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Episode 085 「理屈を超越」

Episode 084にて、いかに音楽がBGMとして寄り添っていたのかの話をしたが、他にも音楽が鳴っていた場所、または音楽が鳴っていた状況はホームパーティーであった。音楽と、アルコールと、ある人達はマリファナ(大麻)である。

ホームパーティーによく行っていたのはハイスクール時代(Episode067参照)である。週末になると、誰かしらの家でパーティーがあった。パーティーと言っても、特別な事をするわけでなく音楽が鳴り響く中アルコールを片手に、楽しくワイワイとお話をする、である。

オーストラリアの家(少なくとも、シドニーなどに比べ、アデレードに関しては特に)は、通常、日本のそれとは比べものならないくらい広い。その為、家の様々な部屋で人が集まりお酒を飲んで騒いでいるのだ。そんな中、庭ではハッキーサックをやっている連中、マリファナを吸って気持ちの良くなっている連中など様々だった。(ハッキーサック:ちょうど大きさも手で持った感触も日本のお手玉に似ている。唯一異なる点は、お手玉の様に布ではなく、もう少ししっかりした生地である。これを、サッカーにおけるリフティングをする様な形で、数人で円に描く形に立ち、地面に落とさない様、足で蹴る遊び)

ハッキーサック(Hacky Sack)

因みに、別に自慢する事でもなんでもないのだが、一点明確にしておきたい点がある。計14年間オーストラリアで生活していたが、一度としてドラッグには手を出した事がなく、マリファナでさえ一度として吸った事はない。単純に特に興味がなかった、というのと、他により楽しい事があった為、正直それに見向きもしなかったのである。

数回、パーティーにて、みんなの前でバンドの演奏をした事があった。我々のバンドは3ピースバンドであった。ギターを担当したのが私で、ベースにヨウヘイ、ドラムにモモ。バンド名はBeanie Boys(ビーニー・ボーイズ)といった。

ヨウヘイ:ラップ、ボーカル、ベース
タカ:二代目ドラマー
モモ:初代ドラマー
シンゴ:ボーカル、ギター
Beanie Boysの練習風景 

もちろん、バンド名の由来は、あの世界的ミクスチャーグループであるBeastie Boys(ビースティ・ボーイズ)のパロディーである。併せて、Beach Boysも。そしてもちろん、バンドメンバーが全員Beanie(ニット帽)を被りがちであった事からこの様なバンド名になった。併せて、個人的にBeastie Boysが好き、というような単純な理由も、もちろんあった。Beastie Boysは、どんなに控えめに語ろうとしても、その功績は凄まじく、ジャンルをクロスオーバーした楽曲はあまりにも世界的に影響力が大き過ぎる。

因みに、我々Beanie Boysが誕生した経緯は、非常にシンプルであった。私が個人的に、「バンドがやりたかった」という理由のみである。それまでは、一人でアコースティックギターを弾いたり、エレキギターを弾いたりしていたのだが、やはりバンドがやりたいという気持ちがあり、友達のヨウヘイを誘ったのだった。

こんな具合

ヨウヘイに声をかける前までは、せいぜい、自分の部屋にて大音量で音楽を流し、それに合わせて安物のエレキギターを弾きながら、あたかも自分は、とあるバンドのメンバーであるかの様な妄想をしていた程度だった。

残念な事にバイオリンは弾けない。ピアノも好きだけど超絶下手。

しかしながらヨウヘイは(ラップをするのは好きだ、と言う事は知っていたが)特に楽器の経験があった訳ではなかった。ただ、個人的にはそれが特に具体的に問題だとは感じなかった為、半強制的(あるいは完全なる強制で)に彼にはベースの役を担ってもらうべく、バイトの休憩時間に二人で楽器屋に行きベースを購入したのだった(確か、Light Squareの近くの楽器屋さんであった。尚、楽器をやった事のない人に対し半強制的に楽器をやらせるという行動は非常に自己中心的な考えである)。

ヨウヘイが選んだベースは、この様な色のベースだったと記憶する。ブランド(メーカー)までは憶えていない。

ベーシストおよびギタリスト(私)は揃ったのだが、最もシンプルな構成のバンド(スリーピースバンド)を形成するとしても、もう一人必要だった。そう、ドラマーが必要だった。世の中には、ベースが存在せず、ギターとドラムのみのバンドは存在するが(例えば、LOW IQ 01のいっちゃん率いるLOW IQ 01 & The Beat Breakersなど)、さすがにギターとベースのみで、ドラムが不在のバンドは見た事が無い。

そんな時、ラッキーな事にすぐ近くにドラマーがいたのだった。同じくバイト先の友達であった、モモ(ニックネームではなく本名である)という男がドラムを担当する事になった。(生物学的には)彼は日本人とタイ人のハーフであり、(文化的には)アメリカ育ちの男だった。

ドラマーにモモを迎えた。

モモはギターもドラムもこなすマルチプレーヤーであった(尚、ヨウヘイとも、モモとも、最初の出会いはバイト先だった)。尚、ヨウヘイがベースを弾く際は(彼がベースだけに集中する必要があるので)ボーカル及びギターは私が担当し、彼がラップを行う場合は(歌う事、またはラップをする事のみに集中する必要がある事から)ベース抜きの状態で、ギターとドラムとラップ、という形態になった。

最初はやはりカバーの曲を練習した。私がボーカルを務める時、つまりヨウヘイがベースを弾く場合においては、(各メンバーが好きな曲を均等に演奏する、ということではなく)主に私が好きな曲を勝手に選曲及び提案し、二人に協力してもらう形をとった。しかしながら、ヨウヘイがベースを置き、ボーカル(主にラップ)を務める場合においては、もちろん彼の意見を反映させた曲選びが行われた。

私は比較的洋楽を中心に聴いてきたのだが、洋平は主に日本の音楽を中心にそれまで聴いてきた。従って、共通して熱狂したアーティストやバンドに関しては、そう多くは存在しなかった。(ただ、モモはアメリカに住んでいた事もあり(むしろ日本に住んでいた事はなかったと記憶する)、聴いていた音楽も私がオーストラリアで聴いていた、いわゆる洋楽、を聴いていたので、共通して好きなバンドなどは多かった。例えば、Fort Minorは二人とも大好きだった。併せてMike Shinodaのソロも共通して大好きだった。彼のラップは超絶かっこいい)

そんな中、Dragon Ash(ドラゴンアッシュ)だけは、その通りではなかった。不思議なもので、北半球で青春時代を過ごしたヨウヘイと南半球で青春時代を過ごした私が、たまたま同じバンドを好んでいたのである。Dragon Ash(1997年デビュー)といえば、ロック、パンク、ラップ、ヒップホップなどの様々な音楽のジャンルの要素を取り込んだ、正に日本を代表するミクスチャーバンドの一つである。

ヨウヘイはDragon Ashのヒップホップ及びラップの要素が多く含まれた曲(主に、1998年に発売されたBuzz Songsというアルバムに収録されている曲、1999年に発売されたViva La Revolutionというアルバムに収録されている曲、そして2001年に発売されたLily Of Da Valleyというアルバムに収録されている曲など)に惹かれ、私は彼らのロックな部分であったりパンクの要素が多く含まれた曲(例えばIceman、Drugs Can’t Kill Teens、Just I’ll Say、Fool Around、百合の咲く場所で、Fantasistaなど)をより好んでいた。

この様に、同じバンドを好んではいたものの具体的には違う角度から好んでいたのである。共通して好んでいる曲も多くあった。それらは、例えば、「陽はまた昇りくりかえす」(1998年)であったり「Under Age’s Song」(1998年)であったり「Viva La Revolution」(1999年)であったり、「Let yourself go, Let myself go」(1999年)であったり、「Grateful Days」(1999年)であったり、「I love hiphop」(1999年)であったり、「Life Goes On」(2002年)であったり、「Sunset Beach」(2001年)であったり、「静かなる日々の階段を」(2000年)であったり。

我々Beanie Boysにおける作曲に関してはどのタイミングで書き始めたのは具体的に憶えてはいないが、なんとなく適当にコードを組み合わせ、歌詞を書き、その作業を(勝手に)作曲、と呼ぶようになった。

形式的に「作曲」なんていう呼び方はしていたものの、多くの場合、自分が好きなアーティストの真似事をしている、であった。つまり、「奥田民生っぽい曲を書いてみよう」だとか、「Blink 182のTom Delongeが書きそうな曲を書いてみよう」やら、「Dragon Ashっぽい曲を・・」といった具合である。

とは言いつつも、(ハイスタンダードのギタリストである)横山健も言っていたが、「ギターを持ってる時点で先人の真似をしている」という発言は正しいと思う。つまり、全くの新しい事をやる、という事は存在しない、と。

この様にして、一人で好き勝手に曲を書き、歌詞を書いていた。そしてそれを勝手に、作詞作曲と呼んでいたのである(因みに、それで良いと今でも思っている。若いとは、つまりそう言うことである)。

それと同時に、ヨウヘイも作詞をする様になっていた。彼は、ラップの曲によく見られる、韻を踏むこともしっかりと忘れずにいた。彼の歌詞はロマンチックな内容が多かったと記憶する。

それとは対照的に、個人的には、ロマンチックな内容の歌詞ではなく日常にフォーカスした内容の歌詞を好んで書いていた。なぜなら、尊敬する多くのミュージシャンがそうであった(その様な歌詞を多く書いていた様見受けられる)為である。(もちろん全ての曲がそうではないが)The Beatlesにしろ、奥田民生にしろ、Hi-Standardにしろ、Dragon Ashにしろ。

尚、奥田民生に関しては、「歌詞は意味よりも、音に乗せた時の響き、であったり、ハマり具合が重要」と言っていた。ブルーハーツ、ハイロウズ、クロマニヨンズの甲本ヒロトは「心に響く音楽は、必ずしも歌詞が良い、という事ではない。例えば、「未来なんて無いんだ!」という絶望的な歌詞の曲を聴きながらノリノリになれるんだから」と言っていた。日本のロックおよびポピュラーミュージックの礎を築いた細野晴臣は「歌詞より、曲のリズムだとか、グルーヴの方が重要。だって、昔聴いたビートルズの曲だって、英語だったから歌詞の意味なんて全くわからなかったけど身体が動いたし、すごく良いなと思ったし」と言っている。

「歌詞は意味よりも、音に乗せた時の響き、であったり、ハマり具合が重要」
「”未来なんて無いんだ!”という絶望的な歌詞の曲を聴きながらノリノリになれるんだから」
「歌詞より、曲のリズムだとか、グルーヴの方が重要。だって、昔聴いたビートルズの曲だって、英語だったから歌詞の意味なんて全くわからなかったけど身体が動いたし、すごく良いなと思ったし」

我々Beanie Boysは、先ず私が主にアコギで曲を書き、ヨウヘイの歌詞を乗せる(曲によってはラップもしてもらった)というスタイルで作曲を行っていた。

尚、残念ながら、途中でドラマーのモモが脱退した。代わりに新たなメンバー(タカヒロ。因みに、妹と(アデレードハイスクールにて)同級生だった)が加わった。年下ではあったが、非常に音楽の才能があると思われるドラマーだった。

彼は、他のバンド(私の友達の弟のバンド)のドラマーでもあったが、無理を言ってBeanie Boysに加入してもらった。もちろん、彼自身もbeanie(ニット帽)を被っていた。従って、バンド名を変更する必要はなかった。

この様にして、バンドごっこをして遊んでいたのだ。良い想い出である。ちなみに、個人的に気に入っていたオリジナルの曲が2曲ある。一曲目は歌詞をヨウヘイが担当し、作曲を私が行った、「消えるものと、消えぬもの」(2006年完成)。もう一曲は、私が作詞作曲をした「コーヒーカップ」(尚、この曲は、友達が落ち込んでいたタイミングがあり相談に乗っていた。その状況をきっかけに創った曲である)という曲である。

何はともあれ、兎にも角にも、「音楽って、音を奏でるって、理屈を超越して、純粋に楽しいな」という話である。

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