等身大のわたしを感じる┊︎読書感想文
秋に読みたくなる、だいすきな小説。
わたしとはこれですといえる小説があるといい、とどこかで聞いた。
わたしにとってはそれが『デッドエンドの思い出』。
こういうふうに思ってるの、よくないことかな?
と遠慮して仕舞っている本心が言葉になっていて、わたしが思うことって自然なことで、そのままでいいんだと心地良さを与えてくれる。
家族との距離感って本当に悩ましい。
わたしは親への感謝よりも憎しみや不信感が勝ってしまって、どうにもいい関係を築けない。
それに自分のやっていることはなるべく知られたくなくて隠している。
「こういうことが好きならそれを仕事にできるようにしたらいい」とか、そういうことを言われるのがもういやなのだ。
いやだということは一度伝えたし、それからは言われてないけれど、心がザワザワしてしまって、やっぱりオープンにはできない。
わたしは自分の趣味がすごく好き。
音楽も本を読むことも、アイドルを推すことも楽しい。
趣味は自分の不可侵なテリトリーだから、そもそも誰かに踏み入られたり口出しされるのがすっごく嫌い。
その辺は守っていきたいな、と思う。
親との関係はわたしが平気な振りしてればいいのかもしれないけれど、表面的に取り繕ったって疲弊するだけだし、親の望みを押し付けられやすくなるだけ。
わたしがもっと自分自身をしっかりもって、毅然と立ち振る舞えたらいいのだろうけど、今までのわたしの生き方からそっちのほうにいくにはまだまだ時間がかかりそうだ。
今のわたしは「親には感謝すべき」という前提があるみたい。
普段、どういう時に感謝を返したくなるだろう?
・困っている時に助けてとらったとき、気にかけてもらったとき
・否定せずに(意見を挟まずに)最後までゆっくり話をきいてもらえたとき
・大事にしてもらえてるなって思った時
・プレゼントをもらったとき
・わたしに不幸な出来事があって、すぐに予定を空けてご飯に行ってくれたとき
・悩み相談に真剣に、慎重に考えて感じたことを教えてくれたとき
書き出してみると、わたしは困ってるときに助けてくれる人に深く感謝を感じるみたい。
うーん、そう整理してみると親がこういう風に助けてくれたことはなかったかもしれない。
だから、親に感謝していないわけではないし、憎しみもそこまで深いわけではないのかもしれない。
ただ本当に得たいものが得れないのが悲しくて、それが直視できなくて、それを親に向けていただけなのかもしれない。
それに生活を支えてもらっていることには感謝しているのだ。
ただそれが当たり前になりすぎているから、それが当たり前じゃなくなったとにに心から感謝できるようになるのかもしれない。
いつかくるのなら、その時を自然に待ってみるのもいいかもしれない。
わたしは過去のことと、これからの自分をもう少し切り離して考えてみてもいいんじゃないかと思うのだ。
完全に無意識だったんだけど、家庭環境からくる心の傷やゆがみと、これから起こること全てが繋がっていて、必ず自分を苦しめ続ける、なんていうふうに思い込んでいたんだ。
2、3年前までは辛さに振り回されていたけれど、今はそうでもないし、昔と比べると安定した人間関係が築けるようになっているはず。
今は自分の過去は関係なく仲良くなれている人もいるから、過去は過去、今は今、と切り離して考えて、もう少し安心してみてもいいんじゃないかな。
自分の恋人と結婚するときに親に紹介して反対されるんだろうな、それでまたわたしの人生は親に邪魔されるんだって絶望するんだろうな。
とかそういうヒステリーな想像が頭を占領して、自分の幸せな未来を望めなくなっている。
多分、そう想像するのはまだまだ親の支配が当然の世界観の中にいるからで、今回これに気づけたから、そのうち抜けだせるだろう。
前までならこういうのに気づく度に大泣きして目を金魚のように腫らして親友に電話したものだけれど、今は随分と落ち着いていて、そうかそうか、とずっしり重みを受け止めている。
わたしの自己の器は着実に大きく、そして柔らかになっていて、まだまだ広がりをみせていく。
不幸探しではなく、幸せを感じながら生きながらえていく。
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