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トライアングル15

第九章 センチメンタルジャーニーと、一人の夜 1<side カオル>


 昨夜、家に帰ったら午前零時を過ぎていた。もう少しで終電を逃すところで、かなりあせった。

 桜子と終電を逃しそうになるようなことをしていたからだが、その間、僕は家に帰ってトモと話さなきゃいけないことを、考えないようにしていたのだと思う。桜子と話したことで落ち着いて、ちゃんと話す決心がついたつもりだったのに、電車で一人になると、反動で現実が押し寄せてきた。だから、どうかトモが寝ていますようにと、ひたすら及び腰で家に帰り着いたのだった。

 玄関のドアは開いていた。無用心だと思ったけれど、トモが僕のために開けておいてくれたのだと思うとせつなくなった。トモはリビングのソファの上で、服のまま丸くなって眠っていたので、僕はすごくほっとして、気がぬけてその場に座り込んでしまった。安心している場合じゃない。ちゃんと話さなきゃいけないのに。やっぱり家に入ると、胃がキリキリと痛んだ。
 タオルケットをかけてやった時、トモの手にスマホが握り締められていることに気がついた。僕はそれを見ないようにして、その場を立ち去った。本当は、ずっと見ていたいような寝顔だったのだけれど……

 シャワーを浴びてベッドに倒れこむと、急に眠気が襲ってきた。
 ああ、昨日は何て長い一日だったんだ。一生の半分くらいの濃い体験を一日でこなしたような気分だった……トモの元カノに呼び出されて、トモと坂崎のことを知らされ、彼女の泣きにつき合った。そして二人のキスシーンを目撃して、トモとケンカになって、あげくの果てに押し倒した。そして、家を飛び出して桜子に会って、いろんな話をして、いっぱいキスをしたーー
 頭の中に、昨日一日の出来事が駆け巡った。「走馬灯」というのはこういうのを言うのかもしれない。でも、これで全部じゃない。
 全部話すからと桜子は言った。そうなんだ、わからないことというか、整理しなきゃいけないことがたくさんあるんだ。トモと桜子は何か関係があるのか、桜子が僕に近付いた理由、そして、桜子の"好きになってはいけない人"
 桜子が話してくれたら、僕もちゃんと言おう。キミに似てる、僕の好きな人というのは、同居してる義理の兄弟です。つらいことがあって八つ当たりしたのは他ならぬ本人で、八つ当たりの内容は……ああ、そんなことまでは言わなくてもいいのか。明日はトモが起きる前に家を出よう……逃げるみたいだけど、話をするのは、いろんなことがわかってからでも遅くない……
 うつろになって行く意識の中で、僕は思考の断片をかき集め、がんばっていろんなことを考えていた。でもその作業も限界で、まさに眠りに落ちようとしたその時、ドアをノックする音がして、僕は一瞬こちらに引き戻された。

「カオル、もう寝た?」
 トモだった。僕はタオルケットとシーツの間で、追い詰められたウサギみたいに息を殺した。
「……カオル?」
 声と一緒に、今度はドアが少し開く音がした。トモの声が少しクリアになる
「今日は……あ、もう昨日だけど、取り乱してゴメン。今度ちゃんと話すから……それから」
 少し間を置いて生まれた沈黙は恐ろしいほどの静寂で、僕は全身が耳になったような感覚でトモの言葉を待った。
「あのことは、俺、怒ってないから……そりゃびっくりしたけど……カオルがもし気にしてたら、いけないと思って」
 それだけ言うと、ドアは開けた時よりも若干乱暴に閉められた。パタパタと足音が遠のいていく。
 トモなりに、僕が家を飛び出した理由を一生懸命考えたんだろう。じゃあ、その前段は? 僕がなぜお前を抱きしめたのかは考えたのか? 僕はまた、思考の断片を集め、さっきよりはクリアになった頭でトモを思った。
 わかっているのは、トモは僕が起きていたのを、知っていたんだろうということだけだった。


 早朝の駅前広場のベンチで、僕はコンビニのサンドイッチを食べていた。桜子との待ち合わせ時間にはまだ間があったけれど、寝ているトモを置いて家を出たのだった。
 ーー今日は友だちと出かけるから、遅くなる。メシは待たないで
 たったそれだけのLINEを送信して、電池残量が危なかったけど、ワザと充電しなかった。しかも、桜子のことを友だちって何だよ、と自分にツッコミを入れる。友だちじゃないだろ、彼女でもないけど……
 海へ行こうと桜子は言った。こういう時ってどうして海なんだろうな。女の子は海が好きだよな。それが近場の海じゃないことくらい、僕にもわかっていた。彼女は「時間がかかる」と言った。全て話すには時間がかかると。
 あまり寝ていなかったが、目は冴えていた。目の前を何人も犬を連れた人が行き交い、互いに軽く会釈をしている。こんな時間に町が動き出していることを新鮮な目で見守っていると、広場ではラジオ体操が始まった。
 ーー新しい朝が来た。希望の朝だ。
 その、超前向きな歌詞がいたたまれなくて、僕は立ち上がった。少し早いけど、桜子と待ち合わせた駅へと向かうべく、電車に乗る。
 

 土曜の朝早くの急行電車は思ったよりもすいていた。夏休み前とは言うものの、気の早い観光客や海水浴客がいるかもと思っていたが、家族は車で移動するんだろう。電車の中は、練習試合に向かうらしい、一目でわかる部活軍団や、僕たちみたいな軽装の二人連れカップルがほとんどだった。
 狭いシートに並んで座ると、桜子はかごバッグから、冷えた缶コーヒーを取り出した。
「えーと、日本海の方へ行くんだよね」
 プルトップを開けながら聞くと、
「うん。もう海開きしてるから家族連れが多いと思うけど、穴場があるから大丈夫」
「よく知ってるね、穴場なんて」
「前、うちの別荘があって、よく行ったから」
 別荘!
「あ、そんなに大したモノじゃないのよ」
 僕のリアクションを見て、桜子は笑って否定した。昨夜見た住宅街といい、彼女はどこかのおじょーさまなんだろうな。
 おじょーさまは人懐こく笑って、僕のポロシャツの袖を軽く引っ張った。
「あたしたちもあんな風に見えるのかな?」
ドアのところに立っている高校生らしきカップルを見る。
「デートしてるみたいに」
「デートじゃないの?」
 僕はちょっと意地悪く笑い返した。これくらいの冗談が言えるほどには、僕たちは打ち解けていた。
「違うよ」
 桜子も笑う。
「じゃあ何?」
「センチメンタルジャーニー?」
 自嘲的な軽口だったけれど、二人で思い切り笑った。さっきのカップルが怪訝そうにこちらを見ていた。

 
 途中、乗り換えの駅で早めにファストフードの昼食をとって、もう一度、今度は在来線に乗り込んだ。車窓の風景はだんだんと緑の色が濃くなり、やがて窓いっぱいに海が開けた。
「すげー」
 僕は、遠足の小学生みたいに窓に身を乗り出し、桜子は「もう着くよ」とコトもなげに言った。まるで海なんか見慣れてて何でもないという感じだった。ただ遊びに来たわけじゃないってことはわかっていたけれど、僕はリラックスしていたし、できれば難しい話なんてしないで、このまま小旅行を楽しめればいいのに、とさえ思っていた。だから、桜子の淡々とした口調は、僕を現実に引き戻した。
 彼女について、いかにも地方の小都市といった雰囲気の駅に降り立つと、ここからはバスに乗るんだと桜子は言った。
 ローカルなバスに揺られて四十分。途中で買い物袋をさげたおばあさんが何人か乗り降りした以外は、誰も利用者がなかった。学校が休みとはいえ、こんなので運営ができるのかと、人事ながら心配になる。遠くへ来たんだな、とふと思った。
 バスを降りると、風が海の匂いを運んできた。桜子が言ったように、そこは人気が少なくて、ひっそりとしている。すぐ側には、のどかな風景には不似合いな、白亜のリゾートホテルが砂浜を見下ろしていた。
 ーー穴場っていうより、プライベートビーチだよな。
 声には出さず、桜子と並んで歩く。彼女はやはり慣れた感じで、砂地をミュールで器用に歩いていた。
 次に桜子は、かごバッグからおそろしく折りたたまれたシートを出して木陰に敷いた。どうやって収納していたのか、帽子も出してきてかぶっている。
「暑い?」
 涼しげな顔で聞かれたが、風があるし日陰だから大丈夫、と僕が言うと、かごバッグから今度は、水筒と銀色の保冷袋を出した。
「こっちは冷たい紅茶ね。それから、お弁当っていうほどじゃないけど、サンドイッチと果物が少しあるから」
 ドラえもんのポケットみたいにいろんなモノが出てくるかごバッグに僕は関心し、さらにその用意をしてきてくれた持ち主に感謝の目を向けた。
「ごめん、朝早いから大変だったろ?」
「ううん、楽しみだったから」
 楽しみと言いながらも、桜子の目は寂しげだった。
「えっと、何か話があるんだよね」
 僕の返答は空気を読まないものだった。しまった、と思った時には遅かった。「うん……」
 小さく言った彼女の顔は、帽子の陰にかくれてしまった。
 それから、桜子はしばらく黙ったままで、僕たちはほとんど話をせずに、紅茶を飲んだり、サンドイッチを食べたりした。僕が「おいしい」と言うと、桜子は「よかった」と答えた。会話はそれだけだった。だけど、その空気はまったりとして、寂しい感じはしたが、居心地の悪いものではなかった。だが、僕たちの沈黙は、目の前に飛んできたフリスビーによって、突然に破られた。
「すみませーん!」
 小学生くらいの男の子と、その父親らしき人が手を振り、会釈した。僕は立ち上がってフリスビーを投げ返すと、もう一度桜子の隣に、すとんと腰を下ろした。「家、大丈夫だった? 昨日」
 フリスビーの親子に視線を合わせたまま、桜子は言った。
「義理のお兄さんはーー」
 心なしか、桜子の声が強張っている。
「もう寝てたよ」
 僕は、何故か彼女に口火を切らせるのが辛くなった。その役目は僕が負うべきだ、と感じた。
「キミと、トモってもしかして知り合いなの?」
「どうして?」
 彼女は用心深く、線を引くみたいに言った。トモって誰? とは聞かなかった。「トモが、自分が知ってる朝比奈桜子だったら、もう会うなって」
「それでケンカになって家を飛び出した?」
「ケンカってわけじゃないけど……」
 身体に、ふっとトモの体温が甦る。その感覚を振り切るように、僕は考えた。
 もう間違いない。彼女は「トモの知っている朝比奈桜子」に違いない。
「智行とあたしは双子のきょうだいなの。あたしは智行の妹」
 まるで、何時ですかと聞かれて時間を告げるように、さらりと桜子は言った。僕は、一瞬言われたことがわからなかった。
「一緒に暮らしたことはないけどね」


「双子? いもうと?」
 問い返す僕の声は上ずっていた。
「智行のお母さん、玲子さんが再婚する前は、朝比奈智行っていう名前だったの。知らなかった? だからあたし、すぐにバレるんじゃないかって思ってたのに」「バレるとか言うなよ……」
 その言葉の選択はないだろ、僕が咎めると、桜子は小さく「ごめんなさい」と言った。
「トモが、玲子母さんの本当の子どもじゃないっていうのは、トモから聞いてたけど……」
 ああ、だから似てるんだ。きょうだいだったんだからーーこの突拍子もない話も、驚いたけれど、僕には十分に納得のいくものだった。
「智行は本当のことは知らないと思う。あたしのことはイトコだって思ってる。あたしと会うなって言ったのは、たぶん、朝比奈の人間とかかわってほしくなかったから」
 桜子は淡々と言った。
 玲子母さんが、妹がいるという真実をなぜ告げなかったのかは、簡単に想像がつく。実の兄と妹から生まれたこと、その二人の心中に巻き込まれたことは、トモのトラウマだ。
 死の淵から生還した、幼いトモを思う。よかった、トモが生きててくれて本当によかった。突然押し寄せた感傷に、僕は飲み込まれそうになる。必至で感傷の海を泳ぎ、何とか岸にたどり着く。溺れている場合じゃない。真実を知る旅は、まだ始まったばかりだ。
「あたしはね、育ての親に聞いたの、ていうか聞かされた」
「本当の親が、実の兄妹だった……ってことも知ってるよ」
「そう」
 桜子は僕を見ずに言った。彼女の視線は波打ち際から水平線へと動き、そしてまた僕のところへと帰ってきた。
「跡継ぎだった智行はそのまま、父親とその奥さんに引き取られて、あたしは、二人のお姉さんだった、長女夫婦に引き取られたんだって」
 桜子は淡々と語り始めた。感情の篭らない口調は、かえって彼女の傷の深さを物語るようだった。
 話の概要はこうだーー


 朝比奈家は明治時代から続く旧家で、華族の血が流れているという。今なお古い因習とプライドを保ち続けている家だった。
 当時、朝比奈家には二人の娘と息子が一人いた。長女、長男、次女である。しかしながら、長男と次女の間にあやまちが起こった。長男には妻があり、次女は音楽の勉強のためにドイツに留学中であったが、二人の関係が露呈した時、すでに次女は妊娠しており、堕胎はできない時期にあった。
 生まれたのは男の子と女の子の双子。DNA鑑定により兄妹の子どもということが明らかになると、子どもたちは母親から引き離され、男の子は父親である兄とその妻に、女の子は子どもに恵まれていなかった、長女夫婦に託された。
 出産した妹は、難産と、子どもから引き離されたショックのために心身を病み、その後、入退院を繰り返したーー


「じゃあ、二人が無理心中を図ったことも知ってるの?」
 桜子は掠れた声で言った。この事実を言葉にするのも聞くのも、拷問のように辛かった。
「トモが巻き込まれたことも知ってる」
 僕の答えに、桜子は大きく目を見開いた。 
「智行は……本当にカオルくんのこと信頼してるんだ」
 その信頼を失うようなことを、僕はしてしまったけれどーー思い出すと、胸が掻きむしられるようだった。
「よかった」
 桜子は涙を拭った。
「智行は一人ぼっちじゃなかったんだ」
「そんなこと言ったら、キミは一人ぼっちみたいに聞こえるよ」
 それが彼女の傷を抉ることはわかっていたのに、言わずにいられなかった。言って、彼女の膿を出し切ってやりたかった。
「一人ぼっちだよ」
 頼りない、彼女の肩。その向こうにトモの幻が透けて見えた。けれど、トモには玲子母さんがいて、今は父さんもいる。僕も……いる。
「三年前にね、弟が生まれたの」
「うん」
「あの人たちにとっては、諦めていたところに生まれた待望の男の子で、その瞬間に、あたしはいらなくなったんだと思う」
 桜子は堰をきったように語った。
「それまで、お父さんもお母さんも優しくないなって思ったことはあったけど、でも少なくともあたしに無関心じゃなかった。ややこしい子どもを押し付けられて、でもあたしを育ててくれた。あたしは本当の子どもじゃないなんて思いもしなかった。でもね、弟が生まれて、お母さんはあたしにすべてをぶちまけたの。やっとあなたたちから解放される。これからは好きにしたらいいって」
 僕は黙って彼女の話を聞いていた。怒りが湧き上がってきたけれど、黙って聞いた。
「玲子さんと智行が朝比奈を出て行ってから、実質上の跡継ぎはあたしだったの。もちろん、あたしはそんなことはどうでもよかったけど、でも、跡継ぎはやっぱり男の子でなけりゃいけないっていうのがあって、あの人たちは自分の子どもと跡継ぎの両方を手に入れた。だからあたしは用なしになったのよ」
「新しい人形っていうのは、弟のこと?」
「そうよ」
 そんなものに例えるなよ、なんて正論を振りかざして言えなかった。彼女は存在を否定されて、居場所を失ったのだ。
「全部聞いて、いろんなことがわかったの」
 桜子は話を続ける。
「小さい頃から、親戚の集まりであたしと智行が近付くと、みんな必死になって遠ざけようとしたわ。子どもにもわかるくらいに、すごく不自然だった。あたしたちが親の二の舞を踏むんじゃないかって、みんな恐かったのよ。でも、もう遅かった」
 その、最後の言葉を僕は聞き過ごすことはできなかった。彼女の深遠に触れたのだと思ったけれど、今の彼女にそのことを問い詰めるなんてできなかった。彼女は、おそらく誰にも語ったことのない心情をぶちまけ、深く傷ついていた。誰かが彼女を抱きしめて癒してやらねばならなかった。
 僕の腕の中で、一瞬、桜子は身を固くした。すり抜けようとする細い肩をつかまえて、もう一度ぎゅっと抱きしめる。
 身勝手な大人たちに翻弄された、トモと桜子。トモを抱きしめたいと思う気持ちと、桜子をこうして抱きしめている気持ちと、自分の中では整理できているつもりだったけれど、その境界は、今とても曖昧で、どうでもいいことに思えた。傷ついた二人を抱きしめて癒してやりたい。それだけだった。なのに僕は、トモを中途半端に置いて来てしまったーー
「そんなにしたら、また、キスしたくなっちゃうよ」
 桜子は泣きながら言った。
「カオルくんには、あたしによく似た、好きな人がいるのに……」
 言葉の続きは、キスで塞いだ。桜子の言葉は空気中に溶けて、やがて吐息に変わる。
 辺りは、見事な夕焼けだったけれど、僕たちは見ていなかった。そして、桜子の話はまだ終わっていない。僕たちの小旅行は、夜へと向かおうとしていた。


トライアングル16に続く


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