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200回目は、あんまり上手く書けなかったけれど。

今日でnoteは、200回目の更新らしい。

100日間毎日がいつのまにか200日になった。

でも、私は100日目を迎えた時とは違う感情を抱いている。

毎日更新することを考えて続けてきた100日間が過ぎた頃から、毎日止めようかどうかと迷い続けてきた100日間だった。

毎日noteを更新していたら、いつかピックアップとかされて…なんて、正直なところ夢を見ていた。

更新し始めてから、すぐに何度もピックアップしてもらっている人もいるのに。毎日続けている私はなぜ一度もピックアップしてもらえないのか。これじゃあ努力したところで、全く意味ないと言われているみたいだ。

見出しがないから?文章がつまらないから?ヘッダーの画像が良くないから?ネタがそもそもありきたり?

悪いところをあげればキリがない。考え出したら止まらない。簡単にnoteへのやる気は失われていった。

周りと比べたらおしまいだ。私のコンテンツは、私の自己満で出来上がっているのに。それでも、どうして比べてしまうことをやめられないのだろう。

それでも諦めたくなくて、自分の力不足を認めたくなくて、覚えたばかりのカメラで撮影した写真をあげたり、そこに散文を載せてみたりで、繋げてきた100日間だった。

相変わらず、ピックアップされたことはない。

きっと、つまらない私の日常を、誰かに届けるには何かが足りないからだ。

その何かをわかる時がくるのだろうか。

・・・

おめでたい話をしたかった。

200回目の更新なんだよ。私ここまで頑張ったよと。

褒めてください」と簡単に言えたら、どれだけ生きやすくなったのだろう。

認められたい。褒められたい。そんな想いに蓋をして、誰の特にもならない、私の私による私だけの話を綴る。

それでも、私は書くのをやめられない。

結局自分が救われている瞬間は、文章を書いているその時なのだ。

・・・

ライブレポートが書きたい。
惚気話が書きたい。
エッセイ漫画が描きたい。

そんなやりたいを重ねていくたびに思う。

本当にできるのか?と。

中途半端に投げ出してしまうくせに、何か始めようとするのは得意だ。

何かどこか、私の才能が落ちていないのか、探すのに必死になってしまう。

お願いだから、私の中にまだ眠っている何かがあってほしい。

今日も願っている。

・・・

私は年齢を重ねるのが、とても怖い。年齢とともに、自分語りが止まらなくなるらしい。

私は自分のことを話すのが得意じゃないけれど、きっとこのままじゃ、将来自分語りおばさんになってしまうのではないかと思う。

なぜなら、働き盛りの今、何もできていない自分を恥ずかしいと思っているからだ。

そして今と比べて高校の時…20歳の時…なんて過去のことを振り返り、あの時は良かったなんて悦に浸る自分が確かにそこにいる。

若さには、限りがあることを知った時から、失っていくたびに、「何か人より秀でているものがなくては」という気持ちが溢れて止まらない。

皮膚にハリがなくなってきた。顔にもたるみを感じる。だいぶ痩せにくくなった。そんな変化を自分で感じるたびに、落ち込む。

勉強だってできなくなっている気がするし、物覚えも悪くなってきた。名称を思い出すのだって精一杯なのに。

若い時、たくさん褒められてきたのに、謙遜ばかりしたため、今でも賞賛の言葉に飢えている。

歳を重ねると、できることが当たり前になって、褒められることが少なくなることを知らなかったからだ。

自己肯定力を伸ばせる時に伸ばせなかった自分を悔やむ。

そうして、過去に執着してしまう自分が嫌いだ。

・・・

いい大人になっても、「褒められたい」という欲求があるから、今もこうして書き続ける原動力になっているのなら、それも悪くないのかもしれない。

これからもnoteを更新し続ける中で、私は何かを見つけたい。

とりあえず1年間。このまま続けようと思う。

・・・

そして、見かけた際にスキを押していただいている方、いつも私のnoteを読んでいる方へ、たくさんのありがとうの気持ちを込めて。


お仕事中のドリンク代にさせていただきます。ちょっといい紅茶を買いたいです。