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トライアングル7

第六章 デイ・ドリーム2 <side カオル>

 トモの腕が、僕の背中をぎゅっと抱いた。

 悪い夢を見て、うなされて、何かに怯えるトモを僕は抱きしめ返してあげるべきだったのかもしれない。彼がきっと、そう望んでいたように。
 それは本当によくわかっていたけれど、でもそうしてしまったら自分は引き返せなくなることもわかっていた。トモは癒しや救いを求めているのに、僕はあっさりとその信頼を裏切ってしまうだろう。僕は傷ついていた。そして、苛立っていた。触れることも、キスすることも一瞬で叶ってしまうこの状況と、無意識に「好きだ」という禁句でまた僕を煽る、トモユキの無防備さと、そんな袋小路に追い詰められてしまった自分自身に。
「……落ち着いた?」
 そのままの状況を保ち、少し時間を置いて、僕はそっとトモに声をかけた。頬に触れるトモの柔らかな髪にくらくらする。なのにトモは何も言わず、離れようとした僕の背中に、またぎゅっと縋りついた。
「トモ……」
「行ったら嫌だ……」
 駄々をこねるようなトモの言葉に、僕の中で何かがぷつんと切れた。その切れたものが違う方向に暴走しないように、僕はもう、トモを言葉で怒らせるしかなかった。
「そうやって、いつも女の子口説いてんの?」
 自分でもぞっとするほど、嫌な口調だったと思う。
「何言って……」
 トモは僕の肩から顔を上げた。いつもなら……いつもの彼なら、ここであの冷たい視線で、睨み返すはずだった。なのにーー
 そこにいるのは、まるで、頼りない子どもだった。こんなトモは見たことがない。その無垢な瞳に、僕はトモを拒絶した自分を嫌というほど思い知らされた。「……これは、そういう意味の好きじゃないよ……」
 弁解するようなトモの言葉は、さらに僕の胸をえぐる。

「そんなこと言ってるんじゃない!」

 トモの肩をつかんで、その身体を自分から引き剥がした。本当はそのまま押し倒してやりたかった。さっき、ついさっき、トモを受け止めてやらなかった自分を責めたばかりなのに。
 もう、訳がわからない。抱きしめてやればよかったのか? 勢いで、何もかもぶちまけてしまえばよかったのか? いつもと違うトモの姿が、僕をかき乱した。「そう……だよな」
 トモは肩を落として言った。
「男に好きだって言われて、抱きつかれて、気持ち悪いよな」
 そうやって、トモに言わせたのは結局自分自身だ。けれど、わかっていても、トモのこの言葉は僕をめちゃめちゃに傷つけた。
「……ちょっと、頭冷やしてくるから。メシ、作るなら残しといて。帰ったら食べる」
 トモは弱々しく笑い、僕はそんなトモの顔を見れなかった。
「ゴメンな」
 そう言って、トモは部屋を出て行った。

 

「……はっ」
 一人残された部屋で、僕は自分を嘲笑った。「ゴメンな」なんてトモに謝らせた……
 お前が傷ついて僕に縋りつこうとしてる時、僕が何考えてたかわかるか? お前にキスして、触りたいと思った。僕は、お前が望むのと違う意味でお前を抱きしめたかったんだよ……
 床の上に、アルバムが落ちていた。さっきトモが落としたんだろうーー僕は、拾い上げて、その皮の表紙をそっと指でなぞった。
 玲子母さんから託された大事なものを、僕はぞんざいにこんなところに置きっ放しにして!
 この中に、トモの抱える苦しみがある。僕が、それを少しでも軽くしてやることができるならーー何だってするよ、何だってする。
 僕は、玲子母さんにこのアルバムを託された時のことを思い出した。それは、父さんと母さんがシアトルに発つ数日前のこと……


 大人たちが荷造りや手続きに追われる中、僕とトモもまた、新しい二人での生活に向けて、いろいろと話し合ったり決めたりすることがたくさんあった。食事、洗濯、買出し、掃除、ゴミ出し等の、今まではまともにやったこともないような、現実的で日常的な決め事でさえ新鮮で楽しくて、僕はトモに関する様々なことを、あまり考えずに済んだ。
 そして、今年は誕生祝いができないからと言って、玲子母さんが二人分のケーキと、トモの十七本のキャンドルと、僕の十六本のキャンドルを用意した。少し早い誕生祝いはサプライズだったけれど、僕は何だか家族がいったん解散するような気がして、寂しくてしかたなかった。
「来年はさあ……」
 僕はトモに言った。
「二人でやるのかな?」
「……ケーキはカオルが買いに行けよ」
「なんで? 一緒に行けばいいじゃん」
「絶対やだ」
 トモは口を尖がらせて言う。その横顔は、やたらに子どもっぽくて可愛かった。 
 その夜のことだ。


「これ……カオルくんから智行に渡してほしいの」
 玲子母さんはそう言って、皮表紙のアルバムを僕に渡した。
「アルバム? でも何で?」
 別にわざわざ僕に託さなくても、と正直僕は思ったのだった。だが、玲子母さんは少し困ったように微笑む。
「あの子にとっては、嫌なものだと思うけれど、ひとつのけじめとしてね、持っておいてほしいと思うの」
「けじめ……?」
「というより、区切りかな。智行にとっても、私にとっても」
 そう言って、玲子母さんは、まるで慈しむように、そっと皮の表紙に触れた。私にとっても、ってどういう意味なんだろう。でも僕は聞けなかった。
「ここにあるのは、あの子にとっては辛い思い出でも、私と智行が生きてきた証には違いないから」
 胸に覚えのある痛みが走る。その小さな痛みの棘は、トモに「お前は聞かないから好き」と言われたあの日から、僕の胸にずっと刺さったままだ。
「あの子……よろしくお願いね」
 玲子母さんは少し頭を下げた。
「そんな……やめてよ」
 僕は大慌てで玲子母さんの顔を覗き込む。思えば、僕は二度目の母であるこの人のことを好きではあったけれど、こんな風に正面から目を見たことはなかったのではないだろうか。
「あの子ね、あまり人のことを信じないでしょう?」
「え……うん。そうかな……」
 僕は曖昧に答えた。
「ごく小さい頃から、大人ばかりの中で育って、そんなふうに植えつけられてしまったのね。だから、強がってるけど本当はすごく脆い……でもね、カオルくんのことは本当に信頼してると思うのよ」
「そう、なのかな」
 信頼……それは、今の僕にとっては微妙に居心地の悪い言葉だった。
「あの子は、ただ何年か一緒に暮らしたというだけでは、人を信じることができない。基本的に、情っていうものがわかりづらいのね、きっと……」
 "目が笑っていない"と言われたトモ。
 "本当に好きになれるヒト、好きになってくれるヒトを探してる"って言ってたトモ。
 玲子母さんの話を聞きながら、僕はいろんなことに納得して、トモのいろんな表情を思い返していた。
 人を見下したようなポーカーフェイス、突き刺すような冷たい視線、適当に人に合わせた笑い顔、時折、遠くを見るような影のある横顔、それでいて多くの者を惹き付ける、綺麗な顔立ち……けれど、確かに僕はそれ以外のトモの表情を知っている。時に無邪気で、人なつこい、そして僕の背中をさすってくれた、あの優しいまなざしを。
「だから、カオルくんから智行に渡してほしいの。カオルくんからだったら、きっと受け取ってくれるわ」
 僕は母さんから、アルバムを受け取った。けれど、何故トモがこのアルバムを拒むのかがわかっていなかったから、だから、あんなふうに無造作にテーブルの上に置きっ放しにしてしまったのだ。
 本当は玲子母さんにその理由を聞いておくべきだったのかもしれない。けれど俺は聞かなかったし、玲子母さんもそれ以上は言わなかった。いつか、トモがきっと話してくれる。そうすることで、トモは過去を乗り越えることができる。僕はそう思っていた。
 そしておそらく玲子母さんもーー


 トモは出て行ったきり、なかなか帰ってこなかった。
 僕は一人でパスタをぼそぼそと食べて、何をするでもなく、ただテレビをぼうっと見ていた。
 あいつ、どこ行ったんだろ……こんな時、トモが行くところといえば、悔しいけど女の子の所しか思い浮かばない。一人暮らしの女子大生ともつき合ってたしな……と思いを巡らせてみる。
「あいつ、マジ友だちいねーんだから」
 そうだよ、僕ぐらいなんだよ。あいつを理解して、甘えさせてやれるのは……「スマホくらい持ってけよな」
 僕は、テーブルの上に置きっ放しのトモのスマホに向かって言った。ラップをかけたままの一人分のパスタは、だんだん硬くなっていく。
「ゴメンな……」
 何に謝ってるんだろう、僕は。多分、お前を受け止めきれなかったことに。抱きしめてやれなかったことに。
 だけど、そんな自分の気持ちでさえが心もとない。僕たちの生活は、すでに前途多難だった。


 午後十一時のアラームが鳴ると同時に、玄関のドアが開く音がした。僕ははじかれたように飛び上がって、玄関へと向かう。
「……お帰り」
 出迎えた僕にトモはちょっとびっくりした顔をしたけれど、照れたように答えた。
「ただいま……」
 レンジであっためたパスタは、硬くなった上にソースがべたついていたが、トモは何も言わずにそのパスタをもくもくと食べた。
「何にも食って来なかったの?」
「だって、帰ったら食べるって言ってただろ?」
「そうだっけ……」
「だから残しといてくれたんじゃないの?」
 そういやそうだ。
「……なに?」
 急に黙り込んだ僕に、トモはパスタを頬張りながら聞いた。
「いや、ちゃんと作り直してやればよかったなと思って……不味いっしょ?」
「うまいよ」
 どうってことない会話だった。でも、僕はトモがちゃんと帰ってきたことが嬉しくて、トモにうまいメシを食べさせてやれなかったことが悔しくて、ちょっと泣きそうな気分だった。でも、ちゃんと言うべきことは言わなければ……と、自分を奮い立たせた。
「ほら、誰だっけ、お前がクラスでよく一緒にいるヤツ」
 食べ終わったトモは、台所で食器を洗いながら言った。
「ああ、夏原?」
「そう、本屋でぶらついてたらそいつに会ってさ、向こうから話しかけてきた」「へえ?」
「で、何となくファミレス行って喋ってたんだけど、けっこういいやつだな」
「女の子のとこ、行ってたんじゃないんだ?」
 夏原と一緒だったというのは意外だったけれど、僕はかなりホッとしていた。「そんなに無節操じゃありません」
 なんだよそれ。微妙に意味深じゃないのと思いつつ、僕はトモがいつもの様子に戻ったことにも安堵した。
「けどさ、俺ってホントにこういう時に頼れるような友だちって居ないんだよ……初めて気が付いた」
 いいじゃん、僕がいるから。僕はトモに語りかける。口には出さないけれどーー「だから今日、夏原が誘ってくれて助かった。お前からもよろしく言っといて……そーだな、俺もちょっと改心すっかな」
「何言ってんだ。トモはそのままでいいんだよ」
 言ってしまってから、しまったと思った。つい、マジになりすぎた……一方、トモはちょっととまどったような顔で僕を見ている。このままじゃ、またおかしな雰囲気になりそうだーー
 妙に緊張した空気の中で、僕は勇気を出して、このちょっとマジな雰囲気に乗っかることにした。玲子母さんに託されたことを。もう一度、ちゃんと。
 

 僕は、トモに改めて、例のアルバムを手渡した。
「改めて……だけど、出発前に玲子母さんに頼まれてた」
 アルバムに視線を投げたトモの表情は、複雑で読めない。僕は、すうっと息を吸い込んで、言わなければならないことを一気に言った。先ほどのトモを見てしまった今となっては、それを言うのは、僕にとって勇気のいることだったのだ。
「お前にとっては、いらないものかもしれないけど、ひとつのけじめとして持っておいてほしいって。母さんとトモが生きた証だからって」
 トモは何も言わず、素直にアルバムを受け取った。
「けじめだなんて……何をけじめろって?」
 受け取ったけれど、彼の口調は自虐的だった。
「トモ……無理するな?」
 僕の心配が伝わったのか、トモは無理っぽい笑顔を作ってみせる。
「大丈夫……でも、一緒に見てくれる?」
 さっきの不自然な笑顔は消えて、トモは僕の目をまっすぐに見ている。その視線に耐えられなくて、僕は思わず目を逸らしてしまう。
「じゃ、コーヒー入れてくるから」
 目を逸らした僕はキッチンに逃げ込み、トモの過去を知るための心の準備をしなければならなかった。


 そのアルバムは、表紙をめくった最初のページに、九歳のトモの写真が貼ってあった。桜をバックに、一目で私立とわかる制服姿のトモがそこに居た。
「母さんはさ、俺が進級するごとにこうやって写真を撮ってたんだ。マメだよね」 これからトモの過去の一端に触れようというのに、いざ写真を見ると、子ども時代のトモを見るという、ちょっと甘酸っぱい好奇心が大きくなってくる。
「このアルバム……だんだん写真が古くなっていく?」
 最初のページの裏側に「智行九歳」のメモを見つけ、僕は聞いた。普通、最初のページは生まれた頃の写真が貼ってあるもんじゃなかったっけ?
「それは……母さんがページを入れ替えたんだと思う」
 トモは事も無げに言った。
「なんで?」
「最初の写真が一番きっついからさ。多分」
「え?」
「だからページを開けた時にその写真が最初に目に入らないように、古いのが最後に来るように直したんだろ」
 意味がよくわからない。
「まるで、心の準備しろって感じだよね」
 よくわからないけれど、トモのこの言葉は独り言みたいだったので、僕はそれ以上何も聞かなかった。いや、聞けなかったのかもしれない。
 二人で順番にページを繰っていく。運動会、入学式、発表会、七五三……それは、どこの家庭にもあるような節目の写真には違いないが、どの写真にも玲子母さんとトモしか写っていない。父親が居たはずなのに……違和感の原因はそこかと思われたがやはり、聞くのはためらわれた。きっと、そこに何かの真実があるんだろうけど……そう思って、僕はトモが語り出すのを待つことにした。
「お前、今とあんまし変わんないね」
「そう? 大人の顔色ばっかりうかがう、イヤなガキだったよ」
 トモがそんなふうに言うと、何て答えたらいいのかわからない。仕方なく、僕はコーヒーを口にする。砂糖を入れ忘れたコーヒーは苦くて、僕は顔をしかめた。
  確かに、子どものトモはどれも幾分表情が固く、少しませたというか、年のわりに大人びて見えた。けれど、時折トモの目に宿る冷めた光と、やるせないような表情は、そこにはまだ読み取れない。ちょっと固いけれど、まだ十分に子どもらしいと感じられる表情ばかりだ。
「俺、母さんに似てないだろ?」
 トモはアルバムに目を落としたまま言った。
「そうかな……よくわからないけど……」
 確かに、似ていないかもしれない。けれど、今までそんなことを考えたことすらなかったので、改めて問われると返答に困る。
「でも、父親にも似てないんだよね」
 トモは最後のページをめくる。
「これが俺の父親……生物学上のな」
 生物学上?
 最後のページは、赤ん坊のトモを抱いた玲子母さんと、傍らに立つ男の人の写真だった。初めて現れた、トモと母さん以外の人物。
「お父さん?」
「生物学上」
 トモは、その、アルバムに似つかわしくない言葉を繰り返した。
 

 トモは無表情だった。アルバムの親子三人の写真を凝視はしているのに、その表情からは何も読み取れない。
「何か言ってよ……生物学上って何だよ……」
 その表情があまりにも哀しくて、自分の過去をこんな風に見るトモが痛くて、辛くって、僕は言わずにいられなかった。
「僕はずっと……いつかトモが話してくれるのを待つつもりだったけど……別にトモの過去なんか知らなくたって僕は……僕たちは何も変わらないからって思ってたけど……」
 泣けてきそうだった。今こそ、目の前の頼りないトモを抱きしめてやりたかった。
「もう、お前のそんな顔は見たくないんだよ……」
 無表情だったトモの目に、ふっと優しさが宿る。そして彼は、無様にうつむいた僕の髪をくしゃっと掻き回した。
「……ありがとう」


「俺な、母さんの本当の子どもじゃないんだよ」
 テーブルに頬杖をついて、どこか遠くを見るような目でトモは言った。僕は目の前のマグカップをぎゅっとつかむ。とりあえず、縋るものはそれしかなかった。「なん……」
 何か言おうと思ったけど、心をわしづかみにされたようで苦しくて、言葉が出てこない。
「三人で写ってるのは、この一枚だけ。多分な、それからこの男は家に帰って来なくなったんだと思う。俺が覚えてる限りでも、ほとんど家にはいなかったから」
 僕が何も言わないので、トモは語り続けた。
「母さんと、この男はもともと法的には夫婦だったけど。そして俺は、この男が他の女との間につくった子どもなんだよ。で、俺は生まれてすぐ、法的な夫婦の間の子どもとして育てられたってわけ……つまり、母さんはダンナが浮気してできた子どもを押し付けられたんだよ」
「そんな……そんな、自分や玲子母さんを貶めるような言い方するなよ」
 僕は、トモの自虐的な言い方にたまらなくなって、やっとのことで言葉を口にした。
「いつから、いつから知ってたんだ?」
「そうだな……」
 トモはまた遠い目をした。
「小学校の三年くらいだったかな。親戚の奴らが話してるのをたまたま聞いちゃって。そのあとすぐに母さんに問い詰めたけど、母さんは、俺は母さんの子どもだって言って譲らなかったよ。でもな、そういうことって、やっぱりわかるもんなんだよ。上手く言えないけど。それに……」
 トモは口をつぐんだ。彼がもう一度語りだすまでに、少しの間があった。
「それに?」
 僕は、トモの傷口をさらに抉ることに気付かず、答えを促してしまった。
「ある事件があって……もうそれは隠しようもない事実なんだと……」
「トモ?」
 トモは少し震えていた。なのに、まだ言葉を探そうとしている。
「それは……」
「もういい。もういいよ。トモ……もうやめよう。な?」
 さっき、夢を見て取り乱したトモの姿が、目の奥によみがえって、僕は恐くなった。そして、トモに話させようとした自分に腹が立って、必死でトモの肩をつかんだ。
 まだ……まだ早かったんだ。トモが抱えていることは重くて、まだ他人に話せるほど、傷は癒えてはいなかったのに。
「トモ!」
 そう思ったら僕はたまらなくなって、トモの肩を抱きしめていた。浅ましい思いじゃなく、自分で言うのも変だけれど、本当にそんな思いじゃなく、ただそうせずにはいられなくて。そうしないと、トモがどこかへ消えてしまいそうで……
 僕の腕の中で、トモの早かった鼓動が少しずつ落ち着きはじめ、身体の震えも治まってきた。
 トモと僕は同じくらいの身長で、体型も変わらない。けれど、腕の中に納まっている彼は、とても頼りなくて小さく思えた。
「もう……大丈夫」
 少しくぐもった、小さな声。
「無理、するな?」
 一瞬、視線がぶつかって、先に逸らしたのは僕の方だった。
「だいじょぶ……聞いて?」
 トモは僕から身体を離すと、再び語り始めた。先ほどとは違う淡々とした口調でーーその内容は、先ほどにも増して残酷で哀しすぎるものだったのに……


「母さんは、俺は自分の子どもだと言ったけれど、ある事件があって、もう、何もかも隠しようもなく、全部……さらけ出されたっていうのかな」
 ある事件……その言葉だけで十分嫌な予感がした。トモは続ける。
「俺は、その男と、俺を産んだ女とに殺されかけたんだよ」
 ……空気が凍るような感覚だった。
 淡々としたトモの口調が、さらに空気を鋭利な冷気に変え、僕の心や感覚をも凍らせる。
「無理心中ってやつ」
「……そんな……」
 僕は、思考も言葉も、その冷気に奪われてしまった。まるで金縛りにあったように動けない。
「なんで……どうして……」
 なのに、陳腐な言葉ばかりが自分の意思と裏腹にぼろぼろ零れ落ちてくる。
「この世で一緒になることはできないから、俺を道連れにしようとしやがった。……笑わせるよな。俺を母さんに押し付けて捨てたくせに、一緒に連れて行こうとするなんてさ。自己満足もいいとこだよ」
 トモの口調に少し、苛々したものが戻ってきていた。その方がマシだった。感情の篭らない口調で淡々と語られるよりは、まだその方が……
「しかもな、二人は実の兄妹だったんだぜ」
「……きょうだい?」
 僕は、そう言っている自分の声を聞いた。誰か別の人の声みたいだった。
「だから、どうしても一緒にはなれなかったってワケだよ」
 トモは他人事のように言い放った。一旦は飲まれかけた自分の感傷に打ち勝ったのか、冷静さを取り戻している。
 いろんなことがわかってきた。トモは、父親と、その実妹との間にできた子どもで、生まれてすぐに、妻であった母さんに預けられた。父親はトモを省みることはなく、トモはその事実を知ってしまい、あげく、思いつめた勝手な親たちに無理心中というかたちで……その後は、とても言葉になどできやしない。
「二人は? その二人はどうなって……」
「死んだよ」
 あえぐような僕の問いに、トモはさらりと答えた。
「男はその時に。女は助かったらしいけど、その後どうなったのかはよく知らない。その時の後遺症が残って、どこか病院にいるって聞いてたけど、今はもういない。助かった俺は、しばらくショックで口も聞けなくて病院に居たから……退院してきたときにはもう、全てが終わってて、そして」
 トモはひとつ息をついた。
「そんな俺を、母さんはあの家から連れ出してくれて、本当の子どもとして育ててくれた。前に母さんは離婚したんだって言ったけど、本当はそんなわけで死別だったんだよ。そしてカオルの父さんと出会ってここへ来た……そんで終わり」
 トモは簡単に話を結んだけれど、本当は……本当は、もっと事情に付随したいろんなことがあったんだろうということは想像できた。
「だから、死んだ父親は生物学上。俺は今の父さんと母さんが本当の親だと思ってる。もちろん、カオルのことも……」
「もちろん、もちろん何だよ?」
 そこは、ひっかかるとこじゃないとわかってたけど、僕はさっきから涙が止まらなくて、何て言ったらいいのかわからなくて、ただ自分の感情のままに言葉をぶつけてしまった。
「きょうだいだとは思わないって言ったじゃん? じゃあ、僕は何だよ。トモの何……」
 僕は泣きながら、支離滅裂なことを言っていた。
 父さんと玲子母さんが親なら、僕は何? 僕は大変な時期を生きてきたトモにとって、何に成り得るんだろう? 何の価値があるんだろう? せめて癒しでいたかった。父さんと玲子母さんがそうであるように、僕もトモのかけがえのない存在でいたかった。
「大事な、存在だよ。カオルは、カオルだから」
 トモはふわっと優しく笑った。そんな顔を見たら、僕の溢れ出す感情は、ますます止まらなくなる。
「情け……なさすぎ……何で話聞いてた僕がこんなに……泣いて……っ」
 みっともなくしゃくり上げながら僕は言い、そんな僕にトモは静かに告げた
「言ったろ? だから好きだって」
 それは、いわゆる恋愛の「好き」じゃない。けれど、今の僕には十分すぎる答えだった。
 きっと、トモには好きだと思える人間がすごく少なくて、そういうふうにここまで生きて来るしかなくて、だからそれだけで僕はトモの特別な存在なんだと、こんなに嬉しいことはないと、この時は本当にそう思っていたのにーー


「ほら」
 トモは濡らしてしぼったタオルを投げてよこした。
「ん……」
 ひとしきり泣いて、気恥ずかしさが戻ってきた僕は、素直にそれを受け取って顔に当てる。
「あーくそ……こんなに泣くなんて信じらんね……」
 腫れた目に、濡れタオルがひんやりと気持ちいい。
「目ぇ真っ赤」
 トモがまじまじと言う。
「うるさい……ていうか、いや、ごめんな。話すの辛かったのはトモの方なのに、何か僕の方が泣いちゃってさ……」
「ん? 聞いてもらってよかったって思ってるよ……確かに、そんなに泣かれるとは思わなかったけど」
 トモはちょっと笑って、そして真面目な顔にもどって続けた。
「俺もな、話しててわかったことあるし」
「わかったこと?」
「うん。母さんが、俺たちが生きてきた証って言ったその意味っていうか……誕生日のケーキに母さん必ずローソク立てるだろ? あれって母さんにとって儀式なんだ。二人で朝比奈を出てからもずっと続けてる。ローソクの一本一本に意味があるんだ。だから、照れくさいけど俺は、ちゃんとローソクに向き合うことが、俺を育ててくれた母さんへのせめてもの気持ちだと思ってた」
「うん、何となくトモが誕生日を大切に思ってるのはわかってたよ」
「だからかな、離れてみて本当にわかった。俺にとって母さんの存在ってこんなに大きかったのかって」
「だから、不安定になった……?」
 僕は、控えめに聞いた。トモは素直にうなずく。
「うん。本当に二人でがんばって生きてきたんだなあって思った」

 ヤバイーー

 また、胸に何かがこみ上げてきた。さっき泣き止んだばかりなのに、僕の涙腺は壊れてしまったみたいだ。
「……お前、また泣いてんの?」
 トモが驚いて僕を見る。
「だって……だってさ……」
 ほんとに今日の僕はどうしようもない。トモを支えてあげたいと、本当にそう思っているのに、いろんな事を乗り越えてきたトモの強さと脆さを思い知って、どうしようもなく、せつなくて仕方がない。何の力もない自分がもどかしい。
「俺は確かに、この家の誰とも血が繋がってないけど」
 トモはまた、僕の髪を掻き回す。もう、そんなガキみたいな扱いはやめてくれよ……情けなくて、愛しくて、本当にどうすればいいのかわからないんだよ……「でもな、こうやって俺のために泣いてくれる人がいるんだってことが、すごく幸せだと思ってる」
 トモの言葉は、心地よい響きで僕の心を揺さぶった。
「だから……泣け」
 悪戯っぽく言うと、トモは僕の頭を小突いた。それはきっと、彼なりの照れ隠しだったのだろう。
「……今日はここまでな」
 それだけ言うと、トモは静かに部屋を出て行った。
 残された僕は、トモの中にまだ、語りつくせない、消化しきれないものがあるんだろうかという不安を抱きながらも、心地いいんだか、悔しいんだかわからない涙を拭い続けていた。

<トライアングル8に続く>


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