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ととのエッセイ 「フレンドリー」について

春から娘が小学生となり、昨日初めて娘の登校に同行した。平日休みの良い所だ。たかが小学生の通学といえど、されど多くの人達や仕組みが働いてくれている。

横断歩道を渡ろうとした時、交通誘導のおじいさんは僕のことを物凄く疑り深く見ていた。僕は「ご苦労様です!」と大きな声で言った。おじいさんは「は〜い、気を付けてね!」と笑いながら言った。

その後しばらくし、我が家と同じようにお子さんの登校に同行しているお母さん達に会った。お母さん達は、僕のことを物凄く疑り深く見ていた。僕は「いつも仲良くしてくれてありがとね!」と元気な声でお子さんに言ってハイタッチをした。お母さんはにっこりと笑った。

昔と比べると、人と人の距離は明らかに遠くなったなあと感じる。それもそのはずだ。僕以外におじいさんに挨拶している人はほとんどいなかったし、登校中に気軽に会話できる人同士が限りなく少ないなあと感じる。

今の社会にはフレンドリーな人があまりにも少ないのかもしれない。だとしたら、誰だってフレンドリーに振る舞う事の尊さを手放してしまうだろう。

それは自然な事だ。

問題なのは「自分自身がフレンドリーでいたいかどうか」だろう。僕はフレンドリーな人間でいたいし、そういう人が好きだ。だから人がフレンドリーであろうがあるまいが、いかなる状況であろうともまずは自分がフレンドリーでいようと思う。

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