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トライアングル18

第十章 二人の夜 1 <side カオル>


 よく眠れなかった。

 うとうとしては、浅い眠りから覚める。身体も気持ちも疲れているのに、隣に人が眠る緊張感からなのか、どうにも落ち着かない。一方、桜子は僕の隣で規則正しい寝息をたてていた。取り合えず、桜子が僕の側で安心して眠っているので、これでよかったんだ、と思う。

 もう眠ることをあきらめて、僕はベッドから抜け出してソファに移動した。もう明け方なんだろうけど、ラブホテルというのは窓が閉ざされていて、明るいんだか暗いんだか、わからない。ヤるための空間なんだな、と改めて思った。
 昨夜シャワーを使ったあと、実はどうしたらいいのかわからなかった僕は、置いてあったバスローブじゃなくて、朝から来ていたポロシャツとハーフパンツをもう一度着た。そうして、結局は脱ぎ捨てた服を拾い集めると、嫌でもそのことを思い出してしまうーー俺って、女の子ともできるんだ。最初に思ったのはそのことだったけど、それ以上のことは考えるのを止めた。ただ、恋愛感情じゃなくても、こういうことができるんだということを思い知って、それが釈然としなかった。もちろん、恋愛感情ではないといっても、桜子のことは特別な、複雑な感情で支配されていたし、全くの興味本位や好奇心だったわけではない。
 けれど……好きな人とできたら、それはどんなに幸せな行為だろう。桜子と朝を迎えても、僕はやっぱりトモのことを考えていた。


「アメリカのオヤのとこへ行くよ」
 帰りの電車の中で、僕は桜子に言った。
「もう、これ以上、トモと一緒にいるのは辛い」
 僕の弱音を、桜子は黙って聞いていた。
「逃げだと思う?」
 桜子は何も言わない。何か言ってくれればいいのに、と思いながら僕は言葉を続ける。
「そうだよ。逃げるんだ。向こうでちょっと頭を冷やして、そしたら何か違うものが見えてくるかもしれないって」
「智行を置いていくの?」
 やっと口を開いた桜子の口調には、僕を責める響きがあった。
「カオルくんはそれでいいかもしれない。でも、智行はカオルくんに側に居てほしいよ、きっと」
「……」
「ごめんね」
 僕が黙っていると、桜子は続けて言った。
「あたしが口を出せることじゃないってわかってる。でも、あたしはやっぱり、智行には笑っていてほしいから」
 考えなかったワケじゃない。いや、考えないようにしていたのかも。
 僕がトモを置いていく。トモが一人残される。でも、トモには坂崎がいるじゃないかーー
 無理やり自分を納得させる。
「もう疲れたんだよ」
 それきり、僕たちは何も話さなかった。待ち合わせをした駅に着くと、「じゃあね」も「またね」も「さよなら」も言わずに、別れた。


「おかえり」
 玄関のドアを開けたら、シューズクロゼットにもたれて、トモが座っていた。膝を抱えて丸くなっていたトモは、首だけを動かして僕の方を見上げる。
「おかえり」
 繰り返された言葉に「ただいま」と答え、投げかけられた視線から目を逸らす。咎めるような、そして無自覚に誘うような、色っぽい視線だった。
 しっかりしろ。僕は自分に呼びかける。桜子と寝たばかりなのに、いや、だからこそなのか、こんなにトモの視線にゾクゾクするなんて、どうかしてる。
「朝メシは? つってももう、昼だけど」
 先にリビングに入って行ったトモは、背を向けたまま言った。
「食べたよ」
「桜子と?」
 トモの不意打ちを、僕はさらりと受け流す。
「そうだよ」
「俺、言ったよな」
 トモは僕の方を振り向いた。泣きそうな顔をしている。
「俺の知ってる桜子だったら、会わないでって」
「言った」
「あいつは、俺の従姉妹だよ? 朝比奈の人間なんだ。俺と母さんを苦しめた……」
「知ってる。彼女に聞いた」
 トモの感情が昂ぶってくる。僕は言い争いにならないように、平静に受け止めるしかなかった。
「じゃあ、何で? 何であいつはカオルに近付いたんだよ」
「何でって……そんなの偶然だよ」
 言えるわけがない。桜子がどんな思いで僕に近付いたのか。僕が黙っていることは、同時に二人を守ることだった。だから、絶対にトモには言えない。
 でも、桜子を「あいつ」呼ばわりするトモに、僕は次第に苛つき始めた。彼女の現在置かれている状況とか、トモに対する気持ちを思うと、朝比奈の人間だというだけで、そんなふうに一刀両断にされる彼女が可哀想で仕方なかった。
「ウソだ。そんなこと、あるわけない」
 トモは食い下がった。そして、僕の苛々の原因はもう一つあった。それが次第に頭をもたげ始め、だんだん無視するのが難しくなってくる。
 トモの主張の中に、僕の居場所はない。どういうかたちでもいいから、僕はトモに嫉妬してほしかった。朝帰りした僕に、女の子と一晩一緒だった僕に。
 可哀想な、僕と桜子。こんなヤツに振り回されて……理不尽な怒りと、紙一重の愛しさに捕らえられ、感情はトモに向かって溢れ出した。頭がグラグラする。
「従姉妹って言っても、お前は彼女のこと、ほとんど知らないだろ? なのに、なんでそんなに嫌うんだよ。彼女がお前を傷つけたわけじゃないだろ?」
 身勝手な大人に傷つけられたのは、お前だけじゃないんだ、トモ。桜子は一人ぼっちなんだよ。お前には父さんも母さんも僕もいるだろ? お前には僕がいるだろ? でも、でも僕はもうーー
 叫びを心の中で吐き出すと、一瞬めまいを覚えた。トモの顔が目の奥で歪んで見える。
「なんで、そんなこと言うんだよ。カオルだけは、わかってくれると思ったのに、お前は俺の……」
 トモが何かわめいたが、よく聞き取れなかった。ただ、トモがわめきながら僕の肩を掴んだので、よろけて足がもつれた。
「……離せよ」
 何故だろう、息があがる。
「カオル、おまえ熱が……」
 トモの顔が、我に返ったようにはっとする。次の瞬間、トモの手が僕の額を覆い、ひんやりとした感触なのに、触れられたところから僕は蕩けそうになる。
「離せってば……」
「すごい熱」
 僕を無視して、くずれそうな身体を支えようとするトモに怒りを覚えながら、なのに朦朧とする意識の中で、本当はそれが嬉しいのか辛いのかわからなくなって、ああ、もう、自分で何を言っているのか、わからない……
「もう嫌だ……側にいたくない。父さんたちのところへ行く……もう嫌だ」
「カオル」
 トモが何か言ったけど、よく聞き取れなかった。


「あれ?」
 目が覚めた僕は、一瞬、自分がどこに寝ているのかわからなかった。僕の部屋と天井が違う。ここはリビングだ。
 起き上がると、湿ったタオルと水の入ったビニール袋が目の前に落ちてきた。タオルはじんわりと生温かく、ビニール袋は、水でたぷたぷしている。
「カオル?」
 心配そうな顔でトモが見下ろしている。
「起きたんだ……よかった」
 トモは安堵のため息でそう言って、僕の足元に座った。
「僕……熱があった?」
「三十九度。びっくりしたよ。熱なんか久しぶりでさ。その場に倒れこんじゃうし……で、部屋まで運べなくてソファなんだ。ごめんな」
「これ、全部おまえが?」
 僕は間抜けたことを言った。この家には、僕のほかにはトモしかいないのに。「あの、凍った枕みたいなやつ……あれが見つからなくて。母さんが、ちゃんといつでも使えるようにしときなさい、ってうるさく言ってたのに」
 僕は、水の入ったビニール袋を触った。ああ、これは氷が溶けた残骸だったのか。
「ありがと」
「うん」
 倒れる前はケンカしていたはずなのに。険悪な空気は微塵もなく消えうせて、そこには、日常の穏やかさが戻ってきていた。
「トモは昔から、僕が具合悪いとすごく優しくなる」
「そんなことないだろ? 具合はどう? 往診頼もうか」
「いいよ、たくさん寝たから楽になった。ここ二日ほどろくに寝てなかったし…」 
 いろいろ考えすぎてパンクしたんだ、と言おうとして言葉を飲み込んだ。
「ゆっくり休めば治るよ。どこも痛くないし」
 トモは、それに対して何も言わず、黙って着替えを出してきてくれた。熱は下がっていたけれど、何も食べたくないと言ったら、トモはゼリー飲料とアイスクリームとヨーグルトを買ってきた。
 僕はおとなしくゼリー飲料と薬を飲んで、部屋のベッドで何度かうつらうつらとし、薬が効いたのか、次に目覚めた時には頭がスッキリしていた。もう、日付が変わろうとしていた……なんと、十時間以上も寝たり起きたり……ほとんどは寝ていたのだが、していたことになる。
「三十六度ニ分」
 僕から体温計を受け取って、トモが言った。
「睡眠と薬で復活」
 僕は得意気に言った。
「でも、明日は学校休めよ。どうせもう、あさって終業式だし」
 トモは、保護者みたいに言った。
「もう夏休みか」
 休むよ、と言って僕は伸びをした。
「いつ行く? 母さんと父さんのとこ。母さんが早く知らせろって、LINE
ばんばん送ってきてるよ」
 トモに言われて思い出した。そうだった。夏休みにはシアトルに行こうって話してたっけーー
 あっちに行ったら、僕はそのまま帰らないつもりだって、言うなら今かもしれない。
 僕は迷った。言い出したら、せっかく取り戻したこの空気をまた壊してしまうだろう。でもーー
「なあ、カオル」
 先に口を開いたのはトモだった。
「さっき倒れる前に、もう嫌だ、父さんたちのところへ行くって言ってたけど……あれはうわごとだよな」
 トモは僕を見ない。視線を床に落としている。
「言った?」
「言ったよ」
 覚えていないけれど、本音を口走ってしまったのか……僕は唇を噛んだ。聞かなかったことにすればよかったのに、トモは、それでも確かめずにいられなかったんだろう。もう逃げられない、と思った。
 告げるときが、来たんだ。
「前から、考えてたんだ。言わなくちゃって思ってた」
「なんで?」
 トモが顔を上げた。泣きそうな顔だ。いや、泣いてたのかもしれない。僕はトモの顔が見れなかった。
「なんでだよ。もう嫌だって、何が……」
 トモは、僕の腕を掴んだ。何が嫌なんだよ、と消え入りそうな声で言って、また下を向いてしまった。
「疲れたんだ。トモの側にいるのが辛い」
「俺がカオルに依存するから? じゃあ、強くなる。もう甘えたりしない。だから……」
 再び顔を上げたトモは、必死の様相だった。誰の前でも感情を見せなかったトモが、泣きそうな顔で僕に行くなと言うーー
「落ち着けよ。落ち着いて話そう。な?」
 必死のトモに対して、変に余裕のある自分に嫌気がさす。
「ごめん」
 トモは、小さな声で言った。その傷ついた風情が、僕の中の何かをかきたてるけれど、気付かないふりをする。
「夏原にさ、カオルはお前のことでいっぱいいっぱいで、まともに女の子と付き合えないんだって言われたことがある。あの時は腹が立ったけど、でも、俺はやっぱりお前に甘えすぎてたのかもしれない」
 僕のベッドの足元で、トモはまた膝を抱えて丸くなっていた。小さい子どもみたいな格好だ。
「ほんとはお前が誰と付き合おうと、俺が口出しちゃいけないってわかってるんだ。でも、でもダメなんだよ。朝比奈の人間だって思うだけで……」
 トモは、手で顔を覆った。過去にまつわることを話すのは、やっぱり辛そうだった。
「だけど、そのことで俺がお前を縛るんなら、努力する」
「そういうのって、努力することなのか?」
 自分を曲げることまでやろうとしているトモに対し、僕の言葉は容赦なかった。「努力することなんだよ。俺にとっては……」
 それはきっと、トモにとって身を切るような努力なんだろう。朝比奈の人間だというだけで桜子のことまで憎むのは、それだけ傷が深いからだ。目の前で死んで行った両親、連れて行かれそうになった自分。それはどれだけの恐怖だったことだろう。
「本当は、どうして桜子なんだって、今も聞きたいよ」
 トモはちょっと笑った。
「今までごめん。甘えてばかりでごめん。強くなるよ。だから行くなよ……」
 まるで、愛の告白だ。トモはやっぱり無意識にこうして僕を傷つける。ゆらぎそうになる決心を僕は立て直さなきゃならない。
「トモには、坂崎がいるじゃんか」
 精一杯の僕の矢がトモに放たれる。だがトモは予想だにしない盾で、その矢を撥ね返した。
「坂崎よりも、俺はカオルの方が大事だよ」
 そんなことを正面切って言われたら、僕はもう、とどめを刺さなきゃならない。「僕は別に、お前に依存されるのが辛いんじゃない。僕
が辛いのは、そんなお前を裏切ってしまうんじゃないかって……」
 トモは、吸い込まれそうに澄んだ目で僕を見ていた。何も疑っていない目だ。僕がこれから言おうとしていることを、微塵も予想していない目。
 その目を見たら、僕は口を開くのが恐くなった。恐くなって黙ってしまった。「裏切る?」
 トモは僕の言葉をなぞった。
「カオル、ひとつ聞いていいか?」
 僕の沈黙をどう思ったのかわからないが、彼は言葉を続けた。
「お前、この前のこと気にしてる?」
 トモは、いきなり僕の心の痛いところをついてきた。
「俺と桜子は、小さい頃、よく似てるって言われたんだけど……お前が俺を押し倒したのは、俺が桜子に似てたから?」
 問いかけるトモの目は、やっぱり澄んでいた。もう、嘘はつけないーー
「逆だよ」
 僕は、噛み締めるように言った。
「僕が彼女と付き合ったのは、彼女がお前に似てたからだよ」
 トモの目が、少し大きく見開かれた。
「わからない?」
「カオル……」
 トモもまた、噛み締めるように言った。
「俺のこと好きなの?」
「好きだよ」
 その言葉を告げるのは、どんなに勇気のいることだろうと思っていた。もしかしたら告げずに終わるのじゃないかとさえ思っていた。
 だけど、いざとなったら、こんなにも簡単に言えるものなのかーー


トライアングル19に続く


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