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#6時の雫_夏の色、子どもの眼(3/3)

 橋本治氏はその著書『人はなぜ「美しい」がわかるのか』において、美しいということがしばしばギリシャ彫刻における美の黄金比のように合理的な説明が付与されがちであることに対して、それだけでは「美しい」が説明しきれないことを述べ、次のような指摘をしています。

「美しい」は、咄嗟に出る感動の言葉で、「合理的」は、そこに後からやって来る「他人の言葉」です。それが自分の口から出ようと、他人の口から出ようと、「合理的」を説明する言葉が、「他人の言葉」であることだけは変わりません。(27ページ)

橋本治『人はなぜ「美しい」わかるのか』

この著者の言葉を借りると、「美しい」とは当人そのものの感動の言葉であり、「他人の言葉」を借りないもの、つまり、世界の当事者となってはじめて得られる感動、感性を表す言葉であるということになります。

世界の当事者となる

 言葉以前の言葉で感動する心の動きは言葉を獲得してゆくなかで失われがちです。それは言い換えれば、知識を獲得していくなかで失われてゆくものと言えるかもしれません。あるいは子どもの目がとらえた感動を、知識に覆われた大人の目が奪ってしまうとも言えます。先に挙げた橋本氏は『枕草子』と『徒然草』を例にあげて、それぞれの「美」の捉え方の相違について、次のように述べます。

『枕草子』を書いた清少納言が「時代の中に生きた美の冒険者」であるのに対して、『徒然草』を書いた兼好法師が、「時代の中に生きなかった美の傍観者」であるという違いです。(128ページ)

橋本治『人はなぜ「美しい」わかるのか』

 同著において橋本氏は『徒然草』を「つまらない」ものと一刀両断しています。私としては、「美の傍観者」になることによって、理知的論理的な見解を展開したことに兼好法師の功績があると言ってもよいかと思われます。しかしその一方で、橋本氏の指摘も一理あると感じます。それは、世界の当事者にならず、傍観者になることは世界を見る目をつまらなくする、ということです。私たちは大人になってゆくにつれて、知識量が増え、いわゆる常識を身につけていきます。しかしそれらに覆われた目で世界を見てしまうことによって、心からわきおこる「何かよくわからないけれど感動する」という心の動きが失われがちになることも事実でありましょう。合理性、知識、常識は私たちが生きるうえで羅針盤となってくれていることは否定できません。しかし、それらだけで世界を見てしまう大人の目は世界の見え方をときにつまらなくするのではないでしょうか。
 夏の花が放つ鮮烈な色は有無を言わさず私の心を動かしました。この心の動きを大切にしたいと思います。そして、夏休みのこの期間、子どもの眼を今いちど、思い返してみたいと思いました。


【参考文献】
橋本治(2002)『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書

(#5 時の雫_夏の色、子どもの眼 終わり)


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