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Episode 023 「中学2年生と高校3年生が同じ空間に居る。どう言うこと?!」

オーストラリアの教育システムは、大きく分けると三つに分かれている。Primary(第一の)、Secondary(第二の)そしてTertiary(第三の)の三段階である。つまり、Primaryが1年生から7年生、Secondaryが8年生から12年生、そしてTertiaryが大学以降、という具合である。プライマリースクールが1年生から7年生(日本でいう小学校1年生から中学1年生)まであり、その後ハイスクールで8年生から12年生(日本でいう中学2年生から高校3年生)となる。

オーストラリアの教育システムは、大きく分けると三つに分かれている

つまり、中学2年生と高校3年生が同じ空間にいたのである。ただでさえ、アジア人である私は明らかに実年齢より幼く見えたことに併せ、身体も小さかった為、12年生(高校3年生)の生徒と比較しようものなら正に子供と大人、という感じであった。西洋人の多くは、我々東洋人(アジア人)に比べ圧倒的に大人っぽく見えるということも手伝い、周りにいる多くの生徒が私より遥かに年上の大人に見えた。

アデレードハイスクールに入学(Episode022参照)してからも様々な人種の生徒がと机を並べてきた。アジア人では、ベトナム人、カンボジア人、中国人が多く、その他にはタイ人、イラン人、イラク人、中東からはレバノン人などもいた。そんな中、日本人と言えば、私が入学した時点(1998年)では(姉二人以外)一人も居なかった。

ヨーロッパからは、ギリシャ人、イタリア人、ロシア人、ドイツ人、旧ユーゴスラビア人などが居た。入学と共に、とある試験が行われた。どうやら、英語(国語)のレベルを測る試験だった。この試験の結果で、定められた一定のレベルに達しない生徒達は科目としてESL - English as a Second Language -(Episode014参照参照)を受ける必要があった。因みに私は当然の如く、ESLを教科として選択する必要があった。

正直、ハイスクールに通い始めてから約2年間は(もちろん意に反して)訳も分からず時間だけが進んで行った、という感覚が強くある。ハイスクールでの日々(特にこの最初の約2年)はアデレードに来て初めて通ったネイルスワースプライマリースクール(Episode012参照)に通い始めた当時の緊張度合いに負けないくらい緊張していたと思う。どれくらい緊張していたのか。それは、毎朝緊張からくる腹痛によりトイレに駆け込んでいた(Episode010参照)と思われる程である。

もちろん授業の内容も、充分に理解できていなかったと思う。やはり、アデレードハイスクールに入学するまで通っていたネールスワースプライマリースクールやペニントンプライマリースクール(Episode015参照)と比較し、ハイスクールともなると(生徒、および教師の)喋るスピードも早く、会話に出てくる単語も難易度を増し始め、相当苦労した記憶がある。まるで、やっと補助付き自転車の補助が取れた自転車に乗れるようになった子供が、プロに混じって競輪のレースに出場しなくてはならないかの様な、それくらい次元の違う感覚があった。

しかしながら、(ネイルスワースプライマリースクール時代同様)やはり数学だけ(Episode005参照)は楽しかった。他の教科に比べ、求められる英語力が(あくまでも、他の教科と比較して、という、相対的に見て、とういう条件はある)高くなかったからである。もともと数学は嫌いではなかった(しかし、日本での小学生時代は勉強に対する熱量が全くと言って良いほどなかった。あくまでもネイルスワースプライマリースクールに入ってから、数学に興味を持ち始めた。むしろ、興味を「持たなくてはならなかった」)ので、例えば学校の長期休み(春休みや夏休みなど)などに入る前には、(休みに入る前における最後の)授業が終わった後、数学のクラスの先生のところに教科書を持って行き、「休み明けからスタートする部分は教科書のどこですか?」という具合で自主的にどんどん教科書を進めて行った。

ちなみに当時の数学の先生は、Mr. Young(ヤング先生)という、髪の薄い(濃い茶色の髪の毛だったと記憶する)、(1998年当時)40代後半(と見られる)の白人の男性だった。胃腸が弱く、薬を常に携帯しては持参の水筒の紅茶で胃に流し込む作業を、一日数回はしていそうな雰囲気の漂う人だった。もちろん、本当に胃腸が悪かったわけでもないと思うし、薬も携帯していたかはわからないが、どことなくそんな雰囲気のある人だった。数学の授業の時間、私の前の席に座るベトナム人の女の子がいた。名前をリンといった。彼女は非常に優秀で、どの教科でも成績が良かった印象があった。しかしながら、数学だけは(多くの場合)私の方が(テストでの)点数が高く、採点済みのテストが手元に戻ってくるたびに、後ろを振り向き、「Shingo、何点だった?」と訊くのであった。その都度、毎回の様に「くやしー!!また負けた」と言って可愛い顔をくしゃっとさせていた。尚、ご存知の通り、ベトナムはその昔フランスの植民地支配下にあった。しかも約100年も間。これがどう言った因果関係を持つのかは分かりかねるが、ベトナム人は美人な人が多い。

ベトナムがフランスの植民地支配下にあったのは 1858 年〜1954 年の96 年間だった、とか。

この様に、数学だけは進んで取り組む事ができた。そのほかの授業に関しては、やはり英語の壁が大きく立ちはだかっており、色々と苦労した記憶がある。特に国語(英語)の授業が苦痛であった。図書館に行き、各自本を選び45分程読書を行う、という内容の(国語の)授業は辛かった。読めないのに読める風を45分纏うのも、なかなか大変だった。子供ながら。

読んでいるフリ、は、なかなか辛かった・・・

ハイスクールの8年生といえば、 日本で言うところの中学2年生である。もちろん、中2であれば普通に読書もする年頃である。そんな中、当時、英語の本を楽しみながら読める程(英語力に)自信および能力を持ち合わせていなかった。体育の時間は、数学同様、特別な英語力が必要とされていなかった為、比較的リラックスしていたと思う。尚、日本の学校ではお馴染みの「体育着」と言うものは存在せず、その代わりに、「動きやすい格好(Tシャツに、ジャージなど)」であれば問題なかった。

体育の授業として、バスケやサッカー(Episode009参照)、テニスなど様々なスポーツを行った。一度、ゴルフも(体育の授業で)やったことがある。幸いな事に、特に怪我などはなかったものの、一度、授業でホッケーをやった際に、相手の(確か、ギリシャ人のサントスという子)ホッケースティックが私の前歯に当たった事があり、さすがにヒヤッとした。ラッキーな事に怪我はなかった。とある体育の授業でテニスを行った事があり、適当にプレーをしていたのだが、先生(Mr. Douglas(ダグラス先生))に「悪くないね、テニス過去にやってたの?」と訊かれた事があった。尚、このダグラス先生は真顔で冗談を言っていた先生であり、時に冗談なのか本気なのかの区別がつかない事があった。

一度、授業中に、なぜ自分(つまりダグラス先生)はハイスクールの先生になったか、という話を(ダグラス先生は)語り始めた。「私が君たち(我々を指差しながら)の年代の頃は、学校で悪さをするとよく先生に引っ叩かれていた。そして、それが嫌で嫌で仕方なかった。そして、その時、誓った。僕も大人になったら教師という立場になり、今度は僕が生徒を引っ叩いてやるのだ、と」。もちろん、冗談だったと思うが、ダグラス先生特有の、必要以上に真顔で話す、という話し方だったので冗談という事が伝わり難かった。

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