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Episode 093 「アデレード日本語補習校」

Episode077にて少々触れた内容になるが、オーストラリアに渡り数年経った頃に(つまり1998年頃)、日本語補習校という所に(週に一回)通っていた。14歳から15歳の二年間通ったのだ。

通ったとはいいつつも、週に一回、土曜日の午前中のみであった。現地の小学校(の校舎)を週末に借りる形で、そのスペースにて日本語補習校の授業を実施していたのである。

この補習校の役割としては大きく分けて2点ある。1点目は、アデレードに駐在している日本人家族の子供の為に、日本のカリキュラムに沿った勉強を教えること。

もう1点は、国際結婚をした家族の子供たちへの(基本的な内容含む)日本語の教育、である。国語、数学、社会の3教科をそれぞれ一時間ずつ学んだ。

しかしながら、月曜日から金曜日までは現地の学校(アデレードハイスクール)に通っており、この補習校は土曜日の半日(詳しくは3時間)のみであった為、実際の日本語を学ぶという観点からすると圧倒的に(日本語の勉強時間)不足していた。

1998年または1999年。同級生のカリーナちゃんに併せ、右端に座って居るのはジュリアン。そう、ジュリアンとはEpisode049にて触れられたジュリアンだ。

とは言いつつも、補習校へ通っていたこと自体が日本語を(自発的に)学ぶきっかけを結果的に作ってくれたとは紛れもない事実である。また、それ以上に、この日本語補習校では素敵な出会いが幾つもあった。

14歳の時に、一つ年上のヨシヤ君と友達になった。彼は確か小学校低学年の時(恐らく1992年)に家族で広島からアデレードに引っ越してきた、との事である。

我々がオーストラリアに行った1996年(Episode001参照)よりも3、4年前のことだったと思われる。因みに、よしや君のお父さんは日本語補習校の校長先生であった。

よしや君一家には大変お世話になった。それこそ、アデレード補習校を卒業後もずっと仲良くしていたので頻繁に遊んだ。尚、出会って25年以上が経った今でもオンラインで話したりする。最も信頼ができ、仲の良い友達の一人だ。親友、とも呼べる存在である。

週末に遊びに行くと、ヨシヤ君のお母さんランチをご馳走になり、図々しくも夕ご飯までご馳走になり、挙げ句の果てには翌日のお弁当にでもと(私が一人暮らしをしていたタイミングだった為、気を利かせてくれたのだ)、タッパーに詰めたものまでお土産としてもたせてくれた。本当によくしてもらった。お世話になった。感謝しかない。

彼には幾つか年上のお兄さん(シュンスケさん)がいる。よしや君の家に遊びに行っては、シュンスケさんの部屋で音楽雑誌(Rolling StoneやNew Musical Express(NME)などの音楽雑誌であった。因みに、Blink 182が表紙になっていた、2000年のとある号を借りたまま返さずに至ってしまった)を読みながら音楽の話をしたり、他には、世界中の(思春期の)男の子がするであろう話を飽きる事を飽きる事なくしていた。

そうそう、この雑誌。しかし2000年って、もう24年も前の事なのか。

また、シュンスケさんのギター(フェンダーの(白い)ストラトキャスター)を、私が持っていたアンプよりも遥かに大きい(恐らく20wattはあったと記憶する)アンプに繋げ、ギターを掻き鳴らし、そしてその横でよしや君がハンドマイクで歌っていた。

そうそう、確か、これ。フェンダーのストラトキャスター。
そうそう、確かアンプはこれだった。

尚、シュンスケさんの音楽の趣向は、当時の私の(控えめに言っても)遥か先を行っており、借りたCDなどを思い出すと、後になって「このバンド、知る事ができて良かったぁ」と思う事が多々あった。例えば、TOOL然り、Suicidal Tendencies然り。

よしや君はオーストラリアの音楽に併せ、アメリカ及びイギリスの音楽にも詳しかった為、彼から聞く話は自分が気付かなかった事や知らなかった事を大いに知る事ができた。

当時から感じていたのは、やはりその英語力の違いからくる(様々な事に対する)情報量の違いである。驚きを隠せないのは確かだった。英語が喋れるという時点で、世界からの情報量を集める幅が圧倒的に広がるのだ。

尚、彼は大学で法律を勉強し、卒業後弁護士としてアデレードの現地の弁護士事務所に就職。その後、自分で会社を立ち上げ、現在はアデレードにて様々な企業に併せ政府の仕事をも任され、また、アデレード日本商工会議所の理事も務め、日本の企業とアデレードを繋ぐ役割も果たしているという、超絶優秀弁護士およびビジネスパーソンなのである。

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