母に『愛しています』の手紙を届けた日。

母に『生んでくれてありがとう』を伝えた3月21日。
その日の21時ごろ、息子が「京都の家に帰った」との連絡とほぼ同じタイミングで、容態が急変したとの連絡が入った。

私は母に手紙を書いた。
読んでもらえないだろう手紙。もし本当に母が亡くなったら、棺に一緒に入れて焼いてもらえたらそれでいいと思った。
母は私に渡すものがある時、必ず書置きをしてくれた。今も変わらぬ昔からの几帳面で少し丸みを帯びた母の書く文字を、私は知っている。
でも、今の私がどんな字を書くか、母は知らないはずだ。
それに、私は電話で伝えそびれた。
『母さん』と呼ぶこと。
『あなたを愛しています』ということ。
そして、これまでたくさんたくさん時間があったのに、私は、母と出かけたり、恋人の話をしたり、一緒に笑ったりを一切しなかった、それを謝りたかった。『ごめんね』と伝えたかった。

たまたまデスクの引き出しを開けると、2年以上前に買った、今の時期にぴったりのミモザの絵が入った活版印刷の便箋があって、それに書き留めた。
そして、私が一番お気に入りの、母と写った写真をコピーして写真サイズにカットして、同封した。

「今夜で母の命が終わる」そう思ったけれど、病院からの連絡はなく、いつもと同じ朝が来て。
容態がわからないままお昼前になり、ダメ元で電話をしたら出てくれた母に、『愛していますよ』を伝えたのが3月22日。
’いますよ’は、私の若干の照れ隠しで、これがまた、ちゃんと『愛しています』って言えばいいのに。笑
それにわその言葉の前に『母さん』とつけるのも忘れた。

その後2日間、23日と24日は、母と連絡がつかなかった。
代わりに、24日に父が母と電話で話せたようだけれど、父から聞いた母の情報は、
・話し口がほがらか。
・食べ物がおいしい。
・痛みや辛さはない。
・もしかしたら退院して帰ってこれるんじゃないか。
とのことだったが、正直、父の予想する母の状況は、私の予想と違いすぎた。
私の予想も父と同じで憶測でしかないが、正直父が思っている状況と実際の母は違うだろうなと感じた。
父や病院を疑うとかではまったくなく娘として、母の状況を直接、看護師さんから聞いて、現実を受け止めたいと思った。


今日。3月25日。
病院のお昼ご飯の時間帯ならもしかしたら出てくれるかもしれないと、母に何度か電話をしてみた。相変わらず、繋がらなかった。
「母に持っていきたいものがある」と、荷物を持ち込む予約をナースセンターに入れ、娘と一緒に向かった。
本当は持っていくものなんてないのに「持っていきたいものがある」との体でアポを取った都合上、母が食べられるかわからないヨーグルトを2つ買って、看護師さんに預けた。
そう、一緒に、21日の夜に書いた手紙も入れた。書いたままになっていた手紙。あんなに想いを込めて書いたはずなのに、忘れるところだった。
相変わらず私は、忘れものが多い。

担当の看護師さんから状況を聴いた。
薬が効いているんだろうね、母はテンションが高めで滑舌良くよくしゃべるらしい。
僅か2日前の母とあまりに違いすぎる。笑
ちなみに認知症ではないらしい。
「上野さーん」と呼ぶと「なぜそんな呼び方するのー?笑」と言い、「じゃぁ、○○さん」と下の名前で呼ぶと「そう呼んでくれないとね♪」みたいな反応らしい(笑)のと合わせて、辻褄の合わない話をするらしい。
たった5日前、自ら希望して病院へ行き、自分でサインして入院し、意識がはっきりした状態で病室へと向かった母。
その2日後には、自分が病院にいるのかいないのか判別できなくなった母。
薬によってだろうけれど、まぁ客観的に、たった数日でそんなおかしなテンションになってしまっている母を想像できてしまう。
薬で痛みや苦しみをおさえている分、そうなっているのだと思う。
これも、母が望んだこと。
母は、今回の全身転移性の骨がんより以前に3度のがん(両乳房と子宮)を経験している。その時の経験から、今回は抗ガン治療はせずに過ごして最期を迎えたいというのが、母の希望だった。


他に、基本寝たきり状態、自力で起き上がったりトイレに行くことはなく、食事も食べられず、管を着けているとのこと。
呼吸数を下げるための飲み薬が飲めないため、皮下吸収するパッチ式を採用したこと。


3月21日の夜に書いて渡さないままの、封筒に入れた手紙と写真のコピー。淡いグリーンの封筒に入れたそれを、今の母はきっともう文字を読むことは難しいとわかって看護師さんに預けた。
「もし本人が自力で読めなさそうなら、読み上げていただいてもいいですけれど(笑)」と言いながら。
しばらくして母の部屋から戻ってきた看護師さんから、手紙は読めないかもだけれど、それに添えた写真を、母が真ん丸な目をして見入っていたと聞いた。
その写真は、本来なら母も知っている。初めて目にする写真じゃない。
真ん丸な目をしたその理由が、その写真に見覚えがあるからか、あるいは初めて見た感覚だからなのか、そもそもその写真に写っているのが母自身と娘である私であることを理解できているのかどうかもわからないけれど。
とにかく、真ん丸な目をして見入っていたとのこと。よかった。見てくれてありがとうね。何を感じたのか、聞いてみたかったな。笑
手紙は、さすがに読めなかったかもね。
『お母さん』って、書いたんだけどなー。笑
照れ隠しの『愛してますよ』じゃなくて、ちゃんと本気で『愛しています』って書いたんだけどなー。笑
もしかしたら、直接声で伝えられるかもと思って、23日3回、昨日は4回、今日は4回電話かけてみたんだけどなー。ダメだっったわー。笑☜諦めない心。

父にこの状況を伝えた。
父は、自分の予想とあまりに違う母の様子を聴いて、少し驚いて、ちょっと残念そうで、でもやっぱりそうだよなという、複雑な想いだったように感じた。
そりゃそうだよね。
一目惚れして、プロポーズして、結婚して、それ以来50年以上、なんだかんだ一つ屋根の下あらゆることを共にしてきた人が、別人みたいになっちゃうんだから。
反抗期以来ろくにコミュニケーションを取ってこなかった私なんかとは、全然違うはず。


3月22日に父が母と電話した時、母は父がちゃんとご飯を食べているか心配していたらしい。
「ごはんをちゃんと食べているか?」と聞かれ、「長生きしなよ」と言われたと。
いろんなことの判別がつかなくなっても、父のごはんを用意するのは自分の役割だと、母は今も自覚しているのかもしれない。

テンションが上がっている母に会ってみたい。
食べられなくなって、管をつけて、横になっている母に会ってみたい。
私の母は、いつだって私の母。
そして、もし私のことを私だとわかってくれなくても、『母さん、愛しています』あるいは『○○さん、私、あなたにとてもとても愛されて、とてもとてもお世話になったんです。私もあなたを愛しています』と伝えたいなぁ。

写真家の息子は、そんな母の姿を、写真に収めたかったはずだ。
あるいは、亡くなる寸前の母や、亡くなった直後の母を、収めたかったはず。

そう、そして、23日。
容態の急変を懸念して、私は知人としていた約束を、前日の22日になって延期してもらって、一日予定が空いた。
最初は病院からの急な連絡に備えるつもりだったが、ふと、これは母が私への贈り物としてくれた時間だと思った私は、28日に行くと決めていた予定を23日の朝イチに繰り上げた。
母が私にくれた時間。母からの贈り物。早く行くようにと時間をくれた。
だから、行ったよ。

母さん、ありがとうね。


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