脳腫瘍日記。

「はじめに」。

2018年、1月。

僕の人生において、なかなか大きな出来事が起こりました。

脳に、大きな腫瘍が見つかったのです。

初めて経験した手術。2週間の入院。その時に感じた命のありがたみ、健康のありがたみ。周りの人への感謝、神様への感謝。自分の体の丈夫さへの喜び。いろいろ。

せっかくなので、それらを書いてみようと思います。

お付き合い頂けたら幸いです。

「どっちのモザイクだ?」

もともとの始まりは、いつだったのか。正直、わからないんです。

ただ、いつからか、僕の視界に光ったものを見たあとに残る残像みたいなものが見えるようになって。

始めの頃は、その大きさも小さかったし、見えている時間も短かったので、知らないうちに何か光ったものが視界に入ったのかなぐらいに思ってました。

しかし、日が経つにつれてそのサイズは大きくなり、見えている時間も長くなってきます。

不安になってきた僕は、「視界 光の残像」でネットで検索をかけます。

出てきた中で一番自分に近かったのは「閃輝暗点」という症状でした。

しかし、閃輝暗点には大抵、頭痛が伴うようで。

僕の場合は頭痛はなかったので、違うのかなぁと思っていて。

…振り返ると、頭痛がない方が不思議ですが。

そして、そのころ、左手をよくぶつけるようになりました。

道を歩いていて、左側にある生垣に手を突っ込んでしまったり。

スーパーなどで、積まれている商品があるのに気づかず、ぶつかってしまったり。

それと、初めての場所に出かけて、帰ってくるときにどこから来たのかわからなくなったりしたんです。

自分の目に何が起きているのかわからず、どんどん不安になりました。

「もしかして、視野が欠けてる?」

そう思い、ネットで「視野 欠ける」で調べてみます。

すると、「視野チェック」なるページを見つけました。

両目とも、左下四分の一、欠けていました。

だから、左手をよくぶつけたんです。

帰り道がわからなくなるのは、欠損している部分を脳が見えているように補正するので、入ってくる情報が左右対称じゃなくなるためでした。

「視野欠損」に関連して、「緑内障」や「白内障」という言葉も出てきて。

そして「失明」という言葉も見つけて、その時はちょっとビビりました。

そして、光の残像の方も、どんどんひどくなっていきます。

2017年の年が終わる頃には、視界全体を覆うぐらい大きく、ほとんど一日中見えていました。

そして、その色も濃くなり、最初は光の残像のように見えていたものは、もはやモザイクのようになっていました。

大人なDVDを見ていると、「これ、どっちのモザイクだ?」って思うほど。

2017年の年越しは、本当に不安でした。

「病気:おもうより軽し」。

2018年、1月1日。

脳腫瘍が見つかる年の、元日。

近所の神社に、初詣に行きました。

この神社には、僕は毎月お参りに来ています。

月が変わったタイミングで、「先月はお見守りありがとうございました」と、「今月もどうぞよろしくお願いします」と、ご挨拶をしに来ます。

お参りを済ませ、おみくじを引きます。

その時も、僕の視界はモザイクに覆われて視野は欠けています。

なので、おみくじの箱の手を入れる穴がどこにあるのかわからなかったりして。

そんな状態で、神様からのお告げを読みます。

やはり気になるのは、健康や病気について。

神様からのお言葉は、こうでした。

「病気:おもうより軽し」。

それを見て、ちょっと安心しました。失明ということにはならないんじゃないかなと。

そして、こう思いました。

「軽いんだったら、さっさと病院に行って、さっさと治して帰って来よう」。

そう決めて、お守りのようにおみくじを財布に大事にしまいました。

神様からのお言葉のおかげで、お正月は少し、安心して過ごせたのを覚えています。

そして、三が日が終わり、1月5日。

年が明けて初めて病院が開く日に、近所の眼科へ飛びこんだのでした。

すると、そこで大学病院の眼科を紹介してもらい、

大学病院の眼科から、脳外科に移され、

あれよあれよという間に、脳腫瘍が見つかりました。

しかも、最大部8cmという大きな腫瘍。

脳外科の先生が「君がそうやって元気でいることが信じられない」と言う程の、大きな腫瘍。

そして、視野検査もしてもらいました。

病院の設備でちゃんとしてもらうと、やはり、視野は欠損していました。

[右目]

[左目]

黒い範囲は見えてません。

「あぁ、やっぱり見えてないんだなぁ」って。

残念に思うのと同時に、自分の現状を理解できたことに安心感もありました。

先生から「手術の説明をするから家族を呼んでくれ」と言われました。

「…あ、じゃあ、電話してきます」

「…君、一人で来たのか?」

まるで、都会から一人で田舎にきた孫を迎えるおじいちゃんのよう。

結局その日は帰宅し、明日、家族を連れてもう一度来るように言われました。

入院に関する資料をもらい、家に帰ります。

家に帰って家族に状況を説明すると、僕以上に驚いていました。

そして、入院の手続きの書類に必要事項を書き込んでいるとき、ふと、財布にしまったおみくじを開きました。

そこには、こう書かれています。

「病気:おもうより軽し」。

思わず、声が出ました。

「…どこがじゃい」。


「あなたはすでに死んでいます」。

次の日。家族と一緒に再び病院へ。

母、兄、妹、そして僕の四人で、先生から手術の説明を受けます。

脳の中で腫瘍が大きくなっていて、非常に危険な事。

脳の中で、ゆっくりと時間をかけて大きくなった腫瘍が視神経を圧迫して、視界に異常が出ていること。

手術をしなければ、一年以内に確実に死亡すること。

そして、この大きさの腫瘍があったら、通常ならすでに死んでいること。

「本来ならば、あなたはすでに死んでいます」。

ハッキリと、そう言われました。

そこから、手術のリスクと術後の説明です。

手術した結果、欠損した視野が回復する事はないこと。逆に、欠損部が大きくなる可能性があること。

てんかん発作を引き起こすようになる可能性があること。

そして、手術中に死亡する可能性があること。

手術のあと、24時間ICUで体を管理されること。

そのあとは、最低一日、通常は3~4日。長ければ一週間ほど、車椅子での生活になること。

それらを、先生は懇切丁寧に説明してくれます。

しかし、僕は先生の言った一言が気になっていました。

「本来ならば、あなたはすでに死んでいます」。

そう言われてから、頭の中に「北斗の拳」のケンシロウがずっといるのです。

あのセリフを、ケンシロウが、敬語で。

敬語で、というところが、妙に笑いを誘います。

ものすごく笑いたい。でも笑えない。

リアルに、「笑ってはいけない病院」。

そこで笑ったりなんかしたら、尻をしばかれるどころでは済みませんから。

歯を食いしばって笑いを堪え、先生の話を聞いていました。

「変態おじさん、いざ出陣」。

病院で一晩過ごし、手術は、その日の夜でした。

夕方と聞いていたのですが、それが伸びに伸びて、結局夜の8時ごろだったと思います。

それを待つ間に、手術の同意書にサインをします。

同意書には、前日に聞いた事が書いてありました。

その内容に、同意してサインをするのです。

「自分が死ぬ」ということに、同意しなければなりません。

これは、ちょっとこわかった。

こわかったというか、結構覚悟が必要でした。

でも、手術しなければどっちみち死ぬので。しっかりとサインしました。

そして、看護師さんに呼ばれ、同意書を提出。それから、手術着に着替えます。

病院でよく見る検査着を着ます。しかし、上半身だけ。

下半身は、手術のあとICUに入るとき、下半身に管を入れなきゃいけないので、裸。

「…パンツは?」
「脱いでください」

これは恥ずかしかった。

「あと、これを履いてください」

そう言って渡されたのは、膝までの長さの白いストッキング。

手術中、手術後、動けなくなる僕の血流を守るためのものらしいです。

検査着の上だけ着て、下半身は何もつけず、足にはストッキングを履いています。

完全に、変態のおじさん。

この時は、手術への怖さよりも恥ずかしさの方が勝ってました。

「じゃあ、手術室に行きましょう」

そう言われ、車いすに乗せられ、手術室へ運ばれます。

変態おじさん、いざ出陣。

「おぉ、ドラマみたいだなぁ」

本物の手術室にそん事を思い、せっかくなのであちこちを見回しました。

手術をしてくれる先生に、「大変なことになりましたねー」って言われて。

「そうなんすよー。全然気持ち追いつかなくて」なんて話したら、ちょっと笑い声が起きて。

「手術前にそんな感じの人、あんまりいませんよ」なんて言われて、今度は俺が笑って。

結構、リラックスした状態で受けられたと思います。

「じゃあ、寝てくださいねー」って言われ、腫瘍のある頭の右側を上にして、手術台の上で寝っ転がります。

そうしたら、看護師さんがてきぱきと準備を始めてくれて。

なんか、テープとかいろいろ貼られたりしたんですけど。

その途中、「ちょっとチクッとしますよー」。

って言われて、おでこのあたりがチクッとしたんです。

そこから、僕の記憶はもうありません。


「全集中の呼吸」。

「無事におわりましたよー」。

おでこがチクッとしたと思ったら、そう言われました。

僕にとっては一瞬。

でも、手術は8時間ほどかかったそうです。

出てこれたのは、次の日の朝。

その間、家族はずっと待っていてくれました。

心配もしたし、疲れただろうなぁと思います。

手術台に乗せられたまま手術室を出て、家族と対面。

手術のために、髪の毛を半分だけ剃られた頭を見て兄貴が言います。

「モヒカンみたいになってるぞ」。

「おかえりとか言えや」。

手術が終わって第一声は、ツッコミでした。

「ただいま」とか言いたかったのに。

まぁ、それも僕らしい気がします。

そして、そのままICUに移動です。

24時間、体を管理してもらいます。

その時間が、入院生活の中で一番しんどかったなぁという記憶があります。

ICUのベッドに寝かされるというより、ベッドの半分を起き上がらせて背もたれにして、そこに寄りかかって座る感じでした。

僕からは見えないんですけど、背後にはたくさんのモニターや機械があったそうです。

家族は、衝撃的なビジュアルだったって言ってました。

「写真ないの?」って聞くと、「いや、見ないほうがいい」って答えるほど。

ただ、僕から見える景色は、とてもきれいでした。

清潔感のある、真っ白な壁。

窓ガラスのついた、無機質な銀色のドア。

絶対に狂うことなく、一定のリズムで時間を刻むアナログ時計。

すべてが、完璧に整頓されたきれいな景色。

変化があるものと言えば、ドアの窓の向こうに見える廊下を人が通るときぐらい。

その中で、僕はただ、生きていました。

「生きる」という行動を、能動的に行っていたという方が正確な気がします。

ベッドに寄りかかった体勢で、一切の身動きもとれません。

首も動かせず、水も飲めない。

唾液すら飲み込むことは許されず、手元にティッシュとビニール袋を置かれて、「唾液が出てきたら自分で拭って袋に捨ててください」と。

本当に、「生きる」ということ以外、何もできない。

「呼吸」。

いつも、自然に、無意識に「呼吸」をしています。

この「呼吸」を意識をしないとできない。

「よし、吸うぞ」と思って息を吸って。

「よし、吸えた。じゃあ次は、吐く、だ」

と決めて、吐く。

というように。

そうやって「呼吸」に取り組まなきゃいけない。

全集中の呼吸。

でも、そうしないと生きてられないんです。

「生きるって、忙しいな…」

そう思ってました。

あの24時間が、僕の人生で一番「生きる」ということと向き合い、意識した時間だったと思います。


「ドラゴンボール」。

「一般病棟に戻りますよ~」

いつの間にか眠っていた僕のところに、医者の先生と看護師さんが数人来てくれました。

24時間体を管理されたICUを出て、一般病棟に戻ります。

「じゃ、管ぬきますね」

そう言って背後に回り、僕の体から管を抜いていきます。

ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。

「管おおいな…」

ずぼっ。ずぼ。

「まだあんのかい」

…ずぼっ。

「やっと、終わったか」

ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。

「管だらけやんけっ!」

本当はこんなに多くないと思うけど、体感はこんな感じだったっていう話です。念のため。

そのあと、ベッドごとICUから出してもらいました。

「じゃあ、行きましょう」

「はい」と返事をして、ベッドを降りて歩きました。

「…歩けるんですか!?」

そのことに驚く先生と看護師さん。

見ると、僕を乗せるために用意されたであろう車椅子が。

「…あぁ、すいません」

「いえ、歩ける分にはかまわないんです。ただ、そんな人いないので…」

その後ろでは、ベテランの看護師さんが若手の看護師さんに「こんなパターンないからね」と教えています。

「ドラゴンボールでこんなシーン見たなぁ」。

なんて思って、ちょっと嬉しかったり楽しかったり。

ICUを出て、点滴生活を終え、初めての食事のときでした。

看護師さんが、とても心配そうな顔で言います。

「食欲沸かないと思うんですが、一口でも二口でもいいので、頑張って食べてくださいね」

その時には、完食していました。

「…すいません、食べ終わってます」。

きれいになった食器を見て、笑いだす看護師さん。

「大丈夫ですか?」

笑いながら、心配してくれます。

「おかわり欲しいです」

もっと大きく笑いだす看護師さん。

自分の冗談で人が笑うっていう状況に、日常が戻ってきた気がして嬉しかったのを覚えています。

「…お暇ですよね?」

そう聞かれました。

「普通は、今はリハビリで大変な時期なんですけど、鈴木さんは異常に強いので…」

「異常に強い」という言葉に、「ドラゴンボールみたいだなぁ」と思って、また、嬉しかったり楽しかったり。

でも、実はあまり退屈ではありませんでした。

入院っていうのが初めてだったので、色んなことが新鮮でしたし。

本を読んだり、今はスマホで動画とか簡単に見れますからね。

それに、SNSやメールでたくさんの人がメッセージを送ってくれたんです。

これは、本当に救われました。

肉体は丈夫でも、気持ちはどうにもなりませんから。

自分が生きていることを、こんなにもたくさんの人が願ってくれる。

「無事に手術が終わった」と伝えれば、たくさんの人が「良かった」と言ってくれました。

自分が生きていることを、祝ってもらえる。

脳を手術しているので、返事をするとなると頭が疲れてしまいます。

なので、「申し訳ないですが返事はできません。しかし、必ず読んでいます」と伝えました。

それでも、毎日、誰かがメッセージをくれて、元気を分けてくれました。

「ドラゴンボールの元気玉みたいだな」

こんなに幸せなこと、ありません。

一般病棟に戻って少し落ち着いたとき、俺を手術してくれた先生から、俺の脳の写真をもらいました。

頭を開いて、剝き出しになった自分の脳の写真。

生々しくてグロいので、ここには載せられませんが、衝撃でした。

まさか、自分の人生で自分の脳を見る日が来るとは。

そしてもう一枚。それは、手術前と後の、レントゲン写真。

手術前の写真には、白く写る大きな腫瘍の姿がはっきり確認できます。

そして、手術後の写真は、腫瘍が取り除かれ、そこに大きな黒い穴があいています。

頭カラッポ状態。

例えじゃなく、比喩表現じゃなく。頭カラッポ。

ドラゴンボールのテーマソングに、こんな歌詞がありました。

「頭カラッポの方が 夢詰め込める」

入院生活。ドラゴンボールみたいなことが起きました。

これからは、たくさん夢を詰め込んで。みんなからもらった元気に力をもらって。

自分からドラゴンボールみたいに生きてってやろうと思いました。

「退院」。

入院から2週間が経って。

主治医の先生から、腫瘍の検査結果が出たから、明日、家族を呼んでくれと言われました。

それと同時に、退院です。

一般病棟で過ごす時間は、割と穏やかだったと思います。

特に、自分の脳や視界に異常がでるということもなく。

ただ、安静に。

入院という異常事態なはずなのに、「こんなに穏やかな時間は、いつぶりだろうなぁ」なんて思ってました。

本当ならね、リハビリとかで大変な時間らしいですから。

恵まれてます。

家族にも、本当に支えてもらいました。

家から僕が入院する病院までは、バスで駅に行って電車に乗り、降りたらまたバスに乗らなきゃいけません。

その往復を、僕が退院するまでの2週間。ほぼ毎日。

兄貴か妹が顔を出してくれて、洗濯物を回収して、面倒を見てくれました。

なかなかに大変なことだったと思います。

感謝してもしきれません。

おみまいに来てくれた方もいました。

入院の期間。

自分がどれだけ恵まれた丈夫な体を持っているか。

どれだけ、僕を心配してくれる人がいるか。

大事に思ってくれる家族がいるか。

そういう、自分の周りにある幸せを目の前に見せてくれたような、そんな時間だったと思います。

「許してください、臆病者なんです」。

ここまでが、僕の病気の発覚から、退院までの日々になります。

読んでくださってありがとうございました。

ところどころ冗談っぽく書いたりしてますから、不愉快に思った人もいるかもしれません。

今でも、当時のことをふざけて話したり、笑い話のネタとして話すことはあります。

なぜ、ふざけてしまうか。笑い話にしてしまうか。

許してください、臆病者なんです。

自分に危険な事がが起こったという事実を、真正面から受け止める勇気がないんです。

でも、笑い話にしてしまえば、僕に起こったことは「危険な事」から、「面白い事」になります。

そうすると、受け止められます。

優しい人は、「そんなに明るく話せるなんて、ポジティブですね」なんて言ってくれることもあります。

違うんです。臆病なだけなんです。

「あなたはすでに死んでいます」と言われたとき、頭の中にケンシロウが出てくるのも、きっと目の前の状況からちょっと目を背けてるんじゃないかなとも思うんです。

臆病だから。

だから、自分に起こった事をそのままて受け止めて、ちゃんと悲しめる人は、勇気のある人だと思います。

「視野を少し失って気づいたのは、目に見えない力の大きさ」。

その中でも、おみくじの話はよくします。

それまでの経緯を話して、

おみくじの実物を見せて、「病気のとこ見て」なんて言って。

「どこがって話でしょ」なんて、ふざけながら。

でも、本当は、神様にはものすごく感謝しています。

というか、「神様って、本当に見てくれているんだなぁ」って、ちょっと感動したというか、少し、怖くすら思ったのを覚えています。

僕の性格を考えたら、おみくじに「深刻な状態だ」みたいに書いてあったら、「じゃあ、一回体制を立て直してから行こう」みたいに考えたはずなんです。

「仕事が落ち着いて、時間とお金にに余裕ができたら行こう」と。

そこで「おもうより軽し」と書いてあったから、僕は「軽いんだったら、さっさと行ってさっさと治して来よう」と思えたんです。

そう思えなかったら、今頃どうなってたか。想像するだけで怖いです。

神様は、僕の性格や考え方まで理解した上での言葉をくださったんです。

「本当に、見抜かれてるなぁ」と。

僕は習慣として、神社に毎月通っています。

初詣だけじゃなく、毎月。

「初詣っていうけど、二回目がないのに『初』っておかしくない?」

という疑問から始めた習慣ですけど、始めて良かったと心から思いました。

それから、病院に行ったタイミングも良かったんじゃないかなと、全部が終わったあとに思うんです。

まだ目の症状が軽い状態で眼科に行っていたら、もしかしたら、「特に異常はないので様子を見ましょう」と言われて終わってた可能性もあります。

そうなったら、僕の場合、もっと症状が重たくなっても二度と病院に行かないような気がするんです。

「前に、『大丈夫だ』って言われたしなぁ」なんて思って。

それと、僕を手術してくれた先生は、脳外科ではかなり有名な腕のある先生らしいんです。

その先生が、僕の手術は大変に難しい手術だったと教えてくれました。

もし、その先生じゃなかったら、腫瘍をきれいに取り切れなかったかもしれません。

頭に残ったら、再発の可能性が上がります。

本当に、幸運でした。

でも。

僕が、もともと紹介されたのは、眼科なんです。

脳外科じゃないんです。

「脳が危ない状態だから、脳外科のいい先生のいる病院に」って紹介されたんじゃないんです。

てことは、他の病院を紹介される可能性も十分にあり得ます。

もし、紹介された病院が違う病院だったら。

その先生のいる病院じゃなかったら。

もしかしたら、これを書いている僕はいないかもしれません。

いやぁ、こわい。

やっぱり、守られてます。守っていただいてます。

退院してすぐ、その神社にお礼のご挨拶に行きました。

そして、毎月のご挨拶は欠かしていません。

脳腫瘍で、視野の四分の一を失い、僕の目は通常通りには見えなくなりました。

そうなったことで感じたのは、目に見えない力の大きさでした。

「この世は単位制」。

生きていると、人の死に触れる場面があります。

そして、大人になるにつれて、そういう場面は増えてきます。

それは、自分の身近な人の場合もあるし、テレビで見ていた有名人だったりもします。

僕は、この病気で自分自身が「死」と向き合うことになりました。

誰かが亡くなった報せが届いたとき、「いい人ばかり早く亡くなってしまう」って言っているのを聞きます。

俺自身も同じことを思って、寂しさを感じます。

「憎まれっこ世に憚る」なんて言葉もありますし。

「神様は、いい人が好きだから連れて行ってしまうんだ」なんて話も聞いたことがあります。

きっと、その通りなんだろうなぁと思うんです。

だから、「亡くなる」って、きっと、この世を卒業するんだと思うんです。

神様っていう先生に合格をもらえたから、卒業していく。

だから、いい人、優秀な人ほど、すぐに合格できるほどの単位を早く取り終えて、さっさと卒業していってしまう。

きっと、この世は、そうできてるんです。

我々は寂しいですけどね。

じゃあ、生きてる人たちがみんな出来が悪いのかっていうと、そうではなくて。

心から尊敬できる年長者。みんなに愛されているおじいちゃん、おばあちゃん。たくさんいます。

きっとね、そういう人たちは、入った学校がすごく優秀な学校だったんです。

偏差値のすごく高い学校に入学した。だから、単位をとるのも時間がかかる。

そういう人たちは、生まれる前から志が高かったんです。だからこそ、周りから尊敬されるんでしょうね。

時々。

時々、本当に悲しいことですけど、自ら命を絶ってしまう人がいます。

それも、すごく素敵な人、愛されている人ほど、そうしてしまう気がします。

きっと、ああいう人たちはとっくに単位を取り終えてて。

この世の人たちのため、後輩たちのために、残っていてくれたんだと思います。

でもね、ほら。この世は単位の足りてない人たちばっかりだから。

そういう人って、ステキな人を傷つけるようなことを平気でするんです。

だから、ステキな人たちは追い込まれて、この世から去ってしまう。

本当に、やりきれませんが。

僕自身の話をすると。

脳腫瘍が見つかって。

「あなたはすでに死んでいます」と言われました。

でも、ありがたいことに、生きて帰ってこれました。

「この世は単位制」というルールに照らし合わせれば、僕はきっと、神様から合格点をもらえてないんだろうなって思います。

「お前、もっかいやり直してこい!」って追い返されたんだと思います。

留年。

僕は、この世を留年してるんです。

これは恥ずかしい。

でも、退学処分じゃなくて、チャンスもらえたので。

今度こそは、ちゃんと卒業できるように、全力で生きていきます。


「生きてるだけでまるもうけ」。

明石家さんまさんが言ってました。

「生きてるだけでまるもうけ」。

病気をする前、この言葉を聞いた時は、「生きているだけで幸せだ」っていう意味だと思ってましたし、きっと、そういう意味で言っていると思います。

病気をして、「命」っていうものと徹底的に向き合う時間があって。

この言葉に、もう一つの意味を見出せました。

「まるもうけ」。

儲けてるってことは、それだけ働いてるんです、がんばってるんです。

人間、生きてるだけで十分なんです。

特に、ICUで過ごした時間は強く思いました。

「生きる」って、大変だし忙しいんです。

今だって、欠損した視野が回復したわけでもないですし。

めまいと吐き気と頭痛に襲われて、丸一日動けないなんていう日もあります。

それでも、生きてます。

そんな状態でも、生きてるんです。

これはもう、馬車馬のように働いてます。まるもうけです。

そして、これからもがっぽがっぽと儲けてやろうと思います。







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