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日本の文化や言葉、季節感、日々の暮らしについて綴ってゆきます。毎日の生活を折り目正しく…

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日本の文化や言葉、季節感、日々の暮らしについて綴ってゆきます。毎日の生活を折り目正しく。 エッセイに関するお問い合わせは https://forms.gle/qv1EaKbujvfLVt4P8

最近の記事

#4時の雫_水の音(2/3)

水を太鼓で表す  雨の感覚を音に表し、様式美を確立させたのが歌舞伎かと思います。演劇学者の河竹登志夫氏によれば、 と指摘した後、次のようにも述べています。 水の音を愛でる  河竹氏の指摘する水の美意識について思い起こすのは、著名な随筆「水の東西」(山崎正和)です。そこでは西洋の吹き上がる噴水と日本の鹿威しに代表されるような流れる水とが比較され、西洋と日本の水に対する美意識の相違が指摘されています。日本人は自然に流れる水、さらには流れるという時空間を鑑賞しているとの指摘

    • #4時の雫_水の音(1/3)

      時の太鼓  夏至を迎える季節となりました。今年もはや半分が過ぎるのですね。今年は梅雨入りが早かったせいでしょうか、暦と季節感のずれに奇妙な感覚を覚えます。とはいえ、暦は暦。日々、暦は刻々と同じペースで打たれてゆきます。  刻まれる時といえば、私がかつて住んでいた近所には古い神社があり、毎朝6時になると時を告げる太鼓の音が聞こえてきました。実はこの太鼓の音、私が引っ越した当時は、毎朝、お囃子の稽古をしていると勘違いしていました。住まいは都心にありながら古い慣習の残っているとこ

      • #3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(2/2)

        涼味を味わうこと  今、この時代に氷を手に入れることはいとも容易なことです。しかし、言うまでもなく当時、氷はたいへん貴重なものでした。氷を口に含むことはある種のぜいたくであったはずです。飢えをしのぎ、暖をとることが生命の維持に欠かせない処置であるとすれば、涼味はいわば嗜好品です。しかし、その涼味を涼味として味わえるのは、世が安寧であってこそです。氷調(ひつぎ)は、今年も氷室の氷が保たれたという世の泰平を祝賀し自然風土を賛美する儀式であったのではないかと思われます。  「氷室

        • #3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(1/2)

          能「氷室」をみる  清々しい緑のなかに、湿度を帯びた暑さが感じられます。水道の蛇口から流れる水もぼんやりとぬるく、ふと涼感をもとめるとき、私の脳裏に静かに蘇ってくるものがあります。それは、2021年の初夏に堪能したお能の舞台です。その頃の客席は新型コロナウイルスの感染予防のため、前列席は封鎖、残る客席も市松模様のように座席が空けられていました。観客の少なさにいつもと違う雰囲気を感じましたが、笛が鳴り響いた瞬間、舞台に吸い込まれていきました。  その日の演目は「氷室」(喜多流

        #4時の雫_水の音(2/3)

          #1時の雫_庭の花(3/3)

          <切る>ことと<生きる>こと なるほど、私も花をいけるときは、なるべく花が庭で咲いていたときの姿(これを生け花では「出生」(しゅっしょう)と言います)を思い出しながら、花器と空間の宇宙のなかで伸びやかに生きるよう、祈るような気持ちで花器に挿していきます。大地から切り取られた花々のいのちは有限ですから、時間とともに朽ちてゆくのですが、その姿を含めて、花のいのちを大切にいけるというのが、生け花であると私は感じています。  5月に長野から持ち帰った花は、その後、あやめの花が咲きき

          #1時の雫_庭の花(3/3)

          #1時の雫_庭の花(2/3)

          <切れ>という概念 <切れ>とは大橋良介氏によると、 とあり、書道や生け花、茶道、作庭等々に通底する基本的な技(同、p.33)であると述べられています。大橋氏によれば俳句における「切れ字」なども<切れ>の現れであると指摘します。つまり、切れ字は眼前の日常的な世界をいったん切り取り、そこにあらたな美を見出すものであるとのこと。たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な芭蕉の俳句でいえば、「古池」という対象は切れ字によって切り取られ、「蛙」「水の音」とともに「自然界はこの

          #1時の雫_庭の花(2/3)

          #2言の葉ひらり_鯉のぼり(3/3)

          出世は仏教用語  鯉のぼりは立身出世を表象するものですが、私達が使う「出世」という語義もまた概して新しいものです。用例としては近世初期の井原西鶴『武家義理物語』(1688年)あたりに見られます。 もともと出世という語は仏がこの世に現れ出ることから始まります。やがて僧侶で高位につくことを指すようになり、現在のように、立派な身分になることを意味するようになったと考えられます。それ以前の時代、つまり江戸を遡り、例えば鎌倉時代(1252年)成立の『十訓抄』などを見ると、次のような

          #2言の葉ひらり_鯉のぼり(3/3)

          #2言の葉ひらり_鯉のぼり(2/3)

          狂言台本にみる「鯉の滝登り」 言語の面から「鯉の滝登り」の探索をすると、この語句の初出は『日本国語大辞典』(小学館)によれば、狂言台本の虎寛本(1792年)にあるようです。 これは「鬮罪人(くじざいにん)」という演目の一場面、祇園会の山車の趣向として提案されています。ここに挙げた虎寛本は大蔵流のもので、記されたのは江戸末期です。大蔵流に残る狂言台本の最古本は大蔵虎明本(1642年)で、こちらの詞章は次のようになっています。 このように鯉の滝登りではなく鯉が滝の下で臨むと

          #2言の葉ひらり_鯉のぼり(2/3)

          #2言の葉ひらり_鯉のぼり(1/3)

          鯉のぼりの始まり  端午の節句が近づき、庭先やベランダに鯉のぼりの姿が見られます。近頃は町の風物詩として川風に吹き流される何十もの鯉のぼりを見ることも増えてきました。五月晴れの青空に鯉が泳ぐ姿は清々しいものです。よく晴れた空にかかる青みがかった雲を「青雲」と言いますが、この語には地位や学徳の高さという意味もあります。 さて鯉のぼりは中国の後漢書(432年)「堂錮列伝・李膺(りよう)」に現れる「竜門」にちなむものです。 竜門は黄河中流にある渓谷の急流で、数千の魚が竜門下に

          #2言の葉ひらり_鯉のぼり(1/3)

          #1時の雫_庭の花(1/3)

          庭の花  緑が目にあざやかな季節となりました。季節のめぐりの中で、植物もそれぞれの時宜を得て、花を咲かせています。  今、私は定期的に長野を訪れる生活を送っています。エリアで言えば、軽井沢の南部にあたり、車で移動すると3時間ほどの距離です。都心からそんなに遠く離れているわけではありませんが、途中、群馬の県境あたりから目に飛び込んでくる景色は、都会の喧騒を一掃してくれるような緑が広がっていて、私はいつも息をのむ思いがします。  初めて訪れたのは4月の半ばを過ぎた頃でした。その

          #1時の雫_庭の花(1/3)

          #0 wako_エッセイを発信してゆきます

          はじめまして。 わこと申します。noteを始めました。 テーマは、さしあたり 時の雫|《しずく》:日本の文化、季節感について 言の葉ひらり:日本の言葉、言葉の学びについて 今日の台所:日々の料理について 花をいける:暮らしの花について 住まいを整える:住空間について このように分けて 暮らしの中で見つけた小さな話題を発信してゆきます。 どうぞ宜しくお願い致します。

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