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トライアングル 2

第三章  嵐の前の<side カオル>


 僕たちは、中高一貫校に通っている。
 中学三年になると、内部進学する者と外部受験する者が分かれてくるのだけれど、僕は中学受験でかなり苦労したこともあり……その点、トモはいつ勉強していたのか、余裕で今の学校に合格した。
 だから、苦労の末に受かった学校なので、僕は今更外部受験なんてする気はなかったけれど、トモがどうするつもりなのかがすごく気になっていた。聞けばいいのに聞けなくて、よけいに悶々とした。トモのことだから、気まぐれで違う高校に行くなんて言いそうだし、シャクだけど、受験もクリアしてしまうだろうし……でも、一番嫌なのは、例によってそんなことでうじうじしている自分だったりしたのだが。

 トモが他の高校に行きたいなら、それが気まぐれでも何でも自分で決めたことだし、気まぐれには気まぐれなりの理由があってのことだろう。たとえそれが、女の子がらみであっても、それは、僕がとやかく言うことじゃない。この前、部屋を分かれることで駄々をこねた自分だけど、今度は、そんなワケにいかないことくらいわかっている。
 でも正直言って、僕はトモと同じ高校でいたかった。同じ家に住んでるのに、トモが僕の知らないところへ行って、遠くなるのが嫌だった。トモが違う学校へ行くなら、自分も行きたい。でも、トモには理由があっても、僕にはない。ただ、トモと同じところへ行きたいというそれだけだ。

「乙女モード……」

 口に出した自分に、落ち込んだ。ヘン……俺ってやっぱヘンだよな、と自分で考えてまたへこむ。ブラザーコンプレックス、っていうの? いや、俺たちはきょうだいじゃないけど。
「ねえ、二人とも進学調査って、内部進学で印を押しといていいのよね」
 玲子母さんがリビングのテーブルに書類を広げて言った。
「ああ、OK、OK」
 ソファに寝転がってテレビを観ていたトモは、振り返りもせずに言った。
「トモ、内部進学すんの?」 
 ソファの場所をとられて、床に寝転がっていた僕は、がばっと飛び起きた。
「当たり前だろ。何のために中学受験したんだよ……おまえ、まさか外部受験すんの? あの成績で?」
 僕は、実はものすごく失礼なことを言われたのだが、そんなことはこの際水に流した。
「す、するわけないじゃん……」
 ドギマギしながら、何とか返事したが、嬉しくて顔が緩む。緩みきった顔でトモに向かい合っていたら、
「なあ、カオルって、時々ほんとにカワイイよなあ」 
 トモが僕の顔を見て、しみじみと言った。

 顔から火が出た……

 そのあと、女の子から電話がかかってきて、「遅くなるから、母さんにはテキトーに言っといて」と、乙女モードの余韻覚めやらぬ僕に、そんな意味ありげなセリフを残して、トモは出かけてしまった。僕はというと、一人で盛り上がって疲れてしまい、母さんにテキトーに言うどころか早く寝てしまった。そして翌朝、トモは母さんにこっぴどく怒られ、僕はそのとばっちりを受ける羽目となるのだった。

 そうして、僕たちは高校生になった。表面上は何も変わらないでいるようで、僕の中にはずいぶんと、いろんなやっかいなものが降り積もり始めていた。だが、まだそれは気付かないふりをできる程度のもので、季節は静かに移り変わり、凪いだ海のような平穏を保っていた。
 僕は十五歳になったばかり、トモはもう、十六歳になっていた。

 高校生になって変わったことと言えば、制服くらいだった。グレーのブレザーから紺のブレザーへ。ネクタイは濃紺から深い赤へ。だけど高校は中学の隣の敷地だし、通学ルートも変わらない。もちろん、外部入学者が増えた分、クラス編成は変わった。この学校には、系列の短大があるので、高校からの外部入学者は女子の方が多いらしい。
 そんな訳で、学年に女の子の数が増えるということで、浮き足立ってるヤツや喜んでるヤツも多いけれど(中学までは圧倒的に男子が多い学校だった)僕には興味のないことだった。周りに合わせて、はしゃいでみせたりはしたけれど、何故かそういうことに期待や興味がもてなかったのだ。

 そして、やっぱりトモの女の子からの人気は凄まじかった。今まであっさり振られたり、冷たくあしらわれたりして、痛い目に合わされた女の子も多いのに、みんなよほど学習しないのか、あの外見にやられてるのか。そして、相変わらず僕は「トモくんのLINE教えて」攻撃に悩まされる日々を送っていた。
 そんな状況だったから、高校生になってからのトモの女の子関係はますます派手になった。何人か同時進行でつきあってるみたいで、その中でも特に、よくウチにつれてくるコがいた。ふわふわの長い髪をした、派手な顔だちの女の子で、何とかいう雑誌の読者モデルをやっているらしい。

「あのコが今一番のお気に入りなわけ?」
「あのコって?」
「ほら、昨日来てたコ」
「ああ、ヨーコちゃん」
 慣れなれしい言い方に、ちょっと僕は不快感を覚える。
「今回、あのコにはけっこうマメだよね」 
 僕の言葉には少し棘があったのかもしれない。トモは怪訝な顔をして俺を見た。「……何?」
「何って?」
「なんで今回、そんなこと聞くんだよ。いつもはどっちかっていうと関心ないって感じだったじゃん?」
 思いもよらないトモの切り返しに、僕はたじろいだ。たじろいで、あうあうと言葉を探していると、トモは言った。
「カオル、あの子に興味あるの? 気に入ったとか?」
「ち、違うよ!」
 トモは、疑わしげな目で僕を見ている。どうやら、誤解をしてくれたようだった。
「今回、トモにしちゃめずらしく続くから、好きなんだなって思って……ついに落ち着くのかなって思っただけだよ」 
 トモは、何それ? という感じでため息をついた。
「落ち着くって、お前その感覚老けてない? まあ、好きっていうか……相性かな?」
 トモは意味有り気に言葉を結んだ。
「相性って……」
「言っとくけどさ、星占いとか血液型じゃないよ?」
トモのバカにした言い方に僕はキレた。
「わかってるよ、それくらい! バカにすんな!」 
トモは途端に不機嫌な顔になる。
「なにお前、この頃そういうの多いけど、自分で話振っといて、勝手に怒るなよな」
 怒らせるのはトモじゃないか……僕は口には出さずに、拳をぎゅっと握ってその場をやり過ごすしかなかった。
「とにかく今日も、もうすぐヨーコちゃん来るから」
 トモはそれだけ言うと、リビングを出て行った。ガチャリと、ドアが閉まる音がして、「何あいつ、ワケわかんねー」と、呟いているのがドア越しに聞こえた。きっと聞こえるように言ってるんだ……。

 トモが女の子を連れてくると、僕は部屋にいるのが嫌で、コンビニとか、本屋とかどこかへ避難するようにしている。隣の部屋なわけでもないけど、いろいろと落ち着かないのだ。でも、今日は雨なので、出かけるのもうっとうしくて、仕方なくリビングに居ることにした。
「あ、コンニチハー」
 さっき来た「ヨーコちゃん」は、ぺこりと頭を下げて、トモと肩を並べながら、慣れた様子でトモの部屋へと入って行く。僕は気のない返事をして、別に観たくもないテレビをつける。テレビでは、ちょうどお笑い番組の再放送をやっていた。この騒がしさは、気を紛らわすのにちょうどいいかもしれない。

 僕は、二人が部屋にいる気配を感じるのが嫌だった。

 今頃、キスとかしてんのかな。キスどころか、それ以上のこともやってるんだろうな。
 この、僕の奇妙な心の不安定さは、トモひとりが大人になって、自分だけが置いて行かれるような淋しさ……なんだと思っていた。だけど、僕は別に女の子と付き合いたいわけではなく、ただ、誰かがトモの身体に触れたり、トモが誰かに触れたりということが、単純に、何となくだけれど……不愉快だった。

 そして数日後、僕は、トモと「ヨーコちゃん」、そして「ヨーコちゃんのトモダチ」との四人でデートをする羽目になる。


 初夏の日曜日ーー春の慌しさが落ち着いて、気分がちょっと開放的になる頃だ。 僕たち四人は駅の南口で待ち合わせた。トモと、トモの(今の)彼女の「ヨーコちゃん」(そういえばフルネームを知らない)僕と、そして……
「こちらが、坂崎ハルナでーす」
 何がそんなに楽しいんだ? と思うくらいにテンション高く「ヨーコちゃん」が自分の友だちを紹介し、紹介された女の子は「こんにちは」と頭を下げた。
「こいつが、岸本カオル。えっと、俺の何ていうのかな、同居人?」
(なんだよそれ……)
 僕はトモの紹介の仕方が気に入らなかったが、取り合えず「どうも」と、女の子たちに会釈した。
 なんでこういうことになったかというと……


 この前、「ヨーコちゃん」が家に来て帰ったあと、トモに唐突に聞かれた。
「カオルさあ、四組の坂崎ハルナって知ってる?」
「知らない」
 僕は気のない返事をした。自分が女の子を連れてきた日は、僕の機嫌が悪くなることを、どうしてこいつは気がつかないんだろう。それに自慢じゃないが、僕はクラスの女の子の名前ですら全部覚えちゃいないのだ。
「そのハルナちゃんがさ、ヨーコの友だちなんだけど、お前のこと気になってるんだって」
「……けど、僕はその子知らないよ?」
 トモはため息をついた。
「わかんねえやつだなあ……そんなこと関係ないだろ。そのコがどっかでお前のこと見初めたんだろ」
「見初めるってトモ、いつの時代の人?」
 僕のツッコミは無視して、トモは言葉を続けた。
「カオルのこといいなって言ってる女の子、けっこういるんだよ。だけどお前ってば、まったく女の子に興味ないし、俺としちゃ、まっとうな高校一年の男子として、それはそれは心配しているわけよ」
 そんなトモの言い方は、すごく僕のカンに触った。
 「お前と一緒にすんなよ」
 話の流れでつい、そう言ってしまったが、そのあとすぐに後悔した。ああ、これじゃいつものケンカのパターンだ……トモがこういう物の言い方をするのは今に始まったことじゃない。絡んでしまうのは、いや、絡んでしまうようになったのは、むしろ自分の方なのだ。
「……お前さ……」
「何?」
 トモの探るような言い方に、さらにイライラをつのらせて、僕は超不機嫌になっていた。
 「もしかして、女の子に興味ない? オトコが好きなのか?」
 「は?」
 「オトコが好きなの?」
 トモはもう一度聞いた。けっこう、真面目な顔だった。僕は文字通り固まっていたと思う。トモに投げかけられたこの言葉は、直球となって胸にぶち込まれて…… 何も言えなかった。でも、なんで何も言えないのか、なんでこんなに動揺しているのか、自分でもわからないのだ。しかしトモの方は、僕が突拍子もないことを言われて、声も出ないのだと思ったらしい。
「いや、我ながらナイスなツッコミだった」
 トモは大笑いしていた。いったい、何がそんなに面白いのか、大笑いしていた……そして僕は、すごく悔しくなった。
「女の子に告られたことくらいあるよ!」
 それは嘘じゃない。手紙をもらったり、呼び出されたりしたこともある。そりゃ、トモに比べれば地味なものだけれど。
「へえ、そりゃ初耳」
 トモは、まだヒイヒイ言って笑っている。
「ただ……やっぱり自分がいいなって思った子じゃないと、僕は付き合えないし、付き合いたくないから」
 正当なことを言っている僕の方が、言い訳がましくなるのはどうしてだろう。「そんなの、付き合ってみなきゃわからないじゃん?」
「僕はトモとは違うんだよ」
「ふうん……」
 僕の一言は、今度はトモを静かに怒らせる効果があったようだった。数秒間の居心地の悪い沈黙のあと、トモは口を開いた。

「俺だって、探してるんだよ。本当に好きになれるヒト、俺のこと、本当に好きになってくれるヒトをさ」

 トモの目は真面目にこっちを見ていた。
「カオルとやり方は違うかもしれないけど」

 本当に、好きになれるヒトを探してる?
 本当に、好きになってくれるヒトを探してる?

 それってどういう意味なんだよと聞きたかったけれど、何故だか聞けなかった。そして、本当に何故だかわからないけれど、僕はトモをひどく傷つけてしまったような気がしてならなかった。
「わかった。行くよ」
 ゴメンの代わりに僕は言った。
「まあ、たまにはこういうのもいいんじゃない?」
 トモの返事は、あっさりとしたものだった。


 しばらく街をぶらついてから、水族館に行くことになった。その水族館は海沿いにあって、遊園地も隣接している。そういう場所があるのは、地元民の知識として知ってはいるが、水族館なんて、小学校の遠足以来じゃないかと思う。なんともベタなコースで、さらにトモが水族館なんて、ミスマッチにめまいがしそうだが、コースは女の子たちの希望だということだった。
 トモと「ヨーコちゃん」が僕たちの前を歩く。彼女は、さりげなくトモの腕に自分の腕をからませて、時折、トモを見上げては小突いたり、頭をトモにもたせかけたりしている。意外だったのは、そんな「ヨーコちゃん」を見るトモの目が優しかったことだ……気に入ったコには、ああいう顔もするんだな。

「俺だって探してるんだよ。本当に俺のことを好きになってくれるヒトを、本当に好きになれるヒトをさ」

 この前のトモの言葉を思い出しながら、僕は前を歩く二人を見ていた。見ていると不愉快なのに、何となく目を離せない、そんな気分だった。
「カオルくん、信号、赤だよ」
 不意に僕は、女の子の声で現実に引き戻された。先に信号を渡ってしまったトモたちは、横断歩道の向こうで、手を振っている。
「あ、ゴメン……」
 しまった。
 前の二人に気をとられ、僕は隣を歩く連れのことをすっかり忘れていた……というか、かなり失礼なことをしてしまった。
「坂崎さん、だっけ?」
 今頃、名前を確認する始末だ。本当に失礼極まりない。
「坂崎ハルナ」
 彼女は律儀に、もう一度自己紹介してくれて、そして続けて言った。
「いきなり、下の名前で呼んでごめんね。でも、岸本くんが二人だから、ややこしいかなと思って……」
「ああ、うん、全然かまわないから」
 僕が答えると、彼女はにっこり笑った。「ヨーコちゃん」は派手めだけど、彼女はどちらかというとおとなしめ? でも地味というのじゃなくて、僕は女の子をどう例えたらいいかなんてわからないけど、笑った顔が「カワイイな」と素直に感じた。
 目的地までの道を、僕たちは学校や先生の話をしながら歩いた。ありきたりだけど、それくらいしか共通の話題って思いつかない。それでも彼女は、ニコニコとしながら話を返してくれる。いいコだなあと感謝しながらも、僕はやっぱり前を歩いている二人が気になって、時々、間の抜けた返答をしたり、モノに躓いたりした「カオルくんって、けっこう天然だね」
 坂崎さんはそう言ったが、それは全然嫌味っぽくなくて、むしろ感じよくて、僕は本当に自分が情けなかった。


 水族館は混んでいた。
 人波に乗りながら、ペンギンやイルカを見て回る。僕は、せめて彼女がはぐれないように、人混みに押しつぶされないようにと思って、できるだけ彼女を庇うように歩いた。いっそ、トモたちのようにくっついて歩けばラクなんだろうが、今日知り合ったばかりの女の子に、僕がそんなことできるはずがなかった。それで、庇いながらも身体が触れないようにと、微妙な距離を保ちながら歩くしかなかった。
 そんなわけで疲れたけれど、久しぶりの水族館はけっこう楽しくて、特に、トコトコ歩くペンギンにはすっかり心を奪われてしまった。坂崎さんも喜んでいたけど、僕の方がはしゃいでいたかもしれない。
 その後、海の見える館内のカフェでなんとか場所を見つけ、四人でランチをとった。結局、水族館では混雑のためにみんなで見て歩いたと言うよりもペアで別行動となってしまったので、女の子たちは「アレがよかった」「コレ見た?」なんて、行動報告で盛りあがっている。トモは女の子たちの話に適当に合わせ、三人で話に花を咲かせていた。僕はというと、どっと疲れていたので、ぼーっとコーラを飲んでいたら(コラ、お前も話に参加しろ!)と、トモに蹴りを入れられた。それで、何か言わなきゃと思い、水族館についての素直な感想を述べた。
「ペンギン、よかったよな……一つ欲しいかも」
「ごめんねハルナちゃん、こんなヤツで……」
 トモが坂崎さんに言う。おいおい、僕は「坂崎さん」て呼んでるのに、お前はいきなりちゃんづけかよ……。
「そんなことないよ。ペンギン、ホントに可愛かったし、二人で結構盛り上がっちゃったよね」
 坂崎さんは僕に笑いかける。ペンギンのおかげでちょっと盛り上がったのは確かだけれど、僕はまた、彼女に気を遣わせてしまった。
「けっこう、この二人ノリが合うんじゃない?」
「ヨーコちゃん」が、そんなに接近しなくても聞こえるだろ、というくらいにトモの耳元に顔を寄せて話しかける。そのとき、僕は何故か、二人がキスしている映像を連想してしまった。

やめろよ、人前で……

 胸が変に高鳴る。ダメだ、顔に出しちゃダメだ。僕は、照れを装って下を向いた。
「カオルくんね、あたしが人混みでつぶされないように、すごく気をつけてくれたんだよ。嬉しかった。ありがとね」
 絶妙のタイミングで撃沈寸前の僕を救ってくれたのは、坂崎さんだった。
「へえー、やるじゃん」
 トモが、「ヨーコちゃん」から視線を僕に移す。
 ありがとう、は僕の方だよ。どうして、こんな、他のことばっかり考えてるような僕を助けてくれるの?
 僕は、心の中で坂崎さんにゴメンを言った。


 じゃあ、午後は別行動で、ということになった。多分そうなるだろうと思ってはいたけれど……。
 腕を絡めた二人は、人混みに紛れて行った。いや、トモの腕に自分の腕を絡ませてるのは高木さんで(俺は、ついさっき「ヨーコちゃん」の苗字を知ったばかりだ)トモは別に、それを拒まないだけ……という、きわめて偏った見方で二人の様子を観察し、そんないじましい自分に気が付いて、僕は自分がまた少し嫌いになる。
「坂崎さん、どっか……行きたいとこある?」
 僕の言葉は、うわの空だったと思う。
「人混みは、もう、いいかな……」
 坂崎さんは控えめに言った。
 「うん、俺も」
 疲れたから海沿いのデッキで休もうということになって、二人で並んで歩き出す。手をつなぐでなく、もちろん腕を絡めるでなく、ただ歩調を合わせて歩いた。そして僕にこの時、もっと心の余裕があれば、坂崎さんが泣きそうな顔をしていたことに気が付いてあげられたのかもしれなかった。
 僕が差し出したアイスクリームに「ありがとう」と笑って、坂崎さんが手を伸ばした瞬間、指と指が、ふっと触れた。
「……ゴメン」
 さっと手を引いたのは坂崎さんの方だった。
「え?」
 僕は、なぜ「ゴメン」なのかもわからなくて、聞き返す。
「なんでもない……」
 かみ合わない会話……感じのいい子なのに、さっきから僕をさりげなく気遣ってくれたりする優しい子なのに。急に、居心地がいいとはいえない雰囲気が僕たちを包む。
 時間だけがだらだらと過ぎていく。本当はそれはすべて僕のせいで、僕はこの時初めて、彼女を傷付けているような気がしてきた。
 何故? 一緒にいるだけなのに? 彼女を楽しませられないから? いや、彼女はそんなことで機嫌を悪くするようなコじゃないだろう……そんなことをぐるぐる考えているのが、とても息苦しくなってきて、息を吸い込むために顔を上げると、ふっと観覧車が目に入った。
「坂崎さん、観覧車乗ろう!」
 僕は、はじかれたように立ち上がった。
「高いとこ、苦手?」
「え? ううん、そんなことないけど」
 彼女は、さっきまでの気詰まりな雰囲気からの展開について行けなくて戸惑っている。
「ちょっと並ぶけど……日が暮れてきたらきっと綺麗だと思うんだ」
 僕は半ば強引に彼女を追い立てた。でも、やっぱり彼女の手をつなぐことはなくてーー


 三十分ほど並んで、僕たちの番が回ってきた。乗り込んで上昇を始めると、だんだん下界が、喧騒が遠ざかっていく。あの中に、トモもいるのかな……不意に感傷が飛び込んできたけれど、無視を決め込んだ。
 予想通り、暮れかけてきた風景は、夕焼けの赤が次第に下へと溶け込んで行くようで、本当に、本当に綺麗だった。
「綺麗……」
「うん……」
 パノラマで広がる風景には余計な会話など必要なく、僕たちの間の乾いた距離感にも、次第に潤いが戻ってくるようだった。
「今日、ゴメン」
 だから、さっきまで上手く出て来なかった言葉が、信じられないくらいさらりと声に出せた。
「え?」
「僕はこういうこと本当に慣れてなくて、きっと坂崎さんを疲れさせたんじゃないかって思うんだ……特に午後」
「ペンギンはよかったけど?」
「そう、ペンギンはよかった」
 彼女もまた、さらりと受け止めてくれたので、僕は安心した。
「だから、最後になんか、デートらしいことしなくちゃってアセった」
 ちょっと間が開いてから、彼女は答えた。
「デートだって、思ってくれてたんだ」
「うん……だからその……ゴメン」
 その、少しの間が気になって、僕は少しうろたえて、妙に饒舌になってしまった。
「こうやって、女の子と二人でいるのも初めてだしさ。ほら、トモと違って、女の子と上手くしゃべれないし、やっぱり、きょうだいじゃないからかな、タイプが全然違うんだよ」
「違ってていいじゃない? カオルくんのそうやって、優しいとこ……今日も、人混みで庇ってくれたり、こうやって気を遣ってくれたり、そういうとこ、ちゃんと気づいてるコ、いっぱいいるよ。カオルくんは、トモユキくんと違うんだから」
 彼女は、一瞬、まっすぐに僕を見たので、僕は思わず視線を逸らしてしまった。何だか、そのまっすぐさが痛かった。目に? いや、きっと心に。
「それに、こう言ったらなんだけど、あたしはトモユキくんのこと、怖いんだ」
 思い切ったような口調だった。
「怖い?」
「カオルくんにこんなこと言って悪いと思うけど」
「いや、そりゃ、あいつ女の子に手が早いくせに切るのも早いから……」
「ううん、そういうことじゃなくて」
 坂崎さんは続けた。
「いつだって、目が笑ってないの」

 笑って……ない?

「あれだけ女の子に人気があって、男の子たちや他校の人や、先生たちも一目置いてて、でも、誰にも気を許してないんだって思うの。人に囲まれて笑ってても、目は笑ってない」
 なんて……鋭い子なんだろう、と僕は思った。いつも僕がトモを見て心配していたことを、坂崎さんはちゃんと見抜いている。
「あ、カオルくんを除いてはね」
「僕?」
「さすがにね、カオルくんにはちゃんと笑ってるし、すごく気を許してると思う」 
 坂崎さんは、ちょっと笑った。
 でもね、でも、坂崎さん、あいつは、トモは僕にもちゃんと笑わない、気を許さない、立ち入らせないところがあるんだよ……僕は、声には出さずに心の中で返答した。口にすれば、自分のその言葉でがんじがらめになってやりきれなくなるから、心の中で言った。坂崎さんは続ける。
「カオルくんは、そんなトモユキくんをいつもフォローして、時には先回りして、あたふたしてる。あ、報われてないなーって思うことも正直あるよ」
「やっぱり?」
 僕は苦笑した。
「うん。でもね、カオルくんはもっと自分を大事にしないと……そうやって、トモユキくんにふりまわされてばかりいたら、疲れちゃうよ。自分のことにも目を向けないと」
「自分のこと?」
「……カオルくん、好きな人いるよね?」

 好きな、人?

 彼女の言葉を僕は心の中で復唱した。復唱した言葉は、そのままこだまのように、心の中で響き続ける。
「もしかして……」
 坂崎さんは目を見開いて言った。
「もしかして、今自覚した?」
 何も言わなかった僕は、「そうです」と肯定したようなものだった。

 好きな人?

 すきなひと?

 スキナヒト?

 誰を?

 繰り返す自問自答。答えは、答えは、自分の中に跳ね返ってくる。そして、まるで方程式のように、「好きな人」という言葉は、ある名前を解き明かした。

 トモ……?

「ああ、やっぱりそうだったんだーー」
 坂崎さんは、ため息と一緒に、シートにとん、ともたれかかった。
「前から、そうじゃないかなとは思ってたの……でも、あたしが自覚させちゃったなんてちょっと……ううん、かなり悔しい」
 彼女は笑おうとして失敗した。大粒の涙が、彼女の目からぽろぽろ落ちてくる。わかってるんだろうか、坂崎さんは、僕が誰を好きなのかをわかってるんだろうか。彼女の涙をどうしようと思いながらも、僕はそんなことを考えていた。
「……ゴメン……」
 僕は、今日、彼女に何回「ゴメン」を言ったのだろう。
「ううん、そうじゃないかと思っててセッティングしてもらったのはあたしだし、それに、カオルくんは自覚してなかったわけだし」
 涙をぬぐって、彼女は言った。
「いつから……いつから気付いてたの? ていうか、何でわかって……」
「だって、あたしいつもカオルくんのこと見てたもの」
 坂崎さんは静かに言った。
「カオルくん、時々、すごくせつない目で誰かを見てた。誰を見てるのかはわからなかったけれど……」
「そうなんだ……」
 僕は、そう答えるしかなかった。地上に降りた観覧車は静かに動きを止め、係員がドアを開けて、降りるように促している。
「帰ろっか」
 坂崎さんが言った。


 帰り道、僕たちは何も話さなかった。話さなければならないことは、もう何もなかったし、二人とも、世間話をするような気分ではもちろんなかった。来たときと同じように、腕を組むでもなく、手をつなぐでもなく、そして今度は歩調さえも合わさずに……
 坂崎さんは足早に歩き、その少しだけ後ろを僕は歩いた。僕はもちろん、彼女を傷つけるつもりなんてなかった。ただ、他のことを……トモのことを考えて彼女を結果的に忘れていた瞬間は確かにあったし、それは、思わせぶりな態度をとることと、なんの違いがあるんだろう。傷つけるつもりはなくても、誰か他の人を思うだけで、自分を好きだと言ってくれた人をこんなかたちで傷つける……人を好きになるって、ちょっと怖い。そして、僕はその渦中にいる自分を自覚してしまった。

 トモ……

 この喧騒のどこかにお前はいるんだろうか。
「ここでいいよ」
 気が付いたら、朝みんなで待ち合わせをした駅の南口に来ていた。
「うん……今日は本当に……」
「ゴメンなら、もう言わなくていいよ」
 坂崎さんは笑っていた。笑っていたけど、目には涙が滲んでいた。
「でも、最後にひとつだけ、わがまましていい?」
 彼女は僕の目をまっすぐに見ている。今度はその視線を逸らさずに、「何?」と聞いた。そして、僕の「何?」が言い終わるか言い終わらないうちに、彼女は僕の肩に手をかけて、少し背伸びをした。
 柔らかくてあたたかいものが唇に触れた。それが彼女の唇だと気付いたとき、僕はそっと目を閉じた。
 周りの喧騒がすうっと消えていく。
 しばらくして、彼女が唇を離すと、僕たちを囲む喧騒が戻ってきた。コソコソと僕たちを指差している人もいれば、ヒューッとひやかすような口笛も聞こえた。「今日は、ありがとう」
 ゆっくり区切って彼女は言った。目には、もう涙はなかった。
「好きな人と、上手くいくといいね」
 僕は何も言わなかった。言えなかった。
 「バイバイ、カオルくん」
 彼女が駅の人混みに吸い込まれ、ただ僕は、その場を動けずに彼女を見送った。

 初めてのキス。

 自覚した、トモへの想い。

 傷つけてしまった女の子。

 自分の中に入る思考とか、現状を認識する力とか、そういうものは許容範囲を超えて、いっぱいいっぱいになってしまった。その容量が少ないのか多いのかはわからないけれど、確かに自分の中ではオーバーフローしていて、何から考えればいいのか、わからない状態だった。

トライアングル3に続く


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