ありふれた体験がもたらすイノベーション:ポカリスエットの開発
前回の記事では、栗林隆氏の《元気炉》を例に、身体性(体験)に基づくアート思考により、美術館賞に革命をもたらしたことを紹介しました。イノベーションの創出においても、身体性、すなわち直接的な体験が果たす役割は極めて重要です。本稿では、大塚製薬の「ポカリスエット」の開発事例を中心に、体験からの発見がいかにイノベーションを促進するか、そして身体性を磨く秘訣について考察します。
ポカリスエット:新たなカテゴリー飲料の登場
ポカリスエットは、1980年に大塚製薬が発売した画期的な飲料です。汗をかいたときに失った水分と電解質(イオン)を速やかに補給できる、全く新しいカテゴリーの飲料として誕生しました。現在では、熱中症予防としても非常に有用な飲料として広く認知されています。その特徴は以下の通りです:
体液に近い浸透圧:速やかな水分・電解質の吸収を可能にします。
適度な甘さ:過度に甘くないため、汗をかいたときも飲みやすいです。
日常的な使用:スポーツ時だけでなく、日常生活のあらゆる場面で使用できます。
2023年度の販売データによると、日本国内で前年比1.4%増の2,778万ケース、海外では5.2%増の3,650万ケースを記録し、グローバルな成功を収めています。(大塚ホールディングス株式会社 2023年度本決算補足資料)
ポカリスエット開発の背景:体験からの発見
ポカリスエットの開発は、1970年代前半に遡ります。大塚製薬の社員が海外出張中に重要な体験をします。飲料向けの熱帯産果物を探索中、突然の腹痛に襲われ脱水症状を起こし、入院してしまったのです。この時、医師から渡されたのは炭酸飲料でした。この体験から、その社員は「ゴクゴク飲みながら栄養も一緒に補給できる飲み物があればいいのに」と考えました。さらに、別の機会に手術を終えた医師が点滴液を飲んでいる様子を目撃したことで、「飲む点滴液」というアイデアが生まれました。
当時の大塚製薬は、脱水症状を起こした患者に使用する点滴用の輸液・リンゲル液のリーディングカンパニーでした。しかし、単に頭で考えるだけでは、輸液をドリンクにするという発想は生まれなかったことでしょう。実際の入院体験と、医療現場での観察が結びつくことで、革新的なアイデアが創発されたのです。
興味深いのは、開発段階でも身体性が重要な役割を果たしたことです。当時、清涼飲料は甘いものが主流でした。ラボでの試飲でも、甘みの強い方が好まれる傾向にありました。しかし、実際に汗をかいた状況で飲んでみると、あまり甘くない方が飲みやすいことが判明したのです。この発見は、製品の革新性をさらに高めることにつながりました。
イノベーションにおける「ありふれた体験」の意義
多摩大学経営情報学部の志賀敏宏氏は、事業創造における偶然の作用について考察しています。そして、イノベーションにつながる体験は、「ありふれてほぼ無意味に見える出来事」だと指摘します。脱水症状で入院する人は非常に多いけれど、その体験から、飲める輸液があったらいいと思いつくのは稀有です。イノベーションのヒントは、ありふれた中にころがっているけれど、それに気が付くのは難しいのです。
しかし、志賀氏の調査によると、「ありふれてほぼ無意味に見える出来事」からヒントを発見しイノベーションを創出した事例はけっこうあります。例えば、ポスト・イット、マジックテープ、カラオケ、シャンパン、コーン・アイスクリームなどです。
体験によるイノベーション創出の二つの姿勢
これらの事例から、ありふれた体験からイノベーションを創出するには、以下の二つの要素が重要であることがわかります。
問題意識をもつ
身体性を磨き可能性を見いだす
ポカリスエットの開発者は、新しい飲料を作るという明確な問題意識を持っていました。この問題意識があったからこそ、脱水体験や医療現場での観察から革新的なアイデアを導き出せたのです。日常的な体験に対する高い感度と問題意識が、イノベーションの種を見つけ出す力となります。
2番目の例としてコーン・アイスクリームの誕生があります。これは、1904年のセントルイス万国博覧会での偶然の出来事に起因します。アイスクリーム販売者が、アイスクリームを載せていた紙皿の不足に直面した際、隣で店を開いていたワッフル販売者が、ワッフルを器として提案し、器まで食べられると評判になりました。たことで、アイスクリーム販売者は、この日だけの出来事とスルーせずに新商品の可能性を感じたことで、世界的に人気の商品が誕生しました。
アート思考の重要性とその磨き方
問題意識をもって観察する力と、身体性を磨いて可能性を見いだす力、これらはアート思考を活用するために必要な力です。アート思考を駆使できるようになることで、より効果的にイノベーションを創出することが可能になります。
アート思考を磨くには、現代アートの鑑賞やアート作品制作に取り組み、意識的に自分の視座や視点を変えていくことが重要です。異なる角度から物事を見る習慣が身につくことで、日常のありふれた出来事の中に潜むイノベーションの種を見出す力が養われます。
体験からイノベーションを創出するには、問題意識をもった観察と、身体性を磨いて可能性を見いだす力の両方が重要です。身体性を高め、アート思考を活用することで、革新的なアイデアを生み出す力を獲得していきましょう。
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