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トライアングル14

第八章 秘密 4<side カオル>

 約四十分後。駅前のショッピングモールの大きな仕掛け時計の扉が開いて、楽器を持った人形たちが、午後十時を告げた。何するでもなく、ぼうっと人形たちが踊るのを眺めていたら、桜子が目の前に現われた。
「ごめんね」
 走ってきたのか、ちょっと顔を上気させた彼女に、僕は小さく頭を下げた。
「ううん。理由が何でも、カオルくんから会いたいって言ってくれたの、初めてだったから……」
「ごめん」
 そんなことを言われたらあやまるしかなくって、僕はいたたまれなくなった。「違うの。嫌味とかじゃないのよ?」
 彼女はあせって否定した。それが社交辞令ではないのがわかったので、今度はただ「うん」と言った。嫌味じゃないなら、僕がこんな情けない状況で呼び出して、彼女を頼ったことを喜んでくれているんだろうかと思うと、すごく申し訳ない。だから、照れずに本当のことを言った。
「財布忘れて家飛び出して、困ってたのは事実だけど、でも本当に、キミに会いたいって思ったんだよ」
 桜子は驚いた顔で僕を見上げた。

「家の方、大丈夫だった?」
 並んで歩きながら僕は聞いた。
「もう遅い時間だし、出にくかっただろ?」
「へーき。お父さんもお母さんも今、新しい人形に夢中だから、あたしが何しようと興味ないの」
 今度は僕が驚く番だった。勝手な思い込みだが、こういう口調でこういう台詞が彼女から出てくるなんて、思いもしなかったのだ。
「カオルくんは? 家で何かあったの?」
 桜子はそんな僕を無視してか、気付かずか、言葉を続けた。
「家に帰れない、なんて」
「帰れないっていうか」
「帰りたくない?」
 僕は黙って頷いた。彼女に甘え始めている自分を感じた。
「じゃあ、今晩一緒に居てあげよっか?」
 僕はまた驚いて、今度は立ち止まってしまった。そして、桜子は悪戯っぽく笑うと、固まった僕を置いて、カフェの回転扉の中に、先にするりと入っていった。

 なんだろう、今日の彼女はいつもと何か違う。僕が「会いたい」と気持ちを吐露したからか、それとも、僕の彼女に対する見方が変わったのか。多分その両方なんだと思う。僕は、今まで彼女の何を見てきたのか、見ようとしなかったのか、今日始めて、彼女に向き合ったような気がする。そして、そんな彼女の雰囲気に引っ張られるように、僕は自分でも驚くくらい、素直にいろんなことを話したくなってしまったのだった。
「今日……すごくつらいことがあって、それで義理の兄貴に八つ当たりしちゃったんだ」
 トモを義理の兄、と形容するのは妙だけれど、嘘じゃない。あの感情を八つ当たりと言っていいのかは、わからないけれどーー 
「つらいこと?」
 桜子のカップがカタカタと音を立てて揺れたけど、僕は気に留めなかった。
「好きなひとと、何かあった?」
 彼女の問いかけが優しいので、僕はつい、口をすべらせたんだと思うーー
「彼女ができたんだ……多分、アソビじゃない本気の彼女」
 そう、桜子の問いかけが本当に優しかったので、僕は甘えてしまった。甘えて口をすべらせた。自分が「彼女」という言葉を使ったことにすら、気がつかなかった。
「か・のじょ?」
 桜子はおかしなところで言葉を区切り、カップはまた小刻みに小さく揺れた。その時、僕は始めて「彼女ができた」と言ったことに気がついたが、否定する気は起きなかった。

 も、いいや。

 この子になら知られてもいい。"好きになってはいけない人"はあるんだろうかと遠い目をし、僕に好きな相手がいても、側にいたいと言ってくれた彼女だからこそ、僕は本当のことを言わなくちゃいけない。
「そう……僕が好きなのって男なんだ」
 僕は、誰にも言ったことのない真実を、初めて彼女に告げた。なんだか神聖なかんじがした。桜子もまた、神聖な告白に真剣な目で挑んでくれていた。多少、動揺の影は見えるが、それは仕方がないだろう。
「ずっと側にいた、親友みたいな、きょうだいみたいなヤツ」
 本当は、そのどちらでもなかった。だが僕は、トモと僕の関係を説明する言葉を持たなかった。トモは、トモだ。
「……ひく?」
 桜子は首を横に振った。
「僕はそいつと離れたくなくて、ほんとの気持ちを言ったら、きっと側にいられなくなるから。だから"好きになってはいけない人"」
 キーワードで言葉を結んだ。
 長い間、胸の中でくずぶっていたその思いは、抑圧されたかたちでトモに向かってほとばしってしまったけれど、こうして言葉に置きかえて誰かに話すことで、客観的な位置を得た。僕を見つめる桜子の真摯な視線は決して、拒否でも嫌悪でも、ましてや同情でもなく、優しい距離感をもって、まるで共感のような温かさで、僕に投げかけられていた。
「そう……つらかったね」
 彼女はそれだけ言って、うつむいた。まるで独り言みたいな言葉だったけれど、僕を癒し慰めるのに十分だった。
 本当は、桜子に確かめたいことがあった。トモが言っていた「俺が知っている朝比奈桜子なら」ということだ。トモと桜子は知り合いなのか? それともただの偶然の一致なのか。だが、その時の彼女は僕に寄り添いながらも、自らも癒しを求めているような感じがした。桜子が示してくれた共感でもって、僕もまた、彼女の心に寄り添うことができたのかもしれない。彼女が「それでもあなたの側にいたい」「好きになってはいけない人ってあるのかな」と言ったあの日から、僕の心の中にずっとあった、ある思いは、ひそやかな確信へと変わった。
 だから、そんな彼女に秘密めいたことを今、問いただすなんてできない。ポケットの中では、マナーにしていたスマホのバイブレーションが、自己主張をするかのように響いていた。
「あのね、あたしカオルくんに話さなきゃいけないことが……」
 少しの沈黙のあと、桜子は思い切ったように言った。
「ほんとは、他に好きな人がいるんじゃない?」
 ひそやかな、確信。
「そうなんじゃないかなって、思ってたよ」
 桜子はうるんだ目で僕を見た。唇が震えている。トモに見つめられていると、錯覚しそうだった。
「"好きになってはいけない人"?」
「ごめ……なさ……」
 桜子の目から、あふれていた涙が零れた。
「あたし、あなたを利用した……」
 肩を震わせ、声を殺して泣く同士を、僕はこの時始めて、トモに似た女の子ではなく、一人の恋する女の子として見た。
「いいんだ。僕だってキミを利用してた」
 本当に悪かったと思う。実物の彼女を見ようとしなかった。そして、彼女がなぜ僕を選んだのかは、きっと彼女なりの理由があるんだろう。僕にも桜子に会う理由があったように。
「キミは、僕の好きなヤツに似てる。だから……」
 ゴメンを言おうとしたら、そっと手を重ねられた。"好きになってはいけない人"のキーワードが僕たちの間に生まれた、あの時のように。
 重ねた彼女の手の甲の上に涙が落ちる。僕は、桜子の手のひらの下にあった親指を伸ばして、その涙を拭った。僕たちには、慰め合うことが必要だった……ここから始まる、あの衝動はそうでなければ説明がつかない。

「キスしていい?」

 返事の代わりに、桜子はそっと目を閉じる。カフェの片隅、肩を寄せ合って、僕たちは触れるだけの、長いキスをした。
 そのキスのあと、僕たちはいたたまれなくなってカフェを出た。
「送るよ。すっかり遅くなっちゃったから」
 気恥ずかしさを隠すため、僕はいくぶん早口だった。
「でも……」
「まさか、ホントに一晩一緒に居てもらうワケにいかないし」
「別にいいのに」
 桜子はちょっと不満そうだった。彼女の方こそ、家に帰りたくないのかなと思いながらも「いいって」と、冗談ぽく笑って返す。
「じゃあ、どうするの? 帰りたくないって言ってたのに」
「帰るよ」
 問題を引き延ばしたところで、どうすればいいかなんて答えは出ない。スマホにはトモからの着信とLINEがかなりの数になっていた。

ーーどこにいるの?

ーー帰ってくるだろ?

ーーとにかくデンワして

 LINEの文面は短いけれど、どれも悲痛な感じがした。行き先も告げず飛び出した僕を心配しているその文面には、トモ自身の不安も、ありありと読み取れた。顔を合わせても何て言ったらいいのかわからないけれど、結局僕はトモが傷つくことがつらいのだ。自分がトモを傷つけることがつらいのだ。
 とにかく帰って、夏休みに入ったら父さんたちのところへ行くって言おう。しばらく戻って来ないって……抱きしめたこととか、額にキスしたこととか、そういうことはすっ飛ばして、僕は結論だけはしっかりと持っていた。大丈夫、今度は取り乱さずにちゃんと話せる。桜子と会ったおかげで心は落ち着いていた。
 二人で電車に乗り、二つ目の駅で降りた。ここでいいと言う桜子を制して、終電には間に合うからと、彼女の家に続く道を一緒に歩いた。
 閑静な住宅地だった。アンティークっぽい街灯が、細くて柔らかい光を道に投げかけている。商業施設が立ち並ぶ、僕の近所の町並みとは雰囲気が違っていた。「いいとこだね」
「そうでもないよ」
 桜子は否定的なことを言った。そして、そんなことはどうでもいいけど、といった雰囲気で言葉を続けた。
「あたし、まだ、カオルくんに話さなきゃいけないことがあるの」
 桜子は街灯の下で立ち止まった。 
「ぜんぶ……話すから。たぶん、カオルくんが知りたいこともあるし、知らないこともいっぱいあると思う」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないわ……聞いてほしいの。でも、時間がかかると思うから」
 彼女は仰ぐように僕を見上げた。
「明日、土曜日だし、どこか遠くへ出かけない?」
「うん」
 僕がOKすると、安心したように桜子は笑った。笑って、背伸びして僕の唇にそっと自分の唇を触れた。僕は彼女からのキスを受け止め、顔が離れると、今度は僕から触れた。

 そんなふうに、僕たちは何度もキスをした。両思いでもないけれど、アソビでもない。けれど二人とも、だんだん深くなる、言い訳のつかないキスを止められなかった。

トライアングル15に続く



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