上野 宏子。

いつか、一冊の本にしたい。

上野 宏子。

いつか、一冊の本にしたい。

最近の記事

母の最期。

✴︎この記事は、2022年3月25日のものです。 ・・・・・ 3月初旬に74歳の誕生日を迎えた母。 娘の提案で、誕生日の翌日、娘と私と二人手作りケーキをつくり、両親のもとへ持っていき、4人で祝った。 3月4日だった。 全身転移性の骨がんでありながら無症状のまま過ごしてきた母。 私はといえば、母が全身転移性骨がんであることをほぼ忘れ去っていて(ごめん、診断が下って以降もあまりにそれまでと変わらない様子だったから)、娘の「ケーキ作る」にのっかった程度だったけど。 手作りケー

    • さよなら。

      もう3年ぶりになる喫茶店のドアを開けてすぐ左の席に座った。 8人掛けの大きなテーブルの先は大きな硝子張りで、道行く人の姿が見える。 斜め向かい、いちばん窓際の席に、もう80になろうかと思われる細身で小柄なご婦人がひとり、今年初めての雪が舞うのをゆったりと眺めながらランチを食べていて、私はイタリアンスパゲティを注文した。 いろんなSNSで、いろんなことを、みんなが発信する、あたしもそうだ。 誰かに見せたい見てもらいたい。共感に生きる時代と言われる今、そうすることは確かに、1つ

      • 11月22日。

        11月22日。 お昼間の電話口あの人は、「今日は、いい夫婦の日ですよ。」と切り出したあと当たり前のように、「今日はなにを食べようか」と言った。 隣のおばちゃんに久しぶりに会った。 隣に住んでいるのに、顔を合わせることは滅多にない、私がほとんどの時間を留守にしているせいだ。  夏が来る前、おばちゃんちの金柑の樹がなくなった。 世話がしきれないからと、お孫さんたちを呼んで抜いてしまったらしい、私が帰宅したときには、金柑の樹は根っこをつけたまま地面に横たわっていて、その隣の地面

        • お昼寝するその人と私。

          庭で本を読むのが好きだ。 今もその最中で、斜め右の少し離れた位置では隣のおばちゃんが畑に座り込んで草取りをしている。 「この家の畳、最高。」 たしか昨日もこのくらいの時間、おばちゃんが草取りをしている音が外からかすかに聞こえていた。 私の部屋に寝転んでいたあの人は、そのおばちゃんが鎌を使うカツカツという音を風に揺れるカーテン越しに聴きながら、半分に折り曲げた座布団を枕に、うたた寝を始めた。 最初はこっちを向いていたけれど、途中から背中を向けてスヤスヤと眠るこの人は、T

          取りとめない話。

          母が他界して1年。 あっという間だった。 棺に眠る母は、私の娘にメイクしてもらい、お気に入りだったピンクの服を着て、たくさんのピンクの花に囲まれて、とても美しかった。 やっぱり心残りなのは、母が元気である間に「母さん、これまで冷たくしてごめんね。」「母さん、私のお母さんでいてくれてありがとう。」「母さん、愛してるよ。」というたったこの3つが言えなかったことだ。 一緒に買い物にも行こうとしなかったし、ろくに目を見て会話をした記憶もない。 何度も入院したのに一度もお見舞いに行かな

          取りとめない話。

          台拭きのしかた。

          私の父方の祖父母の家(私の父が生まれ育った家)は、 私が両親と暮らしていた家とは別で、車で1時間ちょっとかかる、本当にのどかな田舎にあって、とても立派な家だった。 年齢を重ねた祖父母は、私が学生の頃から私の家の小さな別棟で暮らすようになったため、それと同時にその家はほかの人の手に渡ったけれど、昨年9カ月前に母が他界したのをきっかけに、父や母の故郷に帰ったときに立ち寄ったその田舎町は過疎化が進んでお年寄りばかりが暮らす地域になってしまっていたけれど、でも、そののどかな風景は今も

          台拭きのしかた。

          お前のピアノは、雑だ。

          今日は、いつも頼りにしている美容師さんに急遽お願いして、遅い時間にも拘わらず髪を切ってもらった。 しょっちゅう髪型を変えるので、キャラが定まりにくい私だけど、今回はウルフを目指すことにする。 20代の頃にずっとしていた髪型で、久しぶりだけど、年齢が変わるとその髪型にする理由も違うワケで、今回はそのころとは違うウルフを目指そうと思う。 ・・・・・ 最近よく書いているが、ピアノを始めたのは5歳の頃だ。 最初は近所の地区で自宅教室へ通い、家では古いオルガンで練習した。 しばらく

          お前のピアノは、雑だ。

          ハルミとベンジャミン。

          カフェオープン間近。 店長である娘と、補佐である私との間で、空耳が発生している。 ・・・・・・ 娘:「最近、自分の中でパルミジャーノレッジャーノって言葉が頭ん回っとる。」 私:「ハルミちゃんの、なんて?」 パルミジャーノ…はるみじゃーの…はるみちゃんの…。 ・・・・・ 私:「それ、変じゃない?」 娘:「ベンジャミン???」 変じゃない?…へんじゃない?…ベンジャミン… ・・・・・ ま、まぁ、聞こえなくはない…。

          ハルミとベンジャミン。

          「家族」という縁は。

          母の他界と、自分の生き方を変えようと思ったタイミングが偶然同じだった。 3月31日を終えたら、私はこれまで大切だと思い込んできたものを思い切って手放すと決めたのは、3月に入ったころだったと思う。 いよいよその3月31日が来て、私はその日、お寺にいた。 そこにいらっしゃる女僧の先生と出逢ったのが、3月30日。 初めてあまりに「ただいま」感が強かった私は、その日夜遅くまでお寺にいて、翌日もそのお寺に、というよりも、先生とそのご主人に会いに行った。 その日もまた、晩ご飯をご馳走にな

          「家族」という縁は。

          父の背中。

          今日、父が私の施術を受けに来た。 先日太ももを打撲した数日後から、膝の内側あたりから足先までの広い範囲に渡って内出血して、歩きづらいという。 打撲とこの内出血が直接関係するかどうかは私にはわからない。 「さほど強く打ったつもりはない」と父は言うが、83歳ともなれば元気とは言っても若干感覚が鈍っているのか、それとも実際に大したことがなかったのか。 いずれにしても、父のからだは83年の歴史を重ねている。 今日、父がその脚の状態を見せてくれた。 数日前に「病院に行って検査はいろ

          父の背中。

          母の百箇日。

          母が他界してから3か月が過ぎた。 「もう」というか「まだ」というか。 母が私に残してくれたものは、あまりに偉大だ。 誰と関わり、何を大切に生きていくか。 『私』が誰の役に立つために生まれてきたのか。 『誰のために』。 それはオンラインやSNSの世界の人ではなかった。 リアルな世界で、そしてとっても身近な、小さな小さなコミュニティの中にいる人たちだった。 こんな大切なことを、私はいつからか忘れた。 これまで忘れていたそのことを、今からいろんな時間を通してたくさん味わって、

          母の百箇日。

          母さん、ありがとう。

          2022年4月1日午前1時08分。 母さん、私を産んでくれて、私を見守ってくれて、私のお母さんでいてくれて、ありがとう。 愛しています。 最期の私への贈りもの、贈りものも贈り方もあまりに芸術的でびっくりするよ。笑笑  全力で受け取ります。

          母さん、ありがとう。

          母に『愛しています』の手紙を届けた日。

          母に『生んでくれてありがとう』を伝えた3月21日。 その日の21時ごろ、息子が「京都の家に帰った」との連絡とほぼ同じタイミングで、容態が急変したとの連絡が入った。 私は母に手紙を書いた。 読んでもらえないだろう手紙。もし本当に母が亡くなったら、棺に一緒に入れて焼いてもらえたらそれでいいと思った。 母は私に渡すものがある時、必ず書置きをしてくれた。今も変わらぬ昔からの几帳面で少し丸みを帯びた母の書く文字を、私は知っている。 でも、今の私がどんな字を書くか、母は知らないはずだ。

          母に『愛しています』の手紙を届けた日。

          『母さん、愛してるよ。』と伝えた日。

          「最短で今夜が山かも」と連絡があって以降、結局、病院からの連絡はなく、いつも通りの朝が来た。 私も昨夜は母についてツラツラと書きつつ、ぶっちゃけ気持ちはフラットで、淡々と時間を過ごしている。 病院からの経過連絡があるわけでもなく、気になって、お昼ごろにダメ元で母の携帯にかけてみた。 まさかの、母が電話に出た!笑笑 生きてた!!!笑 自分でのスマホ操作は難しくて看護師さん頼み、相変わらずごはんも食べられず、起き上がることもできないみたいだけど、意識自体はわりとハッキリし

          『母さん、愛してるよ。』と伝えた日。

          母の命が、終わろうとしている。

          全身転移性の骨ガンでありながら、無症状だった母の状況が変わったのは、74歳の誕生日を祝って数日後だった。 そんな母の容体が急変したのは、昨日。 お手伝いしていたイベントスタッフのしごとを無理を言って早退させてもらい、その足で向かった先の病院で会った母は、車いすに乗り、元気がなかった。車いすに足は浮腫みで痛そうで、自力で足台に乗せることもできない様子だった。 私と娘でマッサージした。 マッサージ、もっと早くしてあげればよかった。 母は私の施術を定期的に受けていたとは言え、

          母の命が、終わろうとしている。

          母さん、私を産んでくれて、ありがとう。

          昨日夕方入院して、今朝になって体力が一気に落ちて、ほとんど話ができなくなった母。 母が欠かさなかった、お彼岸のお墓参りを、母がいないまま済ませようとお寺にいる最中に母から電話があり、病室に持って来て欲しいものを伝えられた。 こんなに弱った母の声は、聴いたことがなかった。 一旦電話を切ったものの、いつまで生きられるかわからない母に伝えておかなければどうしても後悔しそうで、体力が全然残っていない母にあらためて電話して、 「産んでくれてありがとう。」 って伝えた。 そし

          母さん、私を産んでくれて、ありがとう。