見出し画像

トライアングル 1

<あらすじ>
親同士の再婚できょうだいになったカオルとトモユキ。正反対の互いを受け入れつつ、家族になっていく二人だが、高校生になった頃、カオルは同性のトモユキに恋している自分に気づき、戸惑う。そしてトモユキには、カオルに語っていない過去、出生の秘密があった。やがてカオルは彼の過去と秘密に巻き込まれ、桜子という少女に出会う。桜子もまた、行き場のない思いを抱えており、三人三様の思いは時に迷走し、時に許し合い、そして許されず絡み合っていく。そしてトモユキの秘密とは。同性間、近親間の恋心に向き合いながら、三人はそれぞれの答えを見つけられるのか。





序章  出会い <side カオル>

 僕たちが出会ったのは、僕、岸本カオルが十一歳で、トモユキが十二歳のときだ。二人とも小学六年生になったばかりだった。

 パートナーを失くした男と女が子連れ再婚して、その子どもたちが家族になる。世間ではよくある話だ。その子どもたち……トモユキは四月生まれで、僕は三月生まれ。学年は同じだったが、ほぼ一年の月齢差があったためか、僕は父親から「お兄ちゃんができるんだ」と聞かされていたし、トモユキもまた母親に「弟に優しくしてあげてね」と言われていた。だが、初めて会ったときに、トモユキは僕にこう言った。

「アンタのこと弟だとは思わないから。大体、今日初めて会って兄弟なんかになれるかって思わない?」

 いきなりアンタ呼ばわりされて僕は一瞬怯んだ……そしてトモユキのそんな生意気な口調に、周囲の大人たちも慌てていた。それでその場を何とか収めようとして「でもそれが家族になるっていうことだから」とかなんとか、しどろもどろに言うものの、トモユキの物怖じしない言い方に比べれば、それは僕にとってさえ、まったく説得力のないものだった。
 それに、実のところ僕は父親の再婚のことをあまり深く考えていなかった。七歳で母親を亡くして、父親が大変だったのを見てきたし、自分自身もすごく寂しかったのだ。だから、新しいお母さんができることが単純に嬉しくて、父親の再婚イコール新しい家族が形成されるということが、よくわかっていなかった。ただ、新しいお母さんが自分を気に入ってくれるだろうか、そんなことばかり心配していたから、目の前に降って沸いた同じ学年の子どもの出現を、どうとらえていいのか、僕はとまどっていた。
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
 そんなわけで僕は従順にトモユキに問い、満足そうに笑ってトモユキは言った。

「トモ」

 そしてトモは、僕が子ども心にも「綺麗だなあ」と思った眉をちょっとイタズラっぽく動かして見せて、今度は僕に問いかけた。僕の周りには、そんな仕草をする友だちは居なかったので、なんだかドキドキした。
「えっと、アンタは?」
「……カオル」
 アンタじゃないよ、と心の中で文句を言いながら、僕は素直に答えた。

 それが僕たちの出会いだった。

 

 こんなふうに、僕のことを弟とは思わない、と宣言したトモだったけれど、母親と再婚した僕の父親のことは、驚くほどすんなりと「父さん」と呼んだ。新しいお母さんを心待ちにしていた僕でさえ、気恥ずかしさと一抹の違和感は拭えずに、なかなか最初の「お母さん」が言えなかったのに……やはり、生意気でも大人には気を使うのだろうか。なんとなく僕は釈然としなかった。この時の僕の、トモに対するしっくりとこない感覚は直感に近いものだったのだが、幼かった僕は、それ以上突き詰めて考えるようなことはしなかった。「何かヘンなの」それだけで片付けてしまった違和感は、しばらく僕の記憶の中にしまい込まれることになる。

 トモは、あらゆる面で僕とは違っていた。言いたいことははっきりと言うし、自分が正しいと思えば、躊躇なく、たとえそれが、年上や大人であったとしても堂々と対峙した。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。小さい頃から嫌なことをはっきりと言えなかった僕は、そんなトモが実のところ羨ましかった。

 僕が通っていた学校に転入してきてからは、その子どもらしからぬルックスも手伝って、女子からはキャーキャー言われ、その大人びた雰囲気ゆえに、男子からは妬みと羨望の入り混じった目を向けられ、先生からは問題児扱いされながらも、勉強もスポーツもそつなくこなし、一目置かれる存在だった。

 僕はといえば、今までは地味に平和な平凡な毎日を送っていたのが、トモの言動のせいでハラハラさせられ、気が休まる時がなくなってしまった。実際、いつもトモのことが気になって、彼が言ったり、したりすることのフォローを一生懸命にやっていた。だがトモは、悪いことや、ずるいこともするけれど、いつも限界にひっかかるスレスレで結果的に尻尾を出さず、「ここからは絶対にだめ」と言うラインを厳密に引ける技量を持っている子どもだった。
「何も、カオルが気にすることないだろ?」
 僕がオロオロするたびに、トモは飄々としたものだった。

 そんなわけで、常に周囲の注目を集めるトモだったが、でも彼は基本的に誰ともつるまなかった。トモの一番近くにいたのは僕だった。一緒に住んでいる家族だから、物理的にそれは当然のことだけれど、トモの空気に触れていてもいい、僕はそんな特権を与えられていたような気になっていた。トモもまた、「しょうがないよなあカオルは」なんて言いながら、とびきりの綺麗な笑顔で僕を甘やかす。

 でも、そんな僕でも、トモがまとう、ある独特な空気の範囲を超えて踏み入ることは決して赦されなかった。それは子ども心にも痛いほどよくわかったのだ。決して立ち入らせてくれない空間があること……わかっていたけれど、トモは僕の憧れだった。トモが笑いかけてくれると嬉しくて、二段ベッドのどっちで寝るかでもめる、そんな些細なことも嬉しくて、自分にないものをいっぱい持っているトモがまぶしくて仕方がなかった。時折、トモが見せる暗い表情や冷たい雰囲気が何なのか気になりながらも、僕はいつも、だからこそ、トモから目が離せないでいた。

 でも、僕は知らなかっただけだった。あの時感じた「釈然としない」意味を、そして、奔放さの裏側にあった屈折した感情とトモを苦しめていた傷跡を、まだ知る由もなかったのだ。


第一章  誕生日<side カオル>


 その日は、僕の十四回目の誕生日だった。

 誕生日が二週間くらいしか開いてないので、ああもう、いっそ一度にしてくれてかまわないのにと、二人とも思うのだけど、玲子母さんはそこは譲らない。(僕は母親のことをそう呼んでいた)そして毎年、それぞれの誕生日に二人の好きなものをこれでもかというくらい作って、年齢の数だけのローソクを立てたケーキも用意してくれるのだった。

「あーもう、俺たちもうすぐ中三だよ? 来月の俺の誕生日にはもうやめてくれよな」

 トモが、でっかいイチゴを口に放り込みながら言った。でも、僕はこの誕生日のイベントが好きだった。玲子母さんが用意してくれる気持ちがすごく嬉しい。僕は早くに母親を亡くしたから、よけいにそうなのかもしれないけれど、トモはもったいないことを言う、といつも思っていた。
「まだカオルくんがローソクの火を消してないでしょ?」
 トモの抗議を無視して、玲子母さんはイチゴをつまんだその手をぱしっと叩いた。
「くっだらね……」
 不機嫌なトモを横目に、僕はケーキのローソクに向かう。イチゴが一個抜けて、バランスの崩れたケーキが可笑しい。
 ローソクを吹き消す時に、僕はいつも心の中で願いごとを唱える。これは子どもの頃からの習慣で、さすがに今は口には出さないけれど。そして我ながら子どもっぽいかなとは思うけれど。

(おかあさんが、かえってきますように)

(背が、高くなりますように)

(ぜんそくが、よくなりますように)

 子どもの頃からそんなふうに積み上げてきた、ささやかな願いごと。さあ、今年はどうしよう。
 僕はすーっと息を吸い込む。隣で、トモがかったるそうに様子を見ている。父さんと玲子母さんが笑っている。この幸せな風景がいつまでも続けばいい、と安易に僕は思っていた。

 ――このまま、みんな変わらずにいられますように。

 でも、僕の十四歳の願い事は、叶わない方向で歯車が動き出していたのだった。


 その日は僕の誕生日ということもあって、普段は帰宅の遅い父さんも早く帰ってきて、家族みんなで一緒に夕食をとった。夕食後、父さんはビールをあけて、ニュース番組を見始めた。玲子母さんは片付けを始め、僕はスマホをいじり、トモは雑誌をパラパラとめくっていた。ごくごく普通の、夕食後の幸せな風景だった。
 そんな平和な水面に石が投じられ、波紋が広がる。石を投げたのはトモだった。

「父さん、俺、ちょっとお願いというか相談があるんだけど」
 トモが不意に言った。
「ん?」
 父さんはニュースから目を上げてトモを見る。トモはソファの父さんの隣に座ると、単刀直入に切り出した。
「俺さあ、自分だけの部屋が欲しいんだけど」
 トモの口調は明快だった……僕たちは今、一部屋を共有して、二段ベッドを使っている。
 僕は、LINEを打っていた手を止めた。完全に不意打ちだった。トモのその言葉に、自分で思った以上に動揺していた。
「ほら、俺たちクラスは別だし、たぶん三年になってもそうだと思うし、友だちとかもそれぞれ違うから、今のままだとお互い気を使うこともあるし」
 お互いってなんだよ、僕はそんな話聞いてない。それに、トモの口から「気を遣う」なんて、こんなに似合わない言葉はないから! 僕は平静を装いながら憤慨していた。そしてトモの提案は流暢にまだ続く。

「それに、やっぱりお互い一人になりたいときもあるじゃん?」

 だからお互いって何だよ! 言葉がそこまで出かかってるのに、口に出せない。これは、プライドなのか、意地なのか。
「ああ、そりゃそうだな。勉強だって気が散ることもあるだろうし」 
 父さんの答えは軽かった。そもそも、父さんはトモに甘い。それはわからないでもないけれど……。
「気が付かなくて悪かったな。私の書斎をどちらかで使うといい。書斎と言っても物置みたいなものだし、本とか他の物は私たちの寝室に運んで……」
 完全に僕はカヤの外だった。二人とも、僕がそこにいることに気付かないかのように話を進めている。
「で、でも、カオルくんはどうなの?」
 僕が一人で放り出されていることに気付いていたのか、少し上ずった声で間に入ったのは玲子母さんだった。
「二人の部屋のことなんだから、二人で決めなくちゃ」
 玲子母さんは、こういう、トモと父さんのほのぼのしながらも、ある意味僕を置いてきぼりな空気に敏感だ。父さんがトモに甘いように、玲子母さんは僕に気を遣う。でも、今の僕はその気遣いが素直に喜べなかった。

「別に、トモがそうしたいんならそうすれば? 僕はどっちでもいいし」

 そんなこと初めて聞いたけど、別に話し合うほどのことでもないだろ? さらりとした雰囲気を、僕は言葉と態度に込めた。玲子母さんは、なんだかまだ、おろおろしている。
「じゃあ、二人でどっちを使うか決めて、自分たちで引っ越せよ」
 そう言って、父さんの目線はもうニュースに戻っている。そして、トモは僕の下手な芝居なんかお見通しだった。

 イライラした気分を引きずったまま部屋に戻った僕は、明日の英語で当たることを思い出して、仕方なく机に向かった。けれど、教科書の文字がまったく目に入って来なくて、ますますイライラが募る。その時、ドアの開く音がして、トモがタオルで髪を拭きながら部屋に入ってきた。
「フロお先。お前も早く入れって母さんが言ってた」
 僕は無視して、シャープペンをくるくる回し、目の前を無意味に泳いでいく文字を見ながら、予習に没頭しているフリをした。

「ガキ」

 唐突にトモが言った。
「お前が何をそんなに怒ってんのか、俺、正直言ってわかんないんだけど?」
 僕は無視を続ける。
「そりゃ、相談しなかったのは悪かったよ。けど、カオルだって自分の部屋があった方がいいだろ?」
 トモは、僕のとなりにイスを持ってきて座った。ふっと、シャンプーの香りが流れてきて、なぜだかわからないけど、僕の心臓はどくんと音を立てた。
「それともお前、そんなに俺と離れるのがイヤだったとか?」
 そう言って、トモは僕の首に長い腕を巻きつけると、自分の方にぐっと引き寄せた。
「なんとか言えよ? いいかげんに……」 
 口調は、あいつなりの冗談だし、こんなふうにじゃれあってふざけたことも何度もある。尤も、それは小学生の頃のことで、最近はじゃれ合うことはなかったのだが……けれど、けれど、トモのその言葉と行為は、僕の感情をブチ切らせるのに十分だった。

「うるさい!」

 僕は、そう言っている自分の声を聞いた。
 心臓が怖いくらいにバクバク言っている。僕が腕を振りほどいた時に体勢をくずしたらしいトモは、そのまま床の上に転がっていた。
 僕を見上げるトモの目が、だんだん冷たくなっていく。不意に変わる、そのトモの表情が、僕は昔から怖かった。だが今は、そんなものに怯んではいられなかった。
「僕が邪魔になったんなら、そう言えばいいだろ?」
 これじゃただのヒステリーだ、そう思っても止まらない。
「どうせ、女の子連れ込みたいだけなんだろ? それがなんだよ。一人になりたいとか、勉強がなんとか、イイ子ぶりやがって!」
 トモと付き合いたい女の子は、それこそたくさんいる。けれど、短期間で相手を変えながら、誰にもマジにならず、器用に適当に付き合いをこなしている。それを悪く言われようと、全然気にもせず、昨日も飄々と新しい女の子と歩いているのを見たばかりだ。
 自分が言った言葉が引き金になって、突然入り込んできたその情景は、ますます僕を傷つけた。悔しいけど、情けないけど、涙が滲んでくる。僕は小さい頃から本当に成長していない……。
「……んだよ。勝手に盛り上がりやがって」
 トモの口調は最高潮に冷たい。
「訳わかんねえよ、うざい」
 だんだんと、人を突き放した、冴え冴えとした口調に変わっていく。トモの冷たい口調は、周囲の空気でさえ凍らせるようだった。
「妬いてるのか? いい加減に俺離れしろっての。兄ちゃんが遠くへ行っちゃうみたいで寂しいんだろ? 俺はお前に妬かれたって嬉しくもなんともないけど」
 トモのその言葉は耐え難い痛みとなって、容赦なく僕の心をぐさぐさと刺した。「弟じゃないって言ったのはトモじゃないかよ……」
 それだけ言うのがやっとだった。

 悔しい。悔しい。

「出てけよっ!」
 僕が投げつけた英和辞書は、トモの顔を掠めたが、トモは黙って罪のない英和辞書を机に置いた。ドアの閉まる音がして、トモは部屋を出て行った。


 春休みが始まった。
 あれから僕とトモはほとんど口を聞かず、ケンカは当然今までだってしたけれど、今回はこれまでで一番やっかいな状況に違いなかった。
 トモが何を思ってるのかは読めなくて、僕は完全に意地をはっていた。あれだけブチ切れてしまった自分を思い出すと「なんであそこまで腹が立ったんだろう」と思いながらも、あとには引けなかったのだ。
 父さんは仕事でほとんど家を空けていたので、玲子母さんが例によって一人落ち着かない様子だった。トモは一人で書斎を片付け、必要なものを新しい部屋に運び込んでいたが、当然、僕はいっさい手伝ってやらなかった。
 そんな冷戦状態が続くある日のことだった。玲子母さんが僕を「買い物に行こう」と誘った。
「この機会にね、二人の部屋にシングルベッドを入れようかと思って。ほら、二人とも背が伸びたから、今のベッドじゃ狭いでしょ?」
「ああ、そういえばそうだね」
 僕は気のない返事をした。部屋のことにはまだ、触れられたくなかった。
「智行はね、何か約束があるんだって。だから二人だけど、ベッド選びに行って久しぶりに食事でもしない?」
 ニコっと笑う玲子母さんの顔に僕は弱い。僕にまた気を遣っているんだろうけど……こんなに優しい母さんから、どうしてあんな横暴な奴が生まれたんだか。


 ごくごくシンプルなベッドを二つ選んで、シーツやカバーも新調してもらった。トモは「何でもいい」と言ったらしいので、嫌がらせに花柄とか選んでやろうかと思ったが、後が怖いのでやめた。そのあと二人でパスタを食べ、欲しかったスニーカーを買ってもらった。
「誕生日のプレゼント、遅くなってごめんね」
 玲子母さんは嬉しそうに言った。僕がめちゃめちゃ喜んでいると、母さんはもっと嬉しそうに笑った。
「今日はホントに楽しかった。付き合ってもらってありがとうね」
「いやそんな……僕こそプレゼントまで買ってもらって」
 嬉しいんだけど、よそよそしい会話だと我ながら思う。玲子母さんは大好きだけれど、やっぱり僕に気を遣いすぎるのが窮屈だ。
「智行は、こういうの喜ばなくって」
 玲子母さんはポツリと言った。
「そりゃあね、思春期の男の子だから母親と出かけるのってうっとうしかったりするわよね。でも、欲しがってたものを買ってあげたりしても無愛想で」
 ああ、母さんはトモの喜ぶ顔が見たいんだな。そんなの、簡単なことのような気がするけど、トモだから上手くいかないのかな……。
「照れてるだけだと思うよ」
 僕がそう言うと、玲子母さんは安心したように笑った。
「あ、それからね、カオルくん……」
 そして玲子母さんは、ちょっと思い切ったように切り出した。
「こんなこと、カオルくんにしか聞けないんだけど」
「なに?」
「あの子ね、いろんな女の子と付き合ってるみたいで」
「ああ、あいつすっげーモテるから」
 僕は軽く返したけれど、玲子母さんの目は真剣だった。あとで知った話だけど、トモがひどく振った女の子の親から、ウチに電話がかかってきてたらしい。もちろん苦情。
「いろいろ、よくない噂も聞こえてくるものだから。カオルくん、何か知ってる?」
 何かって……何を言えばいいんだか。僕は味気なく、母さんの問いを反芻した。「一人に決めてないっていうか、そこまでマジになれる子がいないだけだと思うけど」
 なんで僕がこんなこと言わなきゃならないんだと、空しくなってきた。
「その……あの子、妙に大人びたところがあって、何考えてるのかわからないし、いろいろあったら……結局、傷つくのは女の子でしょ?」
 玲子母さんの言葉を聞きながら、ちょっと腹が立ってきた。母さんの心配はわかる。でも、僕にこんな相談されたって、という理不尽な憤り。
「その、心だけじゃなくて……」
 玲子母さんは言いづらそうに言葉を捜していた。

 ココロダケジャナクテ……?

「……嫌だ」
 僕は無意識に、心に忍び込んできた感情を声に出していた。
「そう、嫌よね、あの子ったら」
 ハッとしたが、母さんはどうやら違う方向に僕の言葉を理解したみたいだった。
「とにかくさ、学校でのトモのことは気を付けとくけど、でも、そういうことは父さんに相談した方がいいんじゃないの?」
 僕は、さっきの自分の感情を軌道修正すべく、早口で言った。
「そう、そうよね。カオルくんに言うようなことじゃなかったよね」
 母さんは、ゴメンねと手を合わせている。そんなふうに気を遣ってくれなくてもいいのに……と僕はまた思った。

 それから数日後、僕たちの部屋にそれぞれ新しいベッドが入り、書斎も片付いて、トモは新しい部屋へと移って行った。僕へのあてつけのように、トモはあのケンカの日からリビングのソファで寝ていたのだ。部屋を移ったとはいえ、廊下を挟んで向かい側だ。大げさなことではないのに、僕は廊下を隔てたそのわずかな距離が寂しかった。

 ーー寂しかったんだ。

「カオルくん、咳き込んでるけど、大丈夫?」
 玲子母さんが心配そうに僕の顔色をうかがった。
「季節の変わり目だから……薬は持ってるわよね」
「うん、大丈夫」
 僕は季節の変わり目の、気温差が大きい時期に弱い。だいぶん丈夫になったけれど、この時期には喘息の発作が起きやすい。僕がトモの前で初めて発作を起こした時、トモは慌てて、びっくりして、どうしたらいいかわからずに青ざめていたっけ……ふと、そんなことを思い出した。
 あいつのあんなに心配そうな顔は、それ以来一度も見ていない気がする……僕は首を振った。なんだってこんな事でトモのことを思い出すんだか。

 その夜、新しいベッドに仰向けに寝転がって、僕は天井をぼんやりと見上げていた。天井って、こんな色だったっけ? 今まで、頭上にあったのは、二段ベッドの上段の床部分だった。なんだかんだ言って、僕はいつもベッドの場所争いでトモに負けていて、でも、そこにトモがいるという存在感はいつでも僕を安堵させた。最初に喘息の発作に遭遇した時にはびっくりして動けなかったトモだけど、それから僕が発作を起こした時には、すぐに気付いて上の段から降りてきて、背中をさすってくれた。

 天井が高い。

 部屋が広い。

 トモがいない。

 ずっとこのままでいたい、って誕生日に願ったのに、これから少しずつ、いろんなことがどんどん変わって行くような気がした。その最初の変化がこれだったのかもしれないと思ったら、泣けてきそうになった。たぶん、あいつはそんなこと、カケラも思っちゃいないのに。認めたくないけど、僕はその温度差が悲しかった。「寝よ……」
 僕は、玲子母さんが余分に用意してくれた毛布を頭までかぶって、頭や心の中からトモを閉め出した。

 どれくらい時間がたっただろう。息苦しさで目が覚めた。呼吸が、ぜいぜい、ひゅうひゅう言っている。
「やば……」
 なんとか息を整えながら、机の引き出しから気管支拡張の吸入薬を取り出し、一気に吸い込んだ。横になっていると苦しいから、ベッドの背にもたれて様子を見る。普段ならこれで大抵治まってくるのだが、今回はなかなか楽にならない。なんとかもう一度、薬を使おうとするが、呼吸が乱れて上手くいかない。
(誰か……呼ばなくちゃ……スマホで……)
 ダメだ。呼吸が乱れて動けない。こんなにひどいのは久しぶりだった。寒々とした部屋の中に、ぜいぜい、ひゅうひゅうという喘鳴がやけに響く。ものすごく心細くなって、このまま死んじゃうんじゃないかなんて情けないことを考え出した、その時だった。

「カオル!」

 ドアが開いたかと思うと、そこにトモが立っていた。
「大丈夫か? 嫌な予感がしたんだよ……お前、この季節弱いから」
「……トモ、どうし……」
「ああ、しゃべんな、しゃべんな。薬は使った?」
 何日も、目さえ合わさなかったトモがそこにいる。トモは自分たちの間にわだかまりもなかったように、自然にそこに立っている。そしてベッドに腰掛けると、僕の背中をその手のひらでさすり出した。トモが来てくれた……。
「ちょっと、いつもよりひどいんじゃ?」
 僕は肩で息をしながらうなずいた。
「じゃあ、ちょっと治まったら母さん起こしてくるから救急行って……」

 トモ……

 トモ……

 僕は、トモの言葉を遮ってトモに抱きついた。一瞬、驚いて背中をさする手が止まったけれど、発作の苦しさでしがみついたと思ったんだろう、トモはそのまま僕を抱きとめる格好で背中をさすり続けてくれた。
「トモ……」
「ほら、大丈夫だから弱気になんな」
 呼吸が少しずつ楽になってきた。薬が効いてきたのか、トモが背中をさすってくれたからなのか、それはきっと後者だったと、今でも僕は思っている。
「な、部屋なんか離れたってお前が苦しいときはこうして来てやれるんだよ」
 トモは諭すように言った。
 それ反則だ。トモは優しい時と冷たい時の差が激しすぎるんだ。僕はいつまで、その差に着いて行けるんだろう……そして今週末はトモの誕生日だ。また一つ、先へ行くんだなあ……やっと、追いついたと思ったのにーー。
 トモの腕の中で彼にもたれて、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。

 発作が出た次の日、僕は念のために数日間の入院になったが、トモの誕生日の前に退院できた。春休みはもう終盤。新学期はもうすぐそこだった。
 トモの誕生日には、やっぱり十五本のローソクの立ったケーキが用意されていて、「やめろって言ったのに」とトモは文句を言った。でも、そんなのは照れ隠しだと僕は知っている。トモの誕生日を一緒に過ごしたい女の子たちはたくさんいるけれど、トモは一度だって誕生日を女の子たちと過ごしたことはない。必ず家で玲子母さんの作ったケーキを食べるのだ。素直に嬉しいと言えばいいのに、と見ていて思うけど、トモは一生懸命悪ぶっている。だから「本当は嬉しいんだよ」と玲子母さんに後でこっそり教えてあげようと僕は思った。
 トモがケーキの前に座った時に、僕は無造作に、駅前のCDショップの青い紙袋を差し出した。
「これ、確か欲しいって言ってたから」
 中を見たトモの顔が、見る見るほころんで紅潮した。つられて僕も赤くなる。金欠で買えないと言っていた、トモの好きなアーティストのベスト盤。DVD特典つきのやつだ。
 僕たちは、お互いに誕生日にプレゼントなんてやりとりしたことがない。女の子同士なら、そういうのもアリだったと思うけど、出会った頃、小学校高学年だった僕たちには、すでにそういうノリはなかった。
「でも、俺、カオルのとき何も……」
「トモがそんなふうに遠慮するとキモいよ」
 照れ隠しで僕は残酷なことをさらりと言ってのけ、そして付け足した。

「この前のお礼だよ」

 本当は仲直りしたかったのだ。でも面と向かって、ごめんとかありがとうが言えなくて、せめて喜んでくれたらいいなと思いながら買ったプレゼントだった。
「いやその……ありがとうな」
「トモがありがとうって言った!」
 僕は大げさなリアクションをして見せた。珍しく照れているトモに驚いて、そんな顔を見られたことがとても嬉しかったのだ。
 子どもっぽい駄々はやめよう。いつまでもベッタリでいられるわけじゃないんだ。少しくらい離れたって、僕とトモは何も変わらない。
「さあ、あなたたち、それくらいにして」
 玲子母さんがケーキのローソクに火をつけた。トモは真面目な顔でローソクに向き合う。ほら、やっぱり誕生日はトモにとって大事なセレモニーなんだ。そうじゃなければ、あんな真剣な顔はしない。

 彼が十五本の火を吹き消すのを、僕はそっと見守った。


トライアングル2に続く



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?