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#1時の雫_庭の花(3/3)

<切る>ことと<生きる>こと


なるほど、私も花をいけるときは、なるべく花が庭で咲いていたときの姿(これを生け花では「出生」(しゅっしょう)と言います)を思い出しながら、花器と空間の宇宙のなかで伸びやかに生きるよう、祈るような気持ちで花器に挿していきます。大地から切り取られた花々のいのちは有限ですから、時間とともに朽ちてゆくのですが、その姿を含めて、花のいのちを大切にいけるというのが、生け花であると私は感じています。
 5月に長野から持ち帰った花は、その後、あやめの花が咲ききり、芍薬の花のつぼみが膨らみ、次々に目を楽しませてくれました。あやめの花と小手毬の枝を整えた頃だったでしょうか、リビングにいけた花の写真を長野のお母さんに送ったところ、お母さんからお手紙が届きました。「雑草だらけの庭から(※切り取られた花々が)一躍、世に出た様ですね。感謝します。」とのこと。そして、このような句が添えられていました。

選ばれし庭の花々世に出づる

「切る」という行為は生け花だけに見られるものではありません。大橋氏が指摘するように伝統的な日本芸術の中に存在するほか、考えてみれば、私たちの生活のなかには、何かと何かを切り離す行為が多々、見られます。日常生活を切り離し、旅に出ること。日々の生活のなかで、区切りをつけること。これらは「切る」という行為を経て、日常に新たな息吹をもたらしているはずです。思えば、生きることも、「い」/「きる」ことなのではないでしょうか。
 庭主によって丁寧に育てられた庭の花を通して、そのいのちの尊さ、日常生活の新たな一面が見出されたできごとでした。

<#1残りゆくもの_庭の花 終わり>

【参考文献】
大橋良介(1992)「<切れ>と<いき>「近代」<モデルネ>の時間構造との連関で」日本の美学編集委員会編『日本の美学』19 ぺりかん社


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