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#1時の雫_庭の花(2/3)

<切れ>という概念

<切れ>とは大橋良介氏によると、

直接的な自然性をいったんは切る技法である。その技によって自然の自然性はいったんは否定されながら、かえってその内的な本性へと純化され、純化した姿において蘇る。そういう切れ・つづきとしての<切れ>は、伝統的な日本芸術全般のなかに含まれている。(p.35)

大橋良介「<切れ>と<いき>「近代」<モデルネ>の時間構造との連関で」

とあり、書道や生け花、茶道、作庭等々に通底する基本的な技(同、p.33)であると述べられています。大橋氏によれば俳句における「切れ字」なども<切れ>の現れであると指摘します。つまり、切れ字は眼前の日常的な世界をいったん切り取り、そこにあらたな美を見出すものであるとのこと。たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な芭蕉の俳句でいえば、「古池」という対象は切れ字によって切り取られ、「蛙」「水の音」とともに「自然界はこの句のなかでその直接的な自然性が切り取られるとともに、より自然らしい自然として蘇(同、p.34)」らせることとなります。
 このような説明を施しながら、大橋氏は生け花における<切れ>を次のように説明しています。

 (※生け花は)花をその茎から切り取って、自然的生命の勢いを根元で奪うことである。生けられた花は花瓶から水を吸って生命を保つが、根をもたないがゆえに花は生命保持のサイクルを反復して増殖することができない。しかし際限のない「生への意志」がまさにその根元から断ち切られることによって、花のもつ本来の有限性と自然生とは純粋な仕方で表現にもたらされる。(同、p.35※は筆者が補ったものです。以下、同様。)

大橋良介「<切れ>と<いき>「近代」<モデルネ>の時間構造との連関で」

<切る>ことと生けること、生きること

 生け花において、花は人為的に大地から切り離されます。しかし、私たちはそれらの花を「生け花」として、すなわち、まさに字のごとく「花を生かす」ように花器にいけていくのです。そのとき、花と器と空間のバランスは長い伝統の中で形成された「型」に従うことになりますが、「型」は決して眼前にある花の個性を一律、均質的なものにおとしめることはしません。私の感覚では、なぜ「型」があることによって花の個性が浮かび上がってくるのか、今の時点ではまだ上手に説明できず、伝統のなせる技だと感ぜざるをえません。大橋氏はこうした「伝統的な日本芸術に見出される「型」を単なる「様式化」と区別し、「強制を加えることではなくて、解放すること(同、p.37)」と指摘しています。<つづく>


エッセイは毎週金曜日に配信する予定です。

【参考文献】
大橋良介(1992)「<切れ>と<いき>「近代」<モデルネ>の時間構造との連関で」日本の美学編集委員会編『日本の美学』19 ぺりかん社


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