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時間が早くすぎるようになったら、「大人」。【理想の若者論#4】

こんにちは、Studio Topitaです!
私たちは理想郷を本気で「想像」「創造」するサークルと称し、毎月テーマを決めて語り合い、議事録をアップロードしています。
ぱっと聞いただけでは「?」かもしれませんので、どうぞ是非、自己紹介をご一読いただきたいです。
(常連さんは、いつもありがとうございます!)

Studio Topia 6月
第3回「時間が早くすぎるようになったら、「大人」。」

みなさんこんにちは、Studio Topiaです。
すっかり梅雨も明け、もう夏ですね。
早すぎる気もしますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

今回まで、「理想の若者論」について考えてきました。
「子供」と「大人」の間を生きる私たち自身が、自分たちのこれまでとこれからにどう向き合えば良いのかを考えたく、また、「若者」として、世間で言われている「大人」「子供」のイメージが果たして本当に正しいのか、検証してみたかったからです。
先週までの回で、「若者」や「大人」/「子供」については考えてきておりますので、是非そちらもご覧ください。

序回 子供と大人の境界線を考える
第二回 「大人」とは、なるものか、させられるものか
第三回 「成人って何?」にどう答えますか?

今回は「子供は社会を担えるのか」という観点を予定していましたが、すこし趣旨を変えて、「社会人」を中心に考えてみました。

以下、議事録です。

議事録

時間が早くすぎるようになったら、「大人」。
まず、「時間」という切り口から「大人」と「子供」について考えることとなりました。「春から社会人となったことで、大学生の時より時間が区切られるようになった」という感覚をきっかけに、「子供たちは時間をあまり気にしない。大人になると、時間に縛られて、時短することや時間の使い方を気にし過ぎてしまうきらいがある。時間への意識の差が大人と子供を大きく分けているのではないか」ということでした。これに関して、「大人や子供、というより、所属している社会が求める時間の使い方が違うだけでは」という意見が出ました。「子供」のうちは「自由に時間を使う」ことに重きが置かれ、「大人」になると「責任を果たす時間」のようなものが生まれてくるように見えます。現在の社会の構造的に、「時間」は「子供」と「大人」を分けていると言えるでしょう。

「社会人」≠「大人」
次に、「社会人」という単語が出てきました。この「社会人」ですが、「大人」とは違う、という意見が出されました。「大人、というのは精神面の成長というイメージがあり、社会人は枠組み、属性という感じ」ということです。また、「『社会人』となるための教育と、『大人』になるための教育は別である」という意見も出されました。まさにその社会のことを学ぶ必要がありますが、「大人」になるための教育は別のものであるという話が出ました。

何者でもない=何にでもなれる、若者と子供たち
今回の回には、「社会人」の参加者と「学生」の参加者がいましたが、両者の話を比較してみると、案外それぞれ無い物ねだりなのかもしれない部分が見えてきました。
「学生」からは、「大学生、大学院生であることに焦りがある。カリキュラムに追われたり、世の中の流れとずれているという感覚があったり、何者かにならなくてはいけない、という焦りがある」という声が上がり、一方で「社会人」からは「社会人として、働いているときは自分に役割が与えられ、「何者か」である、という感覚がある。しかし、家にいる時の「ありのままの自分」とも違う気がする。大学生の時は何者かにならないといけないと焦っていたが、なってみるとなってみるで自分が分裂したような変な感じがする」という意見が出されました。「学生」や「社会人」という属性ひとつ(というには大きいですが)で感覚が180度がらりと変わるのが面白いですね。
「自分にはより理想的/あるべきなあり方がある」と思うと焦りますが、「学生」「若者」「社会人」「大人」ではない新しい在り方を模索してもいいかもしれません。(それは「子供」でしょうか?)

まとめ:それぞれの人の中にある「大人像」を改めて紐解きたい
さて、ここまで「社会人」などの概念にも触れながら「子供」「大人」について考えてきました。

改めて、初めの問いに戻ります。
それは、「『子供』と『大人』の違いとは何で、境界線はどこにあるのか」「そのイメージは妥当なのか」といったことでした。

まず、「子供」「大人」の境界は時代や社会や人による、というのが結局のところの答えとなってしまいそうです。
ポイントは、いまの日本社会において、それを問いたくなってしまう現状がある、ということではないでしょうか。
成人年齢も曖昧、「大学生」も勉強なのか就職準備なのか曖昧、「子供」に責任が(時には「若いのに偉い」といった美辞麗句によって)負わされたり、「大人」の存在が馬鹿にされたりすることもある、そんな社会です。
自分は今何なのか?果たしてどうすれば「大人」になれるのか?何が正解なのか?は実際のところ疑問になってきます。今後さらに曖昧になる時代に突入しそうで、混沌としそうな感じもします。

また、「『子供』『大人』それぞれにしかできないことはあるのか」という問いも出て、今回は「政治」にフォーカスが当てられました。「子供は社会を担えるのか」という問いに近くもあります。
「子供の方が純粋な政治ができる」「大人は汚い」と言われることもありますが、みなさんはどう思われますでしょうか。会の意見の総合としては、「大人の方が、他者を鑑みて判断を下せる傾向にある」「子供心を忘れていない大人もいる」ということで、大人に軍配が上がりました。
であれば、そういう大人が活躍できる社会をつくりたいものです。

成人年齢が引き下がったことをきっかけに、「若者」、そして「子供」「大人」について考えてきました。
今の日本ではその区分が曖昧だということが分かりましたが、だからこそ、今回出してきたような、さまざまな「問い」とそれに対する「想像」が意味を持つのだと思います。
今後も考えて行きたいと思います。

編集後記

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

「理想の若者論」を通して、「子供」「大人」「若者」について考えてきました。
私も春から「社会人」というものになっている1人ですが、なんとなく思うのは、「大人も『大人』になろうと焦っているなあ」ということです。というか、下手に焦らないために、みんなで「大人」という像を作って目指しているような気がします。
一生焦って、「何かにならないといけないと」と思って生きていくのは辛過ぎますし、その中で何かになれるかどうかは、正直運の要素も強くあります。「こうあれば『大人』」というものを、なんとなく他人を見て、会得して、そうなっていく、というのが、「大人」たちなのではないかと思うこの頃です。
私自身はそういう「像」に馴染みきれないところがあり、一生「何かにならなくては」と焦っていたいタイプですが笑、とはいえ案外、気がつくとその「像」に向かって努力していたり、成っていたりすることもあります。
そんなこと可能か知りませんが、いい塩梅に「子供心」「若者心」を持って、「大人心」も伺いつつ、年をとっていきたいなと思った会でした。(奈都)

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Studio Topia 6月テーマ「理想の若者論」
第3回「時間が早くすぎるようになったら、「大人」。」
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