線街路(晴海通り・新大橋通り)の整備や近隣に建設された中央卸売市場築地本場を中心に、並行して進められた周辺一帯の大規模な土地区画整理が実施されており、今日の築地地区の基礎を形づくる復興事業にもつながっています。

芝浦埠頭に陸揚げされた大量の救援物資。

 ―‐関東大震災から後世の私たちが学ぶべき知識や、活かすべき教訓を教えてください。 

日本は世界有数の地震大国ではありますが、関東大震災以降、首都圏において当時を超えるような直下型の大地震・大災害は発生していません。それゆえに、地震に対する予防行動や避難回避のシミュレーションを想定しておくことが大切だと思います。高層ビルでの火災、地下鉄での被災、ライフラインの支障、情報の混乱など、かつてとは異なる思わぬ災害・被害が発生する可能性があろうかと思います。

100年前の状況とは環境・情報通信などが大きく改善された中で生活していますが、情報過多な今日だからこそ、適切な情報をキャッチして上手に情報を活用していくことが重要なのではないかと思います。日本国内では、阪神・淡路大震災や東日本大震災などからも学ぶことのできる教訓や日常の備えなどが多くあることと思います。

中央区銀座の数寄屋橋公園内には関東大震災10周年記念塔(銅像・台座制作は彫刻家の北村西望)が建立されています。公園内に立つこの記念塔の台座部分には「不意の地震に不断の用意」の標語が掲げられています。関東大震災から100年を迎えるにあたり、先人が残したこうした言葉を振り返りながら、日ごろから防災意識を高めておくファーストステップが災害拡大の回避と減災につながっていく重要な点であることを、心に留めておく必要があると考えています。

(回答/中央区教育委員会・増山一成さん)
 
増山 一成(ましやま・かずしげ)
中央区教育委員会の学芸員。国内外の歴史的・文化的所産に関する調査研究に従事。築地本願寺所蔵の「関東大震災記録映像」を調査・復元。近年の著書は『みる・よむ・あるく東京の歴史』第5巻(共著、吉川弘文館)。




◎築地本願寺の災害対策について

 2011年7月、東日本大震災を機に、築地本願寺と中央区、築地警察署との3者において、「災害時における応急対策活動の協力に関する協定」を締結しました。2017年からは、中央区と協議をおこなった末、築地本願寺を災害時における帰宅困難者の一時滞在施設として利用するよう連携を図っています。
 具体的には、緊急時、一時滞在施設として提供し、361人を受け入れる体制を作っています。
 現在では、より一層中央区や地域との連携を深め、災害対策強化を図っています。
 そのほか職員間でも、自衛消防隊の結成、京橋消防団への協力、BCPの策定や災害対策マニュアルの更新などをおこない、防災に対する意識を高めています。
 有事の際には、安心して築地本願寺をお頼りください。 

◎築地本願寺からのお願い


 災害時には様々なデマや流言などの情報が出回ることがありますが、政府や地方自治体の発信する正確な情報を元に行動すると共に、日ごろより近隣の避難場所を確認するなどの備えを徹底してください。
 

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。