酒飲みの午前5時

子供の頃初めて今日と明日の境目を跨いだ日を覚えているだろうか?悲しいことに私は忘れてしまった。きっと得も言われぬ高揚感と背徳感に揺られながら眠い目を擦ったのだろうと過去の自分に期待してしまう。

大人になれば夜を越すことはあまりにも当たり前で、高揚感どころか迫りくる翌朝の予定に肩を落としてしまう。そんなやり場のない落胆とどうしようもなさを抱え、私は酒を飲んでしまう。高級なカクテルでも飲めば多少は救われるのかもしれないが私はレモンも入っていない自作のハイボールばかりあおっている。ふとカレンダーに目を向けるともう9月だ。年が明けてから9か月、私は何をしていたのだろう。しばらく思案していたが、自作小説が箸にも棒にもかからずヤケ酒を飲んだりまるで悪事のようにこそこそと誰にも見せない絵を描いたりだとか、思い出せるのはそのくらいだ。
我ながら情けなくて涙が出る。

多くを語るのはいささか憚られるが、私は世間様の役にこれっぽっちも立っていない。社会の歯車というのは批判的な意味で用いられることが多いが、その歯車が社会という大きな機械を回すエネルギーの一端を担っているというだけでなんと素晴らしいことなのだろう。私の歯車は一つ、ぽつんとあるだけで誰にもどこにも噛み合ってないのだ。ただただ空回りするばかりでカラカラ虚しく音を立てる様はなんとも滑稽なものである。社会の皆様が明日の為眠りに付き、カラスやハトがなく頃に疲れの抜けきらない体を無理やり起こしネクタイを締めるころ、私は酒を飲みながら言い訳のように創作活動に没頭する。ああ、恥ずかしい、と苦しくなるが創作とは麻薬だ。それさえしていればむしろ浮世離れしていることを褒められさえする。いや、事実、創作の為に人間らしい営みを自らあえて拒み、無限に広がる正当のない世界に没頭する芸術家は確かにいるのだが、私のそれはくだらない、現実逃避でしかないのだ。そんなことを考えていると私はふと、あることに気付いてしまった。

私は日々をまるで生きていないのだと。

昼夜の境を曖昧にし、アルバイトのない日はいつも全く違う時間に起きたり寝たりすることで生活リズムをごちゃまぜにし、明確な明日が来る恐怖を誤魔化そうとしていたのだ。私はずっと「今日」を生きようとしていたのだ。時間の有限さを知ることを何より恐れていたことに気付いてしまった。それから得も言われぬ焦燥と自己嫌悪が津波のように押し寄せ、居ても立っても居られなくなり文章をこうして書いているのだが落ち着くどころか心臓の鼓動は速くなるばかりだ。

明日を迎えることの恐ろしさというものを目の当たりにし、今はただ、ただ、項垂れるばかりだ。

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