見出し画像

#4時の雫_水の音(2/3)

水を太鼓で表す

 雨の感覚を音に表し、様式美を確立させたのが歌舞伎かと思います。演劇学者の河竹登志夫氏によれば、

(※歌舞伎の自然主義的リアリズムと非リアルな様式美という二極のスペクトル)この間の様式性が一番よくわかるのが、大太鼓による水の変態の打ち分け方である。川の水音、雨、波……。

『日本の美学』27、P.9より。※は筆者が補った

と指摘した後、次のようにも述べています。

演劇に限らず、水が外国の文学芸術でどう扱われているかは、詳しく調べたことがない。が、こんなに「動体としての」水の表現を与えている国は、他にあまりないのではないだろうか。

引用文献は同上

水の音を愛でる

 河竹氏の指摘する水の美意識について思い起こすのは、著名な随筆「水の東西」(山崎正和)です。そこでは西洋の吹き上がる噴水と日本の鹿威しに代表されるような流れる水とが比較され、西洋と日本の水に対する美意識の相違が指摘されています。日本人は自然に流れる水、さらには流れるという時空間を鑑賞しているとの指摘に首肯された方は多いのではないでしょうか。
 『日本国語大辞典』(第2版)によれば「鹿威し」が文献に現れる早い例は江戸時代の俳諧のようですが、流れる水の音を鑑賞するという行為は平安時代の文献にも見られます。次の例は『源氏物語』(「少女」巻)で秋が好きな中宮のために作庭するなか、水の風景だけではなく「音」に趣向を凝らしている様子が描かれています(以下、本文はいずれも小学館の『新編古典文学全集』による)。

中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき植木どもを植ゑ、泉の水遠くすまし、遣水の音まさるべき巌たて加へ、滝落として、秋の野を遥かに作りたる、(略)

『源氏物語(少女巻)』

 また例えば、『枕草子』(第136段「なほめでたきこと」)では賀茂神社の祭りの舞において、舞人の歌声だけではなく、水の流れる音をも美の対象として鑑賞しているのがわかります。

橋の板を踏み鳴らして、声合はせて舞ふほどもいとをかしきに、水の流るる音、笛の声など合ひたるは、まことに神もめでたしとおぼすらむかし。

『枕草子(第136段「なほめでたきこと」)』

 水の流れる様子だけではなく、音を鑑賞する行為は『徒然草』にも読み取れます。
                     (時の雫_水の音(3)へつづく)

エッセイは毎週金曜日に発信します。


【参考文献】
日本の美学編集委員会(1998)『日本の美学 水 流れとうつろい』27 ぺりかん社


サポートを励みに暮らしの中の気づきを丁寧に綴ってゆきたいと思います。 どうぞ宜しくお願い致します。