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日本の文化や言葉、季節感、日々の暮らしについて綴ってゆきます。毎日の生活を折り目正しく…

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日本の文化や言葉、季節感、日々の暮らしについて綴ってゆきます。毎日の生活を折り目正しく。 エッセイに関するお問い合わせは https://forms.gle/qv1EaKbujvfLVt4P8

最近の記事

#7挨拶が生きるとき(3/3)

弾む、響く、生きた挨拶  それにしても、久しぶりに大阪の町を眺めていると、人と人とのあいだに交わされる言葉が豊かであると実感します。  母を見舞った後、突然の土砂降りに傘が折れてしまい、急いでコンビニエンスストアーに入ったものの、あいにくビニール傘はおいていないとのこと。お店の方は「すみませーん。おいてないんです」と深々と頭を下げてくださりました。とても申し訳無さそうな店員さんの表情にこちらも恐縮してしまいました。人と人とのやり取りまでが機械的と言われるコンビニエンスストア

    • #7挨拶が生きるとき(2/3)

      (社会とコミュニケーション つづき)  室町時代といえば、現代語の母体の形成期です。発音も文法体系も古代にはない大きな変化が見られました。例えば、ハ行音は口を大きく開けて発音するようになりましたし、いわゆる係り結びの法則が消失していったのもこの時代です。人と人との交流域が拡大するにつれて、コミュニケーションの方法にも工夫が必要になったのではないかと考えられます。  そして私たちが普段、口にしている「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などの挨拶が定型化したのは明治時代と言

      • #7 挨拶が生きるとき(1/3)

        ご近所のお声掛け  #6のエッセイ「夏の色、子どもの眼」で私は夏草の様子から浮かび上がる種々のことを書き連ねました。夏草といえば、思い出すことがあります。それは、郷里の母が手入れしている家庭菜園でのできごとです。  あの夏は実家の母の体調が思わしくなく、仕事の合間をぬって郷里に滞在する日が多くなりました。前年の春に父が癌で亡くなり、折しもコロナ禍が加わって、母は慣れない一人暮らしで気を張っていたのでしょう。その疲れがひといきに出てしまったような症状でした。  一人暮らしの母

        • #6時の雫_夏の色、子どもの眼(3/3)

           橋本治氏はその著書『人はなぜ「美しい」がわかるのか』において、美しいということがしばしばギリシャ彫刻における美の黄金比のように合理的な説明が付与されがちであることに対して、それだけでは「美しい」が説明しきれないことを述べ、次のような指摘をしています。 この著者の言葉を借りると、「美しい」とは当人そのものの感動の言葉であり、「他人の言葉」を借りないもの、つまり、世界の当事者となってはじめて得られる感動、感性を表す言葉であるということになります。 世界の当事者となる  言

        #7挨拶が生きるとき(3/3)

          #6 時の雫_夏の色、子どもの眼(2/3)

           お母さんからいただいた花はいわば庭に咲くか弱い草木の一種ですが、その花々はひまわり、ノウゼンカズラに劣らず、一つひとつの持つエネルギーが凝縮したような鮮やかで力強い色をしていました。 幼少期の思い出  夏の色、と言って良いのかもしれません。私はこの庭の花々の持つ鮮やかな色彩に息をのむと同時に、幼少期に過ごした夏休みを思い出しました。  それは両親の故郷である鳥取の記憶です。夏休みの思い出といえば、数々にあるはずですが、私にとって何ものにも代えがたいのが幼少期で過ごした鳥

          #6 時の雫_夏の色、子どもの眼(2/3)

          #6 時の雫_夏の色、子どもの眼(1/3)

          色鮮やかな夏の花  noteの第1回めのエッセイ「#1時の雫_庭の花」で私は定期的な長野の訪問生活を始めたこと、そのお家の庭の花について思い出を綴りました。長野のお家に行くたびに庭の花を頂いて帰るのは今では習慣となっています。7月、私は、庭の主−義理のお母さん−から生き生きとした花をいただき、それを胸に抱えて復路の車に乗りました。  その日はこの夏、関東で初めて気温が38度を上回るという猛暑に見舞われました。車中、目の前には清冽な青空が広がり、まぶしいくらいに白い、大きな入

          #6 時の雫_夏の色、子どもの眼(1/3)

          #5 時の雫_香りが呼びさますもの(3/3)

          放つ香り・くゆる香り  一方、「薫る」の古い用例から読み取れる語義は と挙げられています。「匂ふ」と異なり、際立った香りというよりは、立ちこめるような香りと言って良いかもしれません。香を焚いたとき、香りがくゆるように立ち上ることがありますが、「薫る」とはまさにそのような芯から静かに漂う香りであるように思われます。  『源氏物語』において、華やかな香りを発する「匂宮」と、くゆるような静かな香りを立ちこめる「薫」という二人の男性に求愛された「浮舟」はある日、「薫」のふりをした

          #5 時の雫_香りが呼びさますもの(3/3)

          #5 時の雫_香りが呼びさますもの(2/3)

          香りの記憶  東原和成氏(東京大学大学院教授)の解説によれば、嗅覚は他の感覚と異なり、情動(扁桃体)と記憶(海馬)に直接、働きかけるそうです。なるほど、同じ木目の車両に乗っていても視覚と嗅覚では働きかける場所が異なっていたのですね。合点しました。 匂ふと薫る  光が今ほどに暮らしを明るく照らさなかった頃、物を見定める一つの感覚として嗅覚が大きく働いていました。平安時代でいえば、当時の貴族たちは思い思いの香を焚き染めた衣服を身に着けていましたから、暗闇ではその香によってそ

          #5 時の雫_香りが呼びさますもの(2/3)

          #5 時の雫_香りが呼びさますもの(1/3)

          雨の日の通勤電車  7月に入ろうとしています。雨の季節はなにかと不便をきたしますが、しかし雨の日ならではの潤いもあります。  その潤いは、単に肌に伝わるものではなく、五感を刺激するものであるとあらためて気がついたのは、この梅雨の季節、通勤電車の私鉄車両に乗ったときのことでした。  小雨が降るなか、朝7時台のホームには通学利用をする小学生がたくさんいます。その子どもたちに囲まれるように車両に乗ったとき、なんとも言えない懐かしい感覚がよみがえってきました。私自身が小学生だった頃

          #5 時の雫_香りが呼びさますもの(1/3)

          #4時の雫_水の音(3/3)

          水の音を愛でる  水の流れる様子だけではなく、音を鑑賞する行為は『徒然草』にも読み取れます。よく知られる第55段では次のように記しています。 水の音を捉える  ここに水の流れる音は直接、記されていませんが、深い水よりも浅く流れる水が良いとされるのは、その動的なきらめきだけではなく、流れる音がより鮮明になるからではないでしょうか。  そう考えたとき、かの芭蕉の句にあらたな新しさが見えてきます。  従来、この句は「山吹」と「蛙」の組み合わせが古典常識であったものを「古池」

          #4時の雫_水の音(3/3)

          #4時の雫_水の音(2/3)

          水を太鼓で表す  雨の感覚を音に表し、様式美を確立させたのが歌舞伎かと思います。演劇学者の河竹登志夫氏によれば、 と指摘した後、次のようにも述べています。 水の音を愛でる  河竹氏の指摘する水の美意識について思い起こすのは、著名な随筆「水の東西」(山崎正和)です。そこでは西洋の吹き上がる噴水と日本の鹿威しに代表されるような流れる水とが比較され、西洋と日本の水に対する美意識の相違が指摘されています。日本人は自然に流れる水、さらには流れるという時空間を鑑賞しているとの指摘

          #4時の雫_水の音(2/3)

          #4時の雫_水の音(1/3)

          時の太鼓  夏至を迎える季節となりました。今年もはや半分が過ぎるのですね。今年は梅雨入りが早かったせいでしょうか、暦と季節感のずれに奇妙な感覚を覚えます。とはいえ、暦は暦。日々、暦は刻々と同じペースで打たれてゆきます。  刻まれる時といえば、私がかつて住んでいた近所には古い神社があり、毎朝6時になると時を告げる太鼓の音が聞こえてきました。実はこの太鼓の音、私が引っ越した当時は、毎朝、お囃子の稽古をしていると勘違いしていました。住まいは都心にありながら古い慣習の残っているとこ

          #4時の雫_水の音(1/3)

          #3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(2/2)

          涼味を味わうこと  今、この時代に氷を手に入れることはいとも容易なことです。しかし、言うまでもなく当時、氷はたいへん貴重なものでした。氷を口に含むことはある種のぜいたくであったはずです。飢えをしのぎ、暖をとることが生命の維持に欠かせない処置であるとすれば、涼味はいわば嗜好品です。しかし、その涼味を涼味として味わえるのは、世が安寧であってこそです。氷調(ひつぎ)は、今年も氷室の氷が保たれたという世の泰平を祝賀し自然風土を賛美する儀式であったのではないかと思われます。  「氷室

          #3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(2/2)

          #3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(1/2)

          能「氷室」をみる  清々しい緑のなかに、湿度を帯びた暑さが感じられます。水道の蛇口から流れる水もぼんやりとぬるく、ふと涼感をもとめるとき、私の脳裏に静かに蘇ってくるものがあります。それは、2021年の初夏に堪能したお能の舞台です。その頃の客席は新型コロナウイルスの感染予防のため、前列席は封鎖、残る客席も市松模様のように座席が空けられていました。観客の少なさにいつもと違う雰囲気を感じましたが、笛が鳴り響いた瞬間、舞台に吸い込まれていきました。  その日の演目は「氷室」(喜多流

          #3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(1/2)

          #1時の雫_庭の花(3/3)

          <切る>ことと<生きる>こと なるほど、私も花をいけるときは、なるべく花が庭で咲いていたときの姿(これを生け花では「出生」(しゅっしょう)と言います)を思い出しながら、花器と空間の宇宙のなかで伸びやかに生きるよう、祈るような気持ちで花器に挿していきます。大地から切り取られた花々のいのちは有限ですから、時間とともに朽ちてゆくのですが、その姿を含めて、花のいのちを大切にいけるというのが、生け花であると私は感じています。  5月に長野から持ち帰った花は、その後、あやめの花が咲きき

          #1時の雫_庭の花(3/3)

          #1時の雫_庭の花(2/3)

          <切れ>という概念 <切れ>とは大橋良介氏によると、 とあり、書道や生け花、茶道、作庭等々に通底する基本的な技(同、p.33)であると述べられています。大橋氏によれば俳句における「切れ字」なども<切れ>の現れであると指摘します。つまり、切れ字は眼前の日常的な世界をいったん切り取り、そこにあらたな美を見出すものであるとのこと。たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な芭蕉の俳句でいえば、「古池」という対象は切れ字によって切り取られ、「蛙」「水の音」とともに「自然界はこの

          #1時の雫_庭の花(2/3)