「心のこもった料理」について


時々「心のこもった料理」と言う詭弁が使われる。
そう「不味いのにも関わらず。」

例えば栄養価が高いからこれを食えというならば、
それをおいしくなるように料理しなければ嘘だ。
喜んで食べてもらえるよう創意工夫しないならフェイクだ。
逆に目的はそっちの自己満足の為となる。
「料理を出してやるから受け入れろ」というメッセージだ。

自分は子供の頃、体にいいからとニンジンジュースを飲まされた。
受付けずに吐いたら、そのもどしたゲロを無理やり飲まされた。
彼は大声で命令し、威厳を示す、まるで自分が正しいかのように。
明らかに拷問であって、奴等は楽しんでいる、辱めている。
顔を赤くして俺が苦しむ姿にあのクズはドーパミンが出ていた筈だ。
好物だったパセリは栄養価も高いのに何故か禁止され、
その経験を植え付けた上で、敢えて苦手な物だけ食わされるなら、
「子供の為」という建前であっても、明らかにいたぶる事が目的である。
サディズム、すなわち依存であり、相対的強者である自分に酔っている。
「お前の為」といいつつ、しっかりと「自分の快感の為」になっている。
この依存のボリュームは受け入れる程に上昇していき、最後は滅ぼされる。
愚者の象徴であるサディストのチャレンジは限界が無い。
手を変え品を変え、どのみち全てを奪うまで続くのだ。
スパルタ教育、軍隊式、上下力学、垂直思考、愚者のトップダウン。
こちらには損しかない、こちらが感謝なんてしたら喜ばせるだけ。
もう何かしらのペナルティを作り出すか、逃げ出すかしか選択は無いと。

これが「心のこもった」という詭弁である。
歯の悪い人間に堅い物を食わせるとか、そういった行為に誠意は無い。
そもそも心を込めたというなら押し付ける道理が無い。
食うも食わないのもこちらの自由であるべきだ。
「料理にお前が合わせろ」っていう傲慢な強要にしかならない。
注文の多い料理店であって、むしろ食われるのはこちらの方だ。

この場合、食べやすく美味しく料理して信用を築くのが先であって、
不味いけど身体にいいというなら十分な信用を築いたその後だ。
「この人の出す物ならきっと体にいい」と、ようやく口に入れるだろう。
悪意を感じるものは飢え死にしたって動物は食わない。
敵対者の出す食事なら、仮に美味かったとしてもまぎれも無い毒だ。
その後大きな代償を支払わせられると気付いてるからこそ食わないのだ。

心がこもっているかどうかは相手が判断するものだ。
そして本当に心がこもっているなら喜んで食うだろう。
例えそれがどんなに味が不味いとしても、心が美味いのだ。
欠食児童が何なのか、これが答えだと思う。


おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?