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成長・改善は必ずしも喜びじゃないんです

最近、体のあちこちを直してます。

先日書いたゼロトレもそうですが、歯の矯正も始めようと思っています。

この歳までほったらかしにしてしまっていたのですが、
矯正した友人からの強い勧めもあり、意を決して歯医者さんに行きました。

で、言われたのが

「ありゃーこれは結構大変ですよ」

「結構酷いねー」

「噛み合わせ出来てないでしょ」

という感じの言葉でした。

実際その通りだし、だからこそ矯正しようかなと思ったわけなんで、

理屈で考えればなんの不満もないんですが、

なんだかモヤっとした感じが残ったんですよね。


歯医者さんは完璧に仕事を果たしてくれたわけなんですよ。

「患者の問題点を指摘し、改善点を挙げ、どうすれば良いのかを伝える」

というプロとしての役割をきっちり果たしてくれたわけなんですが、

見方を変えると、これ、現状の完全な否定なんですよね。

「あなたは正しくないです」

「あなたは正しくないままずっと過ごしてきました」

「ここも、あそこも、というか大体全部間違ってますね」

というメッセージでもあるわけなんですね。


もちろん歯医者さんにそんな意図がないことは十分にわかっていますし、

別にそう受け取る必要もないのですが、

指導や改善が「現状の否定」であるということ自体は揺るがないんですよ。


僕のnoteには「褒める」や「ホスピタリティ」に関することが良く出てきますが、

これは絶対に避けられない「指導」という「現状の否定」には、
緩和剤である「褒める」や「ホスピタリティ」が不可欠だからなんですよね。

指導する側からすれば、「相手がより良くなるため」の行為なのですが、
される側からすれば「現状の否定を突きつけられる」行為でもあるわけです。


矯正の例で言えば、僕は八重歯が目立つ感じになっているのですが、
八重歯を褒められたりすることも今まであったりして、
自分としては必ずしも悪いだけの部分だとは思ってなかったりするんですよ。

もちろん理想の状態から言えば「不適切」な状態かもしれないんですが、
「不適切」な状態を本人がどう捉えているか、にはすごく注意が必要だと思います。

指導や改善は受け入れられて初めて成立するものです。

受け入れられない指導は「ただの否定」でしかないわけです。

世で行われるほとんどの指導は「相手の成長を願ってするもの」だと思います。
なのにそれが「相手の否定」止まりになってしまっているとしたら、本当にもったいないことだと思います。

自戒を込めてというか、自戒でしかないのですが、
「指導・改善」が「現状の否定」であるということは常に前提として持ち続けていきたいですね。

それでは!


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