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#3時の雫_能「氷室」・安寧の祈り(2/2)

涼味を味わうこと


 今、この時代に氷を手に入れることはいとも容易なことです。しかし、言うまでもなく当時、氷はたいへん貴重なものでした。氷を口に含むことはある種のぜいたくであったはずです。飢えをしのぎ、暖をとることが生命の維持に欠かせない処置であるとすれば、涼味はいわば嗜好品です。しかし、その涼味を涼味として味わえるのは、世が安寧であってこそです。氷調(ひつぎ)は、今年も氷室の氷が保たれたという世の泰平を祝賀し自然風土を賛美する儀式であったのではないかと思われます。
 「氷室」は神事物とも呼ばれる脇能で、主役は神です。お話自体は氷を朝廷にみつぐこと、つまり君主の治世を称えるものではありますが、直接的に描き出されるのは神の威厳です。本来、春が来れば融けるはずの氷が消えないのは、君主の御影のみならず、山神木神(ほくしん)の守護があるからと、「氷室」の詞章は自然神の威光を称えるのです。後場、氷室の明神が巌の影から現れる際に地謡は次のように謡います。

山河も震動し天地も響き、寒風しきりに肝を縮(つづ)めて、紅蓮(ぐれん)大紅蓮の、氷を戴く氷室の神体、冴え輝きてぞ現れたる

国立能楽堂(2020)『国立能楽堂』第441号

氷室の明神は穏やかな神というわけではありません。山河を動かし、天地を響かせ、寒風を吹かせ、紅蓮地獄を思わせるような氷で山河を閉じつける威力をも持ち得ています。氷室において夏まで氷が守られるということは、自然神の怒りをかうことなく、国土が穏やかであることの証にほかならず、「氷室」は自然風土の安寧を祈るものではないかと思われるのです。

災厄と祈り


 能の起源は未詳部分が多いものの、田楽や猿楽にあると言われます。ことのほか田楽は田植えにおける五穀豊穣を祈願した儀式から切り離せません。また能の大成者、世阿弥が完成させた夢幻能は死者の弔いが基底にありますし、能は多くの登場人物が歴史上、不遇であった人々です。能には祈りというものが織り込まれていると感じます。
 「氷室」をみて、私がいつもにまして静かな気持になったのは、能をみながら私自身も祈りを捧げていたからではないかと思います。
 この数年、日本の国土は豪雨に遭遇し、川の氾濫と土砂崩れが人の命と暮らしを奪うという災厄にみまわれています。森林が7割を占めるこの国土は水をたずさえる山と川の国でもあります。山が静寂を保ち、木深き氷室で氷が保たれる。日の差す山野には春の訪れとともに若葉が芽吹き、雪解け水が清流をなす。夏の訪れとともに梅雨が田畑を潤し、五穀を育てる。そうした穏やかな季節の巡りの中で、新雪を閉じ込めた氷を口に含むことはどれだけの幸福感をもたらすものであったことでしょう。しかし現実としては、そのような穏やかな季節の巡りは少なかったのではないかと想像されます。天災、人災という災厄のなかで今も昔も人々は心を痛め、祈りを捧げながら暮らして来たのではないでしょうか。
 毎年、夏は豪雨災害のニュースに気が休まりません。穏やかな季節の到来を祈り続ける毎日です。

<#2残りゆくもの 夏の訪れ・氷室_安寧の祈り 終わり>


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