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雪を泳ぐ


高2の修学旅行以来、約5年ぶりに積もった雪を見、その上を歩き、刃の着いた板で滑り降りた。

自転車や一輪車や竹馬に、いくら時が経っても乗れるように、スキーも最初から久しぶりの雪に怯むことなく、滑ることができた。


家族レッスンを担当してくれるスキーコーチは、感覚の言語化がすごく上手なおじさまで、手を変え品を変え、同じ内容をいろんな表現で教えてくれる。私は彼のアドバイスを「ほうほう」と聞きながら、それを反映した動きをしようと思うのだけれど、いざ滑り出したら頭の中は空っぽで、ただただ「雪ってきれいだなぁ」と思いながら、真っ白な空間に向かって、ただすぅーッと、滑る。そして、特にアドバイスを反映したつもりはない動きに対して「上手いですね」と言われて、ほんの少し、申し訳なく思った。



「雪を信頼する」
「骨(体幹)で立つ」


その懐かしい感覚は、私に泳いでいたときを思い出させた。


水泳と、スキー。
夏と、冬。
水着一枚と、重装備。
安上がりと、高付き。


一見真逆の2つのシーズンスポーツだけど、

水を信頼し、ただすぅーッと、頭を空っぽにして無心で体を動かすこと、
体幹を大切に身体をまっすぐに保つこと、
「ゴーグル」や「くもりどめ」を使うこと、
どちらも肌が焼けること(日焼けと雪焼け)、


といった似ているところも多い。


水泳が武器になってから、他のスポーツに対して最初から「嫌だなぁ」とか「苦手だなぁ」という気持ちになることがなかった。苦手なバレーボールさえも嫌いではないし、数学の問題を解くことを思えば遥かにマシ。それは水泳と同じ、「スポーツ」というカテゴリだ、と思えるから。


だけどスキーにはそれ以上の親近感を感じた。


雪は、表面から見たら白色なのに、ストックで穴を開けると中が水色に見えるのだ。

水も同じ。
表面から見たら透明なのに、水色に見える瞬間がある。



雪は溶けると水へと変わる。

水と雪は、同じなのだ。



夕方、レッスンを終えてもまだ滑り足りなくて、父と2人で滑りに行った。

吹雪の白い空気に包まれて、ゴーグルにも水滴がたくさんついてきて、どんどんなにも見えなくなり、いよいよゴーグルを外して滑った。

ゴーグルなしの景色は、レンズがオレンジだったことを物語るように、すべてがより青く、白く染まっていた。

目に細かな雪が入ってきそうになってまつ毛に幾度となく助けられた。こういう時のためにまつ毛はあるんだなぁ、などと気づきを得て感心しながら、雪の中に溶けるかのように父のあとを追う。

必死なのか夢中なのかわからない父を見失わないように、頭の中をまっしろにして滑る。楽しくて、おもしろくて、癖になって、何度も何度もリフトへ並んだ。

その感覚はやっぱり泳いでいた時と一緒で、もし私が雪国に生まれていたなら、水泳ではなくスキーをやっていたかもしれない、と思った。



私は北海道の雪しか知らないけれど、他の雪だと固すぎてせっかくマスターしたスキーも上手く滑られない、なんてこともあるのだろうか。


明日午前、午後、明後日午前。


だけど今はとりあえずただ、留寿都の雪の中を泳いでいたい。







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