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#6 時の雫_夏の色、子どもの眼(2/3)

 お母さんからいただいた花はいわば庭に咲くか弱い草木の一種ですが、その花々はひまわり、ノウゼンカズラに劣らず、一つひとつの持つエネルギーが凝縮したような鮮やかで力強い色をしていました。

幼少期の思い出


 夏の色、と言って良いのかもしれません。私はこの庭の花々の持つ鮮やかな色彩に息をのむと同時に、幼少期に過ごした夏休みを思い出しました。
 それは両親の故郷である鳥取の記憶です。夏休みの思い出といえば、数々にあるはずですが、私にとって何ものにも代えがたいのが幼少期で過ごした鳥取の夏の景色なのです。そして、それらを象徴するのが緑と朱という色です。
 緑とは、水田の青々とした稲の色、背丈の高い草と川、親戚がご馳走してくれた天然の鮎の色。朱とは、川に向かうたびに通った朱塗りの橋、そして川を眺める私の眼の前を軽やかに飛んで行くたくさんの赤とんぼの色。これらの色の記憶が鮮明に蘇ってきます。
 その記憶には匂いや音ももちろん伴っているのですが、私の夏の記憶といえば、青空の下、目に飛び込んできた緑や朱という色なのです。子どもの頃の私をとらえたのは、夏の強い日差しに放たれた緑と朱という光の対称性だったのだろうと思います。むろん、このような説明を施すのは今の大人になってからのことで、子どもの頃の私は夏の暑い日差しを感じ、眼の前に広がる水田の緑や自分の背丈より高い草の緑に圧倒され、鮎の清らかな緑に感激し、緑の風景のなかの朱を単純にきれいだと感じたに過ぎません。

子どもの眼


 「わ、きれい」「あ、すごい」。これらは稚拙な言葉です。否、子どもの目に感じたものは、まず言葉以前の言葉として表出されます。「わ!」「あ!」という感動詞がそれです。それに続く「きれい」という形容動詞や「すごい」という形容詞は、その感動を「説明」しようとして出てくるのであろうと思われます。やがて数々の具体的な経験を積んだ後に、自分が感動したものを表すのにふさわしい「形容」語を見つけてゆくことになります。それは言葉を獲得して行く上では大切なプロセスではあるのですが、同時に言葉を獲得して行くなかで失っていくものもあるのではないかと思われます。
 橋本治氏はその著書『人はなぜ「美しい」がわかるのか』において、美しいということがしばしばギリシャ彫刻における美の黄金比のように合理的な説明が付与されがちであることに対して、それだけでは「美しい」が説明しきれないことを述べ、次のような指摘をしています。

(#5 時の雫_夏の色、子どもの眼 つづく)

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