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「さびしさの解放 ー寂と錆ー」

紅顔の哲学者を目指して#5

2024年4月25日(木)

さびしい。
無性にさびしい。
なんでだろう。
さびしくてむずむずする。
今日の午前中はそうでもなかったのに。
お昼を過ぎたあたりから徐々にさびしさ(の感情)がどこか知らぬところから湧きでてきて、足の先から体を巡る血のように、僕の体を蝕んでいく(循環していく)。
今すぐに全ての血液を抜き取るように、その感情を流しさりたい。
なんで、食事をした後の排泄物は直ぐに出せるのに、身体には感情を出せる器官がないんだ。
もちろん感情は精神的なものだから、身体の器官から排出できないのは当たり前だろう。
バクが夢を食べるという話は、人間が悪い感情を物理的に出せないから、それが夢となって具現化する夜の眠っている間に、食べてくれる存在を求めてできたいわゆる神的存在だろう。
人間は目に見えない負の要素や強い影響力を持つものに対して、霊的な存在を見出す習慣がある。
柄谷行人が「力と交換様式」で言っているように(間違っていたら申し訳ない)、マルクスであれば貨幣に霊的力を見出しそれをフェティッシュといい、ホッブズは国家にそれを見出し海の怪物、リヴァイアサンと名付けた。他にもマルセルモースやマクスウェルもそうだ。
人間は常識外の天災や災害のような予期せぬことが起きると直ぐにその原因を神のような超越した存在に求める。
それはまだ人間が無知である証拠でもあるのかもしれない。無知であるが故に非科学的なものに頼ってしまう。
僕のこの猛烈なさみしさも夜になったらそれが夢となりバクがちゃんと食べてくれるだろうか。
人間が普段活動している間はさびしさはそのままだが、寝ている間はどうだろうか。寝ているときはさひしさを感じているのだろうか、はたまたバクが食べてくれているのだろうか。
人間が寝ている間何もしていないかというとそうではないだろう。文字通り人間の各器官が何もしていない(機能していない)としたらそれは死んでいるも当然だ。
寝ている間は知覚はしていないかもしれないが、(頭の中で)思考はしていると思う。その結果として夢というものがあるはずだ。
夢というと"空想の世界"とか"非現実"というイメージがある。確かにそうかもしれない。まさに「夢」と辞書で引いてみるとそのような定義が載っている。
だが、"非現実"、"物語"、"虚構"ではある一方でそれは無意識に考えていることが表象された結果夢となるのであって、主観も客観も存在しない、その人自身がその瞬間に思っていることそのままなのものだ。だから、嘘がない。
人間が日中活動している時に、こうしたいとかこうであると思っていても、それは例外はあるものの嘘が入っている可能性がある。自分が本当にやりたいと思っていたことも実はそうではなく結果として自分に嘘をついていたという経験はあるだろう。
つまり、よく自分のことは自分でも分からないと言ったりするが、その人自身が自己を理解する手掛かりは夢にあるのかもしれない。フロイトの「夢判断」という作品もそのようなことが書かれているのかもしれない。
そう考えると、根本的に夢について考えることはとても重要なことかもしれない。また、自分自身をケアすることにも繋がるかもしれない。
今日の日記でいいことが得られた。さびしいという感情にはなったが、逆にそうなって良かったかもしれない。そうなっていなかったら、寂しいということについて考えていなかっただろう。

さびしいの起源(出どころ)はどこだろう。
なぜさびしいと人は思うのだろう。そして、その感情を我慢して抑えることができないのはなぜか。
孤独とさびしいの違いはなんだろう。
そうしたらまずは辞書の定義を見てみようか。
一応、主観の欠けた客観的な定義であるはずだ。
そこから、それは本当にそうで、時代や時場所によって違う意味にならないかなど考えたい。
辞書を見ると「寂しい」とは、[あるべき人・物がなく物足らない思いである。心細い。]となっている。
そして、さらに「寂(さび)」の意味も調べてみる。[古びて味わいのあること。もの静かな深い趣。]と書いてあり、さらに[中世の「幽玄」から発展し、芭蕉の俳諧に至って完成した、日本文学の基本理念の一つ。閑寂で潤いのある美が、自然に外に匂い出ているような趣をいう。]ともある。
(またこれは紙の辞書の良いところでもあり、それでしかできないことでもあるが)「寂」という語の近くに「錆」という語があった。いわゆる同音異義語だ。ただ、僕は本当にそうだろうかと疑いをかけた。
普通に考えて「寂」と「錆」はまったく意味が違うと思うだろう。だが、そうでもないということに辞書をひいて気づいた。
僕はこの一見意味が全く違うように見える「寂」と「錆」という二つの語には親和性があると思う。
「寂」はある感情が何かしらの要因によって古びて(さびて)趣が出るということだと解釈した。一方で「錆」は物において何かしらの化学反応が起こりそれが悪い状態になるということだと思う。
そして、これらの単語は名詞の役割をなしているが、それが動詞になる場合はそれぞれ、「錆」は「錆びる」に、「寂」は「寂びる」「寂れる」となりまた形容詞は「寂しい」と変化する。僕たちがよく使うのはこの「寂しい」であるのはいうまでもない。
つまり、ここから何が言えるのか。
「さびしい」という感情は僕たちの無意識下で今まで存在していた考えや価値観が、まさに酸化する金属のように変化した時に生じるものではないか。
また、金属の表面の錆をダメな物と思うかもしくは古びて味わいが出たと感じるかのように、「さびしい」も良いものと捉えるか悪いものと捉えるかを考えることが重要だと思う。これは善と悪の問題になるのでどちらともいえない。
つまり、今まで人間は「さびしい」を負の感情として解釈してきているが、一概にそうとも言えないのではないかということだ。

そしてさびしさを解放する方法はないだろうか。それは物理的に可能だろうか。
物理的に可能かどうかはこの日記の中ではすぐに答えを出せないが、日々思索していく中で答えを見つけ出せたら嬉しい。それにはまだまだ時間が必要だろう。
寂しさを取っ払う方法として、すぐに考えられるのは人と会って対話をすることだろう。つまり、人と人が対峙することによってそこにつながりが生まれ、心の不安はなくなり寂しさは解消されるだろう。言語によるコミュニケーションの役割はでかい。
一応、さびしいとは何かについて考えたつもりだが、その出どころやなぜそう思うのか、その感情を抑えることができるかどうかについてはまだ僕なりの結論は出せていない。
あくまでこれは日記であって、また哲学日記でもないので結論は出さなくてもいいし、また別のところで自分なりの結論を出したい。

さびしくてさびしくてしょうがなかったが、本屋について働いてからそれは無くなった。というよりも家を出て電車に乗っている頃にはもう大丈夫だった。そしてこれを書き始めていた。でもそれに引き換え体のだるさや倦怠感が出てきた。だから、働いている間は少しきつかった。でもなんとか最後まで働き、家に帰れた。
今日はすごく疲れたので、ご飯を食べたあとは自然と寝てしまった。途中起きてXを開くとあおくんがスペースをやっていた。びっくりして、嬉しくてすぐに聴き始めた。スマホの画面を閉じてそれを聴きながら、寝ていると寝ていないの間を彷徨っていた。半分寝ているから何を喋っていたか覚えていないが、すごく安心した。ありがとう、あおくん。
途中で2時になるので辞めますというのが聞こえて、スペースは終わった。
それから、ラジオで好きな音楽番組を聴きながら寝ようと思った。
が、寝れないというより眠りたくなくて、「さびしさ」はもうなかったものの、それによって空いた穴を塞ぎたかった。
その穴を埋められそうな本を本棚から何冊か探して机に並べた。
そしてそれを読み始めた。
これはこのまま朝を迎えてしまうかもしれない、、、

【メモ】

・「錆(さび)」ー金属の表面が空気や水にふれて生じた酸化物。悪い結果。悪い報い。

・「錆びる」ー金属の表面にさびが出る。落ち着きが出て、味わいのある声になる。

・「寂びる」ー古びて味わいがでる。もの静かで味わいが深くなる。老熟する。

・「寂れる」ー(活気のあった所が)人けがなくなり寂しくなる。すたれる。


〈寂しいの類語〉
・「索漠」ー心を慰めるものもなくものさびしいさま。荒凉として気のめいるさま。

慰める…何かをしたりやさしい言葉をかけたりして悲しさ・苦しさなどを忘れさせ、心をおだやかにさせる。心を楽しませる。いたわる。

荒涼…自然が荒れはててものさびしいようす。精神的・物質的に満たされず、生活・気持ちなどが荒れすさんでいるさま。


・「眠る」ー 一時的に心身の活動が休止し、目をとじて無意識の状態になる。

・「夢」ー 眠っている時に、いろいろな物事を現実のように見聞きしたり、感じたりする現象。

辞書で調べたことをメモ

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