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トライアングル11

第八章 秘密 1 <stdeトモ>

「はあ……」

 カオルを見送って玄関のカギを閉めると、俺はため息をついた。
 そそくさと出て行くあいつ。夏原からの呼び出しなんて言ってたけれど、あれでごまかしたつもりなのか、バレバレだろ、と俺はちょっと苛々する。でも、まあ、そんなとこが可愛いんだけど、と思いながら、一方で一生懸命にウソをつくカオルに、俺は不審感と寂しさを感じずにいられない。でも、俺もカオルに隠し事をしている。いや、何度も言おうとしたのだけれどーー

 午後九時三0分。彼女からLINEが来た.今日貸したCDの感想と、明日の英語の小テストのこと。そして、今日一緒に帰れて嬉しかったという、簡単な内容だった。
 短い返信をして、スマホを放り出す。俺は、あまりメールやLINEは得意じゃない。相手の表情や声を感じずに、メッセージを交わすことに抵抗がある。文章のウラにあるものを、つい探してしまうのだ。けれど、彼女のメールはいつも簡潔で、ごちゃごちゃした絵文字も、スタンプあまりも使わない。今まで付き合ってきた女の子たちと、そんなふうに少しずつ彼女は違っていた。そして、その違いは俺にとって居心地のいいもので、自分自身そんな発見に新鮮な驚きを感じたりしている。 
 坂崎春菜……カオルのことを好きだった女の子だ。


 彼女は、俺が前につき合っていた女の子の友だちで、俺たちとカオルと坂崎とでダブルデートしたことがある。坂崎はカオルを好きで、でも実際、カオルが彼女をフッた理由というのがよくわからなかった。というより、カオルには断る理由がなかったのだ。
 あいつは自分なりの理由でぐだぐだ言っていたが、やっぱり好きなコが居たんじゃないかと思う。とはいえ、まったく心あたりがない。一緒に住んでいながら、俺はカオルのことを案外知らないんじゃないかと、その時感じたのだけど……
 その頃からカオルは情緒不安定になって、坂崎はそのことをすごく心配していた。心配して電話したら撥ね付けられて、落ち込んでいるとこを俺が慰めたり、話を聞いたりしているうちに、俺たちの距離は少しずつ近くなっていった。
 こういう「始まり」は初めてだ。いつも、向こうから声をかけて来ることがほとんどだった。そして、気に入れば付き合ってみて、新鮮さを感じられなくなってきた頃に自然消滅させたり、一方的に終わりを告げたり。適当に出会って適当につき合ってるから、別れも適当だった。
 そんな関係がむなしくないと言えばウソになるけど、こんなものかと思いながらも、俺は「本当に好きになってくれるひと、好きになれるひと」を心のどこかでずっと期待していた。こんなふうにしていれば、いつかそんな相手とめぐり合えるんじゃないかと。
 だから、友だちの延長のように始まった坂崎との関係に正直戸惑っている。始まりの言葉もなければ、承諾の言葉もない。気が付いたら近くにいるようになった彼女には、ときめきよりも安らぎを感じる。

 これは恋なんだろうか? 穏やかすぎてわからない。けれど、その穏やかさは居心地よくて、俺はゆったりと流されている状態だ。
「けど、やっぱりカオルにはちゃんと言っといた方がいいよな」
 カオルのいない部屋はやけに広く感じられた。これが寂しいってことなのかな。つき合いかけた女の子がいて、以前よりクラスのやつらともいい関係になって、なのにこの寂しさは何だ? まるで、あるべき物がそこにないかのような、すとんと抜け落ちたような喪失感。精神的に満たされた子ども時代ではなかったけれど、母さんがいつでも側に居てくれたし、こんな喪失感は……知らない。それが、カオルに原因するものであることを、俺は認めなくてはならなかった。

 カオルが離れて行く。

 今までも何度かあいつは、急に俺から離れようとした。でもその度にあいつを引き止めてきたのは俺じゃなかったか? 自分でも、カオルに依存している自覚はある。自分自身の弱さと傷口をさらしてから、俺はカオルの前でバランスを保てなくなっている。
 坂崎のことを話すと、そんな俺たちの関係は、何か確実に変わるような気がした。自分自身、その変化を望んでいるのか避けたいのかがわからないのだ。
「言わなきゃ」
 俺はもう一度つぶやく。秘密めいた、俺とカオルの今の関係は、とにかく息苦しかった。


 カオルが帰ってきたのは、たぶん十一時くらいだったのだと思う。俺はテレビを観ながら、何をするでもなく待っていたのだけれど、いつの間にかソファで眠ってしまったようだった。
 ……今、何時?
 寝苦しさで目が覚めて、目をこすりながらスマホを見ると、午前一時三十八分。 
 ――カオル?
 ソファの足元にカオルのボディバッグが無造作に置いてある。なんだ、帰ってきたんなら起こしてくれたらいいのに……
 起き上がった俺は、その時初めて、自分の身体にタオルケットがかけてあることに気がついた。すると途端に、ついさっきカオルに文句を言ったことが申し訳なく思えてきた。言いようのないやるせなさが押し寄せてきて、何かにすがるようにそのタオルケットを掻き寄せ、顔をうずめる。
「また、言いそびれちゃったな……」
 タオルの中でくぐもった声は、自分の声じゃないみたいだ。二人の暮らしが始まった頃は、こんな気詰まりな日が来るなんで思ってもいなかった。楽しいことばっかり想像して、実際、楽しいには違いないのだけれど、想像していたような、もっと手放しで無邪気なーーそんな日はもう来ないような気がした。
 俺たち、ちょっと近すぎたのかもしれない。そんな風にセンチメンタルに落ち込んで、勝手に分析していた俺だったけど、現実にカオルがタオルケットをどんな気持ちでかけたのかなんて、まったく気付きもしていなかった。

 結局。

 タイミングをはずした俺たちは、互いの話を切り出すことも聞き出すこともなく、居心地のよくない、危うい距離を保ち続けた。表面上は事なきを装いながらも、相手に対してどこか物足りなさともどかしさを感じながら……実際、この時の俺は、坂崎のことを考えるよりもカオルのことを考えている方が多かった。ただ、相手の考えていることを知りたいと願い、それでいて自分の中身を知られるのは恐い。
 いくら女の子と付き合ってきていても、俺はこういう葛藤に疎かった。それはまるで、片思いのような感覚だったと、ずっと後になって俺は理解したのだけど。


「お前ってさあ、坂崎とつき合ってんの?」
 夏原がそう聞いてきたのは、それから十日ほど過ぎた頃だった。
 俺と夏原は、選択教科が終わって、学食のカフェテリアで向かい合っていたが、夏原は、最初からそのことを聞くつもりだったのかもしれない。目が真面目だった。
「うん」
 俺はあっさりと答えた。別に隠してたわけじゃないし、ここで否定するのは坂崎に対しても誠実じゃないと思ったのだ。それに、隠してたつもりじゃないのに、カオルの耳に入らなかったのは、あいつの方が俺を何気に避けていたからだーーと思う。
「カオルは知らないみたいなんだけど」と、夏原。
「言ってないからな」
「やっぱ言いにくい?」
 前にカオルから聞いてたけど、夏原は実に微妙なところをついてくる。
「言うつもりだったけど……タイミング外した」
 聡い夏原は、それだけの説明で事態を読み取ってくれたようだった。
「坂崎は何て?」
「やっぱりカオルのことは気になるみたいだけど、でも、フッたのはあいつの方だし」
「そうだよな。別につき合ってたわけじゃないしな」
 夏原は、何か含みのある言い方をして、俺はそれがちょっと気に障った。
「……何だよ」
「ん?」
「言いたいことがあるなら言えば?」
「……俺はちょっと、カオルが心配なだけだよ」
 夏原の答えは意外だった。そしてもっと意外だったのは、その口調と表情だった。俺が黙っているので、夏原は答えを続ける。
「去年ぐらいから、あいつ妙に不安定だよな。俺は一応、あいつのこと親友だって思ってるから、あいつがお前に振り回されてるっぽいのが、気になるわけよ」
「俺が……カオルを振り回してるって?」
「正直、俺は最初、お前のこと、気にいらねーヤツだって思ってたよ。でも、話してみりゃいいヤツだってわかったし、人を見かけで判断しちゃいけないって思ったよ……だから言わせてもらう」
 俺には、夏原が何を言おうとしているのかわからなかった。けど、堂々とカオルを守ろうとして、俺に意見する目の前のヤツに、俺は妙な苛立ちを覚え始めた。そして夏原の言葉は、そんな俺の苛立ちを、ますます大きくして行くのだった。
「カオルはさ、何でだかわからないけど、いつでもお前のことでいっぱいいっぱいで、まともに女の子ともつき合えないんだよ。なのにお前は、そんなあいつの気も知らないで……」
「……何が言いたい……」
 悔しかった。もやもやしたものが身体の奥から突き上げてきて、俺はそれだけ言うのがやっとだった。
「そりゃ、兄弟同然で育ってきたんだから、いろんなことがあるんだろ? けど、もういいじゃないかよ。もういい加減に、あいつのこと解放してやれって言ってんの」
 解放?
 その聞きなれない言葉は、心に突き刺ささり、痛みを主張する。
「俺が……カオルを束縛してるって言うのか?」
 それは、聞いたこともない自分の声だった。夏原の無遠慮な言葉に、俺は苛立ち、そして傷ついた。
「何が……何がアンタにわかるって言うんだよ。俺は、アンタなんかよりずっとカオルの側にいるんだ。俺たちのこと……カオルのこと、それ以上わかったようなことを言うな!」
 わかっている。夏原はいいヤツだ。本当にカオルのことを心配して。そしてきっと俺のことも心配して。でも、湧き上がる感情を抑えることができない。突き上げてきたもやもやが爆発して、俺はどうすればいいかわからなかった。こんな、扱いに困る感情は初めてだ。
「何それ……お前、俺に嫉妬してんの?」
 夏原は冷めた声で言った。
「……嫉妬?」
「俺の方が側にいるのにって……カオルも大概のトモコンだけど、トモだって負けてないじゃん」
「トモコン?」
 爆発した感情が、少しずつ静まってくる感じがした……というよりも、少し毒気を抜かれたような感じだった。
「トモユキコンプレックス」
「何だよそれ……」
 夏原は俺の問いには答えずに、ちょっと笑った。
「……悪い。俺、ちょっと言いすぎたわ」
 毒気を抜かれたのは、夏原も同じらしかった。
「何か俺、熱くなると言い過ぎちまうんだよな……でも、お前、ちゃんとカオルのこと考えてるんだよな。安心したよ」
 そう言って、夏原は俺の肩を叩いた。
「時々でいいから、そうやってお前の気持ち見せてやれよな」
 俺の返事を待たずに夏原は席を立ち、一人残された俺は、そのまま動けずに夏原の言った言葉を反芻していた。

 ーー解放? 嫉妬?

 嫉妬だって?
 確かに俺は、自分以外の人間がカオルのことをわかったように語るのが気に入らなくて、腹が立った。俺の方がカオルの側にいるのに、確かにそう思った。でも、これは嫉妬なのか?
 わからなかった。何人も女の子と付き合ったけど、彼女たちが別の男と話そうが、二股かけられようが……こんな気持ちは知らない。まるで、自分のものをとられたような……こんな幼い感情は。


 その夜、夏原からLINEが来た。
「ゴメンな」とひとこと。夏原に言われたことはそれなりにショックだったけれど、そんなに気にすることないのに、と思いながら、キッチンで夕食の片付けをしているカオルの背中をチラッと見た。カオルが向こうを向いたままなのを確認して、こそこそとスマホをみる。簡潔なあっさりとした文だ。

 ーー今日、ほんと言いすぎたわ。カオルとケンカすんなよ

 今は、ケンカにすらならないんだよな……ため息をついて、返信を打つ。

 ーー気にしなくていいって。言ってくれてよかったし、俺もちょっと思うとこある

 そこまで打って考えた。思うとこって何だよ……俺の知りたいこと? カオルには聞けないけれど、夏原なら何か知ってるかもしれない。今までも何度かそう思ったけれど、ウラでこそこそしてるみたいでやめたんだけど……
 も、いいや。
 いい加減にすっきりしたかった俺は、思い切って続きを打った。

 ーーカオルのつき合ってるコのこと何か知ってる?

 返信には少し間があった。何をどう答えるべきか迷わせたのかもしれない。

 ーーなんで?

 その短い返信は、かえって意味深だった。夏原は確実に俺たち二人の間に立ってやきもきしている、と確信して返事を打つ。
 
 ーー知りたいから。でも、カオルに避けられてるし、俺からも……聞けない。星心女子の二年ってことは知ってる

 キーを打ちながら、妙に胸がドキドキした。すぐ側にいるカオルに隠れるようにして、俺は何をやってるんだ? その背中に聞けばすむことなのに。
 今度はすぐに返信が来た。

 ーー俺もあんまりよく知らない。名前は、確かサクラコ

 サクラコ?
 俺はLINEの画面を凝視した。
 サクラコだって?

 返信を打とうとしたが、指が強張ってちゃんと動いてくれない。それは、俺がどうしても受け入れられない思い出の中に存在する名前だったからだ。
 
ーー苗字は?

ーーわかんね

 苗字はわからない……その返信を見たら、緊張が解けて脱力した。思わず握っていたらしい手のひらには、じっとりと嫌な汗をかいている。とりあえず夏原に「サンキュ」と返信して、LINEを閉じた。
 キッチンでは、カオルが食器を拭きあげているところだった。俺と目が合ったカオルは、怪訝そうな顔で聞いた。
「どうかした?」
「ん? どうもしないよ」
 急いで笑顔を作り、我ながら不自然なほどに明るく言って俺は立ち上がった。
「俺も手伝う」
 カオルはちょっと不審な顔をしていた。それもそのはずだ。ここ最近の俺たちは近くにいても、必要なこと以外は話さないような、よそよそしい距離を保ち続けていたのだから……俺のワザとらしい明るさは、カオルにとって不自然以外の何者でもなかっただろう。そうやって明るく振舞えば振舞うほど、俺は自分自身の動揺を感じずにはいられなかった。
 カオルの付き合っているサクラコが、俺の知っている桜子なのかどうか……違う、きっと偶然の一致に違いない。単に同じ名前だっただけだ。そんなめぐり合わせがあるわけない……俺は必死で自分に言い聞かせていた。
 これはきっと罰ゲームみたいなモノだ。夏原の言うように、カオルに依存して、甘えて、無意識のうちに縛り付けてきた、そんな自分へのペナルティだ。
 この時、俺は初めてカオルに執着している自分を認めた。経験したことのない胸の痛み。カオルを気遣う夏原に対して感じたイライラもまた、同じような痛みだったと思う。それは甘さを伴う痛みというよりも、大事なものを目の前で持ち去られて、無様にじたばたしているような、悔しさを伴う痛みではあったけれど。

 調べなければ、サクラコのことを。
 渡したくない、サクラコという名前の女の子になんか……!


トライアングル12に続く


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