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オリジナル連載小説 【 THE・新聞配達員 】 その20


20.   お迎え



靴を脱いで
佐久間さんの家の中に入った。


ヒノキの良い香りがする。


「風呂にはもう入ったのか?
下宿には風呂がないだろう。いつでも入りに来ていいぞ。」


「ヒノキ風呂だ。ちょっと見てみろ。」


私が話す間は見つからない。
こちらから質問しなくても
見事に屋敷を案内してくれた。


玄関からすぐのところに風呂があった。
ここからヒノキの匂いがしてたのだ。


なんと風呂全体が全て木で出来ている。
ヒノキなんだろう。
初めて見た。



家の風呂と言えば
団地育ちの私にはプラスチック製の
水色の正方形の浴槽しか見たことがない。
銭湯でも温泉でも陶器のようなタイルだ。

佐久間邸は木のお風呂。
なみなみとお湯が張られて湧いている。
ちょうど入り頃の様子。
ちょうどお風呂に入るところだったのか?
それとも私のために入れてくれているのか?まさか!
そこまで考えているわけないか。


「すごいですね。めっちゃいい匂いしますね。」

「関西人だな。これは匂いではなくて香りだ。」


こ、こだわりが深い!
だからお金持ちなのかもしれない。



「今、入っていくか?タオルならここにあるぞ。」


「いえ、そんな、いきなりお風呂に入るなんて・・・仕事中ですし。」


「そうか。仕事中か。固いな。ではお茶くらい飲んでいけ。
こっちだ。」



命令口調なのに嫌味な感じも偉そうな感じもしないのが不思議だ。



台所があるダイニングキッチンに来た。


ここも木で出来ている。
今度は深くて濃いめの艶のある茶色だ。


アンティークと呼ぶのかもしれない。
テーブル。食器棚。広い台所。
その横には黒く光ったアップライトのピアノ。
6人座れるテーブル。



天井に照明は無く、ピアノの上とスタンドライトが
部屋全体をほのかなオレンジ色に染めていた。
テーブルからは外が見える。
大きなガラスでできた庭に続くドア。
庭にも所々にほのかな明かりが置かれている。



テーブルの上にはポットと急須が置いてあった。
飲みかけのお茶と湯のみとお菓子が置いてある。
何かの書類も置いたまま。
台所の上にも色々置かれたままで、
生活感が出ている。



「私は一人だ。妻は5年前に亡くなった。娘が曙橋の方に住んでいる。」



キョロキョロと辺りを見回していた私に
整理整頓されていないことを説明しているような説明だった。
女性による整理整頓された感じが家の中には感じられなかった。



私は自分の四畳半を懐かしんだ。
なぜあんな狭い部屋に帰りたくなるのか。


早速お茶を淹れてくれた佐久間さん。
ポットのお湯を急須に注いでいる。



「腹は減ってないか?」

「はい。お店の夕飯を食べたばかりで。」

「そうか。」



美味いお茶だ。
こんな美味いお茶があるんだと思った。
きっと高いのだろう。
すごくまろやかでトロミのある緑茶だった。


お茶を飲みながらガラス戸の向こうの広い庭を
眺めていたら、佐久間さんがピアノの前に座った。


「どんな音楽を聴くか知らんが、その源流を知るべきだ。」
と言ってクラシックの曲を自らの手で弾き始めた。


本物のピアノの音が鳴り響いた。
音に勢いがある。
遠慮のない心で弾くと、こんなにも音は
勢いがあるのか。
とろみや艶もある。
高級なお茶と同じ演奏に感動した。



ところどころ、つっかえる指。
佐久間さんは弾きながら言い訳をした。


「最近練習していなかったから指が動かん。」


決して歳のことを口にはしなかった。
練習していないのにこれだけ弾けたら上手い方だろう。


マイナー調の暗い曲がこの家の雰囲気にピッタリだ。


「月光だ。知ってるか。」


私はクラシックなら帰ると心に誓っていたのに
あまりにも素晴らしい旋律に頭が空っぽになった。


「源流をもっと知った方がいいぞ。」
そう言いながら目をつむってピアノを弾いている佐久間さん。


私は立ち上がって佐久間さんの目の前にある譜面を見るために
ピアノに近づいた。


おたまじゃくしがいっぱいだ。
難しい曲なのだな。


【月光・ベートーヴェン】と書いてあった。


佐久間さんは目をつむって弾いている。
私は佐久間さんの指と譜面の音符を拾った。


「後ろで座って目をつむって聞け。
譜面なら後でたっぷり見せてやる。」


その通りだった。
一体いつ目を開けていたんだろう。


私はきしむ木の床の音がならないように
そっとテーブルに戻って目をつむった。



佐久間さんは本気で弾いている。
ちょっと弾けるから弾いてみたのではない。
真剣に心を込めて弾いている。
まるで舞台の上で弾いているかのように
身振り手振りが曲の雰囲気に合っている。
エンディングの音に一つ一つに力を込めて
弾ききった佐久間さん。



私は拍手した。
大きくて長い拍手を。
1万人分の拍手に聞こえただろう。



「少しつまづいたが、まだ弾けるな。よし、譜面を見せてやろう。
これがすごいんだ。裏に値段が書いてあるだろう?」



と言って楽譜本を渡してくれた。


値段を見た。「1圓」と書いてある。


「1円??」


「そうだ!1円だ。確か初任給が40円くらいの時だ。
これが初めて私の親から貰った譜面だよ。すごいだろう。」


「すごいですね。」


「どれ。もう一曲弾いてやろう。」


今度は【別れの曲】というショパンの曲のページを開いた佐久間さん。


目をつむって弾くのに譜面は一応開いていた。


私はまた感動した。
ピアノが欲しくなった。
自分の指もああなることを望んでいるように
お茶を持つ手が少し興奮で震えている。



「私の演奏は下手くそだからCDを貸してやろうか。こっちに来い。」


そう言って演奏をやめて立ち上がり
奥の部屋に歩いて行った。
私はついて行った。



廊下を少し歩いて突き当たりの左奥の部屋に入った。
寝室だ。
ベッドがありテレビがあり、
CDがわんさかと並んでいた。



「どれがいい?クラシックは聞かないのか?今どんな音楽を聴こうが
これが大元だからな。一度は聞いておいて方がいいぞ。」


ん〜。
さっきまでの感動がなくなった。
CDとなると途端に興味がなくなっていく。
生のピアノの音だったから感動したのだ。
CDは多分借りても聞かないだろう。
でも私は嘘をついた。


「これを聞いて勉強します。家に帰って聞きます。
さっき弾いてくれた曲のCDを貸してください。」


「おーそうか。さすが音楽家だな。よし、ではこれとこれと・・・
これもいいぞ。これも持って行け。」



自分の部屋にCDを聞く装置が無いことは言わなかった。



私は4枚のCDを大事そうに持って部屋から出て
「ではそろそろ、失礼します」と言って
帰ろうとした。


「ちょっと待て。こいつらも貸してやろうか。」


少し小さくなった佐久間さんの声の変化に気が付いて
振り向いた私。


佐久間さんは、
ベットの下の収納部分の引き出しを引っ張り出していた。


そこには黒いビデオテープたちがズラリと並んでいる。

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真田の真田による真田のための直樹。 人生を真剣に生きることが出来ない そんな真田直樹《さなだなおき》の「なにやってんねん!」な物語。

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