トライアングル10
第七章 その先にあるもの 3 <sideカオル>
これはデートの誘いなのか? 「了解」と打ったものの、いざ返信しようとなると、妙に気持ちがふらついた。
言葉があっさりしすぎてる? でも、長々と関係ない事柄を知らせるのもなんだし。つき合ってるならまだしも、微妙な間柄の女の子と距離感を図りながらLINEするなんてことは、僕にとっては至難のワザだ。だいたい、夏原なんかとするLINEはほとんど用件のみなんだから。慣れてないんだよ、こういうの……。
「も、いいや」
考えるのもめんどくさくなって、僕は用件のみのLINEを彼女に送信した。思えば、女の子と出かけるのは、すごく久しぶりだった。坂崎さんと、トモとその彼女で水族館へ行った、あれから……? あの日に俺はトモが好きなんだって自覚したんだっけ……けっこう長いよな。何やってんだろう僕は。
桜子とは、ずるずるとLINEをやり取りしていたけれど、今回はっきり「好きな人がいるから」と言って、終わりにしようと思っていた。電話やLINEで済ませてしまうのは抵抗があったし、こういうことでわざわざ呼び出していいような、そんな関係ではないと思えた。だから彼女が誘ってくれたのはいい機会だった。ちょっと胸が痛むけれど、彼女に対して後ろめたいような気もするけれど……その分、ちゃんと向き合って断ろうと思ったのだ。
一方で、トモに似てる女の子なんて、もう会えないかもと思うと、ちょっと惜しいような気もしたけど、結局のところ彼女をトモの代わりにはできないし。
本当は、トモから離れるチャンスなんだろう。男なんか好きになってないで、女の子とつき合って……なのに、僕は、望みがなくて、いろんな意味できついばっかりの片思いの方を選んでしまうのだった。
日曜日、午前十一時。
桜子と待ち合わせたのは、彼女が僕に初めて声をかけたファミレスだった。遅刻したらいけないと思って、気を張って十分前に着いたら、彼女はもう来ていた。あの道沿いの席に座って、少しうつむき加減のその横顔に、長い前髪がはらりと落ちる。
ああ、やっぱりトモに似ている……。
僕に気付いた彼女は、少し笑って手招きをした。そのしぐさが可愛くて、僕も少しつられて笑った。
「早かったんだね」
「ううん、来たばかり」
ありふれた恋愛ドラマのようなセリフも、自分たちが発すると新鮮に思えた。でも僕たちにとって、今日は始まりの日にはならない。ずるずると雰囲気に流されないように、僕は用件を最初に言うと決めていた。用件……もっと他にいい言葉はないんだろうかと思いながら。
「あの、来たばっかりでナンだけど……」
彼女は、カップを両手で抱えて、コーヒーの湯気越しに僕を見ている。僕は、すうっと息を吸った。
「君がこうやって、僕を見つけてくれて声かけてくれたことは本当に嬉しいんだけど」
彼女と目を合わさないように視線をずらしながら、用意していたセリフを口に出した。声になったそれは、まるで気持ちがこもっていなくて、文章を読み上げているような感覚がする。
「だけど?」
彼女が短く言葉をはさんだのは僕にとって不意打ちで、情けないことに僕は短いその言葉の前につまずいてしまった。いや、トモとよく似た視線につまずいてしまったと言った方がいいかもしれない。
「ごめん」
言葉を探しあぐねた数秒の居心地の悪い沈黙のあと、僕は結局こう言うしかなかった。
「好きな人がいるの?」
答えた彼女の声は、淡々としていて……でも、普通だった。
「うん」
僕は、その「普通な」雰囲気に心のどこかでほっとしながらも、随分ヘタレて情けないけれども、でも言わなくちゃいけないことはちゃんと言わなきゃ、と心の中で拳を握った。
「好きな人っていっても」
僕はそう言っている自分の声を聞いた。
「僕が一人で好きなだけで、つき合ってるわけじゃないんだ。望みはほとんどないっていうか」
「なぜ?」
彼女の問いはいつも簡潔だ。
「好きに……なってはいけない人……っていうのかな」
それまで表情もさほど変わらなかった彼女の綺麗な眉が一瞬、ぴくんと動いた……ような気がしたけれど、彼女が何も言わないので言葉を続けた。
「けど、やっぱり好きだから、こんな気持ちで君と会ったりするのはその、ダメだと思うから」
言わなきゃいけないことは全部言った……僕はグラスの水を一気に飲み干し、彼女の返答を待った。
「まじめなんだね」
彼女はぽつんと言った。さっきよりちょっと寂しそうな様子がして、胸が痛む。「っていうよりも、それだけその人のことが好きなんだってことかな」
「……ごめんね」
そう言うしかなかった。他になんて言えばいいのかわからなかった。
彼女はコーヒーをひとくち飲むと、目線を落としたまま言った。
「ぬるくなっちゃったね」
「そうだね……」
それだけ言うと、僕たちの会話は途切れてしまった。何か話した方がいいんだろうか。それとも、このまま席を立つべきなのか。
「ねえ」
彼女が唐突に言った。沈黙は何秒くらいあったのかわからないけれど、ずいぶん時間がたったような気がした。
「好きになってはいけない人って、やっぱりあるのかな?」
それは、問いかけているのに独り言のようだった。まるで、自分に語りかけるような。
「結婚してる人とか?」
彼女は左手の親指を折り、そして次にひとさし指を折った。
「同性とか?」
一瞬、体がこわばった。でも彼女は淡々と、三番目の指を折っている。
「……きょうだい、とか」
今度はトモの顔が浮かんだ。泣きそうな顔だ。
彼女は四番目の指を折らずに、口をつぐんだ。三本の指を折ったその手のひらをじっと見つめている。
「あなたがどういう人を好きになって、好きになってはいけないって思うのか、あたしに聞く権利はないけど」
トモによく似た瞳が視線を上げて、僕をまっすぐに覗き込む。そして、そのよく似た瞳に見つめられるだけで、僕は胸が苦しくなってしまう。
トモじゃないのに……違うのに!
「でも、それでもいいって言ったら?」
彼女は、テーブルの上の僕の手に、自分の手を重ねた。
「それでも、あなたのそばに居たいって言ったら?」
「ソレデモ アナタノソバニ イタイッテイッタラ?」
彼女はそう言った。
女の子にそんなふうに言われたこともなければ、あんなふうに見つめられたこともない。そして、ああやって手のひらを重ねたことも。
前に坂崎春菜とキスはしたけれど、桜子の手の感触の方が今の僕には生々しかった。正直、ドキドキした。それが、彼女の真剣さに気おされたのか、彼女がトモに似てるからなのか、もはやわからない。
「あー……」
僕は、頭をくしゃっと抱えこんだ。
ちゃんと終わりにするつもりだったのに。
……流されてみようか?
ふっとそんな思いがよぎる。けれど、思うそばから、桜子のもう一つの言葉が思い出された。
「好きになってはいけない人って、やっぱりあるのかな?」
彼女は、何故あんなことを言ったんだろう。指を折って、自分の言葉を反芻していた彼女の仕草が妙に引っかかる。もしかしたら、彼女もつらい恋をしてるんだろうか。忘れられない誰かが? そう思うと親近感すら沸き起こってくるけれど。でも、だったら何故、僕なんかと一緒に居たいって言うんだろう……? 矛盾する彼女の言動や雰囲気が、却って僕に彼女のことを考えさせた。
桜子とは、それから結局、何度かラインや電話をやり取りして、何度か外で会った。状況から見れば「つきあってる」そのものだけれど、やっぱり、いわゆる「彼女」とは違うと思う……自分の気持ちが付いていっていないのだ。だから、連絡するのはいつも彼女の方で、僕はと言えば、「会いたい」と言ってしまったら、そこから自分の中にある砦みたいなものが崩れてしまうような気がして、その砦が何かと聞かれたら、上手く言えないのだけれど。
逆に、その砦を崩してしまえば何かが始まるかもしれない。何か? 何かってなんだ? でも僕は、やっぱりトモが好きだった。こういう形で逃げるように、トモのことをあきらめたくはなかった。もちろん、僕の気持ちが報われることなんてないって、わかってはいたけれど……できれば、フェードアウトするように、トモへの片思いが終わればいい。そのくせ、トモに似た彼女に「会いたい」と言われると断れない。
結局僕は、傷つきたくなかっただけなのかもしれない。矛盾してるのは、他でもない自分自身だった。
「出かけンの?」
シャワーを浴びていたトモが、髪を拭きながら出てきたところだった。僕は、トモに見つからずに出かけようとしていたところだったから、悪さを見つかったコドモみたいに、ちょっと慌ててしまった。
「今から? もう九時過ぎてるけど」
心なしか、トモの口調はちょっととがめるようだった。というより、僕の方に隠し事をしている後ろめたさがあるんだと思う。
「夏原に呼び出されちゃって」
彼を引き合いに出すのはこれで何度目だっただろう。「ナンかオゴレよ」と言ってる、ヤツの顔が目に浮かぶ。
本当は、桜子の予備校が終わる時間に迎えに行くことになっていたのだった。彼女に甘えるように流されるように付き合っている自分が嫌で、何か彼女にしてあげたいと思って、初めて僕から彼女に言い出したことだったのだ。
桜子のことは、夏原には話していたけれど、依然、トモには言えないでいた。なので、必然的に夏原を隠れみのにするようになっていたし、何よりも、ヤツにはトモと桜子が似ていることを言ってあったから。でも、唯一の僕の理解者は、それでも全てを知っているわけではなくて、それどころか全てを知ったら、いくらヤツでも引くだろうけれど……。
「そ。またウチにも遊び来てって言っといて」
素っ気なくトモは言って、ペットボトルのウーロン茶を喉に流し込んだ。液体が通るときにリズミカルに動く喉もとに目を引き付けられ、無造作にタオルで髪をかき上げる仕草に、思わず見とれてしまった。そして僕は、急激に自己主張する胸のドキドキに耐え切れなくなって、逃げるように玄関に出た。トモに見とれたドキドキなのか、トモに嘘をついているドキドキなのか、その両方なのか。
「カオル」
ドアを開けようとした時、トモに呼び止められた。振り返ると、トモはまだ上半身裸のままだった。
「……服着ろよ……カゼひくぞ」
トモの無防備さは、やっぱり僕にとって凶器だ。何度も夢の中で触れた、裸の胸がそこにある……僕はその胸にキスをしてトモを余裕なくさせる……だが目の前のトモは、そんな僕の劣情も知らずに僕の言葉を無視して言った。
「何時頃帰る?」
「そんなに遅くはならないと思うけど……何?」
「いや、ちょっと話したいことが」
「なんだよ、改まって」
「やっぱいい。そんな大したことじゃないし」
トモにしてはめずらしく、ちょっと焦ったような感じだった。
「また、思い出した時にでも言うからさ」
トモの言ったことが気になりながらも僕は家を出た。最近の挙動不審を突かれたら、なんて言うかな……。
別に、隠す必要のないことだった。「つき合ってるコがいる」って言えばいいだけの事だった。なのに、やっぱり言えない。自分に似た女の子と僕がつき合ってるなんて知ったら、トモはどう思うだろう。それに、言ってしまったらトモに届く道は閉ざされてしまう、と僕は思い込んでいた。
トモへの秘密と矛盾ばかりが増えていく。
「堂々巡りだ……」
自分の思考に押しつぶされた僕は、トモが「話したいことがある」と言っていたことを、すっかり心の片隅に追いやって忘れてしまっていた。
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