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Episode 014 「小学生なのに毎日タクシー登下校なワケ」

記念すべきアデレードでの一軒目の家(Episode 004参照)を経て、次の家(Brompton)に引っ越してきた。引っ越してくるや否や電動式芝刈り機で死にそうになったりしたが(Episode 013参照)、何とか新しい家に馴染んで行った。

さて、引っ越しに伴い新しい学校を選ぶ必要があった。公立の学校を探していたので、家からあまりに離れていない、それこそ徒歩5−10分程度の現地の小学校のBrompton Primary Schoolに決めていたと記憶する。詳細までは明確に憶えていないのだが、結論から言うと、この学校には通わず他の学校に行く事になったのである。つまり、その学校側からとある学校(後に実際に通う事となる学校)を紹介されたのである。紹介された学校は、ペニントンプライマリースクール(Pennington Primary School)である。

通う事の無かった幻のBrompton Primary School(学校のHPより)
※No copyright infringement is intended

ペニントンプライマリースクール(Pennington Primary School)は、現地の生徒が通う小学校に併せ、ESL(English as a Second Language)の設備及びプログラムも兼ね備えていた学校だった。ESLとはつまり、「英語を母国語としない」と言う意味である。従って、世界各国から様々な理由でオーストラリアに来た子供達が、この様なESLの学校にて主に英語の勉強をしながら他の教科を勉強し、義務教育を受けるのである。尚、この様な学校に対し政府は助成金の様な、様々な支援をしていた為、生徒達もそれに倣い手厚いサポートを受けていた。そして、私と妹も例外ではなかった。

当時(1997年)に比べると色々と変わっているが、何となく当時の面影も残っている。
ペニントンプライマリースクールのHPより。
※No copyright infringement is intended

例えば、我々は毎日、朝になるとタクシーが家の目の前まで送迎にくる、という生活をしていた。そう、タクシーで毎日通学していたのである。「タクシーで登校!?何か、悪いなぁ」と子供ながらにあまりのその手厚さに遠慮気味だったのだが、しかし「慣れ」とは非常に恐ろしいもので、最初はあれだけ驚いていたタクシー通学も、慣れてくるとそれが「至って普通」と感じてしまっている自分も、或いはいたのかもしれない。寧ろ「今日は遅れてるね、タクシー」などの生意気な発言もしていた可能性は高い。しかし、本当に贅沢なことだったと今になって改めて感じる。タクシーで登下校とは、あまりにも恵まれていた。

この校庭で大好きなサッカー(Episode009参照)をして過ごした。
ペニントンプライマリースクールのHPより。※No copyright infringement is intended

尚、「タクシーでの送り迎えなんて、なぜそこまでするのか?」という点で言うと、大前提としてESL対象の生徒に関しては「学校から遠く離れている生徒も、毎日問題なく学校にちゃんと来て、しっかりと学べる様に」という事だと思われる。現地の子どもたちは(=ESL対象生徒以外)、学校の地域内の子供達である為、比較的学校の近くに住んでいるのだが、それこそESL対象の生徒に関しては、様々な、異なった地域から通っており、また全ての家族に移動手段(=車など)が充分にある、という事が想定されていない前提なのである。故に、タクシー、なのである。

毎朝迎えに来るタクシードライバーの男性は、身体の大きい、お世辞にも愛想が良いとは言えない(寧ろ、悪かった)人だった。タクシーに乗り込む際、ボソっと「グモニ(Goodmorning)」と彼は挨拶する以外、特に他の発言はなかった。会話がなかったと言うよりも、私もまだ全然英語が喋れなかった訳だし、或いは彼が(私に話しかけるのを)躊躇いていたのかもしれない。(※尚、このドライバーさんの名前を憶えていないので、仮に「グモニ」と呼ぶことにする)

尚、当時は気づかなかったが、恐らく容姿からして、彼はきっとギリシャ人またはイタリア人だったと思われる。多分。グモニは先ず私と妹を(我々の)家の前から拾い、その後に他に二人の生徒を拾って毎日学校まで車を走らせた。その兄妹は、旧ユーゴスラビア出身で名前はベドラン(兄)とタマラ(妹)。恐らく年齢はそれぞれ私(当時12歳か13歳)と妹(当時7歳または8歳)と変わらなかったと思われる。当時(1997年あたり)、旧ユーゴスラビアからは内戦が原因で多くの人達がオーストラリアに移民として入国していた。もちろん、他の複数の国からも多くの人がオーストリアに移民していた。ヨーロッパからはイタリア、ギリシャ、旧ユーゴスラビア、またアジアからはベトナム、カンボジアを始め、中国などの国の人達が目立った。

タクシー内での座席に関しては、特にみんなで話し合って決めたわけではないが、毎回座る席順は決まっていた。助手席にベドラン、後部座席の奥(つまりグモニの背後)から私、真ん中に妹、その隣にタマラである。車中、(お互いで)特に話すこともなく、沈黙のまま学校まで車(タクシー)は進んでいった。記憶は確かではないのだが、恐らくグモニはラジオをつけていたかもしれないので完全な沈黙ではなかったかもしれないが、今となってはそれを確認する方法は無い。この様にして旧ユーゴスラビア人の兄妹と日本から来た兄妹(つまり私と妹)を乗せ、(100%定かではないが)ギリシャ人またはイタリア人のグモニが運転するタクシーはオーストラリアの道を毎日走ったのである。いかにも(国籍の)バラエティに富んだタクシーであったに違いない。今風に言うならば、ダイバーシティ、とでも言うのだろうか。

学校に到着すると、妹と私はそれぞれの教室に行った。一時期、どこかのクラスの女の子が、私がタクシーを降りて学校の敷地内に入るゲートの場所で、毎日待ち伏せをしており、「Goodmorning!」と挨拶をしてくれるということがあった。しかしながら、子供だった私は恥ずかしくて、わざと悪ぶった感じを演出し、挨拶を無視していた。今考えると、相当失礼な話である。可能であるならば、今、その時にタイムスリップし(当時の自分に)言ってやりたい。「お前、調子に乗るなよ」と。

校舎のメインゲート。グモニ(専任タクシードライバー)はこのゲートの真ん前で毎朝我々4人を降ろし、そして下校時間になると我々4人を待っていた。
ペニントンプライマリースクールのHPより。※No copyright infringement is intended

私の教室は校舎の二階に位置していた。妹の教室は一階だったはずだ。私のクラスには実に様々な国から生徒が集まっていた。ベトナム、カンボジア、タイ、旧ユーゴスラビア、ソマリア、エチオピ、ロシアなどの国籍の子供達と机を並べた。やはりこれだけ様々な人種が集まると喧嘩も起こる。エチオピア対ロシア、旧ユーゴスラビア対タイ、などなど。因みに私はどこの国とも対立はしなかった。さすが(否、さすが、ではない)、日本。平和及び調和を重んじる国民性、とでも言うべきか。摩擦を好まなかったのだろうか。

しかしながら、一度だけベトナム人の男の子と喧嘩をしたのを憶えている。今考えると、なぜそもそもゲームボーイを学校に持っていかなければならなかったのかは不明だが、私はとある日ゲームボーイを学校に持っていき、自分の引き出しに入れておいたのだ。尚、日本の小学校の教室のそれとは異なり、各自の机があるわけではなく、代わりに、大きなテーブル並べ、生徒みんなでテーブルを囲む様に座る形をとっていた。従って、引き出しも自分の机についているタイプではなく、引き出しの棚が教室の後ろに設けられてあり、各自文房具などを自分に充てがわれた引き出しのスペースに収納していた。休み時間が終わり、引き出しに文房具を取りに行ったタイミングでゲームボーイがない事に気づいた。かなり動揺した記憶がある。尚、犯人はベトナム人の男の子で、名前はアンといった。無事ゲームボーイは返してもらえた。

ゲームボーイは、学校には持っていかないことをおススメする。

この様にして、新たな学校生活が始まったのである。


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