セルフ一回忌。
2019年4月23日。
それは私が死んでいたかもしれない日となった。
その日の話はこちら。
それを踏まえて、一年経って思う事をつらつらと書き綴ろうと思う。
因みにカバーはオーストラリアで撮った星空です。お気に入り。
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等身大の自分を愛して欲しいなんて虫が良すぎると何処かで散見した。努力しなきゃいけないという。勿論それは正論だと思うのだけど、果たしてそれは本当に必要な努力なのかどうかってのは考えた方がいい。
自分の首を締めながら貰う愛情はすごく甘美な味がする。でもそんなのは不健全だ。そんな努力は自己満足だ。
一年前、私は毎日首をキリキリと絞められながら生きているようだった。
今でも何故辞めた?と聞かれるような誰でも知ってるような企業に勤めていた。仕事はそれなりに楽しく、結果も出せていた為充実していたように思う。
だけど続ける事は終ぞ叶わなかった。
理由は前述の通り。
私はそれなりに評価されていた為に、新規事業立ち上げさえも事業部長に検討してもらえているような人間だった。でも、それも叶う事はなかった。
コロナの影響でフリーターである現在は収入がないに等しい。フリマで不要物を売り、株式投資で微々たる利益を得て、足りない分は親に出してもらうゴミクズのような人生を歩んでいる。
一年前までは、誰もが憧れる企業の正社員だったというのに、今ではコロナの影響とはいえ、誰もが蔑む寄生ニートという立場である。
まあでも、元から努力して努力して入ったわけではなく、学生時代からモラハラDVで精神を壊し、留年し、その結果たまたま運良く入れただけの会社なのだ。だからそれほど未練はない。
だけれど、どうしても、元彼と略奪女が自分を正当化している事がいつまで経っても許せない。正直結婚式を予定していたらしい今月に緊急事態宣言が出た事は心の底から歓喜した。友人達も歓喜した。本当はそんな人の不幸でメシが旨いみたいなことはしたくなかったのだが、自分はICUの天井を見た時にこの世界に戻った事を認識して、それと同時に憎悪も怨嗟も獲得してしまった。現在進行形で。
お前らがいなければ、私は今も生活に困る事はなかったのにな。と、思う節はある。
だけれど、自殺に至るまで問題を放置してしまった私にも責任はある。今思えば完全にうつ病だったので、死なないだとか逃げるだという選択肢が完全に見えてなかったのもあるけど、それは今だから言える事だ。
それに、仕事を辞めていなければ、海外へ行く事も、相方と相方になる事も、彼氏と付き合う事も、多分なかった。
理由は単純に平日休みではないから。平日休みの人たちとは遊べない。
だから失ったものの代わりに、お金や努力では手に入らないものを手に入れられた。そう思う事にしている。そう思わなければ自分の人生はなんだったのか、結局助けてもらって命だけは助かったかもしれないが、何一つ人生好転していないし戻って来た意味なんてないという結論になってしまう。
だから社会的地位よりも、義務よりも、人との縁を大切に、自分らしく生きようと思ったのだ。
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退院して、最初にしたことは、髪を染める事だった。
私は高校生の頃からずっと派手髪をしていて、就職を機に辞めた人間だったが、年末年始にピンク色にしたり、インナーカラーを入れたりして部長に怒られるなど、髪色に対する拘りが強かった。
初めて髪を赤く染めた日のことを覚えている。
あれは高校2年の時だ。
当時の私は通信制高校に行っていたにも関わらず、少ない登校日数でさえ、不登校を決めこんでいた。
それでも、私は「忘れられたくない」と思っていて、人に覚えてもらいたくて髪を赤く染めた。
空気、でいる事が嫌だったのだと思う。何故かはわからないけど、今にして思えば私は人間不信でありながら人間という存在が大好きだったのだ。
思惑通り、私は晴れて「髪の毛の赤い人」という認識を植え付ける事ができた。
それからというもの、青、赤、ピンク、紫、銀、緑…色んな髪色にしてきた。
いつの間にかそれは私のアイデンティティの一つとなって、周りの人間は次は何色にするの?とか、この髪色いいね!とか、幸い好意的な反応をしてくれた。
それを、就活の時に一気になくしたものだから、私は自分を失った様な気がしていた。
元彼も、最初こそ褒めてくれていたのだが、後半は良い年して何やってんだというような反応だった。
髪を黒く染めたあの日、私はそれまでの私を一度殺す事にした。
そうして、今。何もなくなってしまったから。
もう一度自分を取り戻そうと思った。
駄目だと言われた派手髪をして。
年甲斐もないと言われたロリータ服を着て。
平日の安い期間に旅に出た。
全て、今まで出来なかった事だった。
何もなくなったから、全部最初からにしよう。そう思った。
退院して髪の色を再びピンク色にした瞬間。
私は深呼吸をして、まだ、生きている、と。
そう実感したんだ。
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失ったものの大きさの方が大きければその時間は喪失という絶望に彩られた時間でしかないが、別の形で何か大きなモノを得られればそれは必要な犠牲だったのでは?と思えるかもしれない。
私は何もわからなくなった空っぽの心で我武者羅にそれを追い求めた。
自分らしさとはなんだろうと思った。
個性を売りに出来る仕事ってなんだろうと思った。
私は社会不適合者なんだ。
それは14歳の時に学校に行くことをやめ、調子の良い時悪い時で行ったり行かなかったりして、なんだかんだ大学まで出させてもらえたけど、一般的に良いとされる人生を歩んでいない。
だから最初からわかってた。
「普通」の人と同じようには生きられない、と。
それがいよいよ顕在化してきただけで、もしこれが、私がレールを外れる事なく生きてきた人間ならば、もっとダメージが大きかったかもしれないし、仕事を続けられなくなった時点でもう一度自殺していたかもしれない。
でも、普通ではなかった私だからこそ今の状況でも生きていられる。生きててもいいと思える。
そう考えれば、別に何も、悪い事じゃないんだよな。
似たもの同士なのかもしれないけど、相方も彼氏も不登校経験者。理由は様々だけどね。2人は大学も専門も行ってない。でも、ちゃんと仕事して稼いで、生きてる。私なんかよりずっと偉い。私は、過去の肩書だけの生き物だ。
一年前の事は決して許されない事だが、全てを失って、自分がどんな生き方をしたいのか、改めて見つめ直すいい機会になったかもしれない。確かにそれは金銭的自由が無い事による焦燥感であったり、社会的地位や保証がない事による不安定さであったり、問題は山のようにある。
だけれど、退職する時に、部長や課長は、また戻って来てくれていいからと言ってくれたが、私は戻らなかった。
多分、自分の中ではもう決まっていたのだと思う。
間違った努力しかしてこなかった間違った人生を歩んだ人間だからこそ、人と違う生き方しか生きられないからこそ、、私にしか出来ない事もあるかもしれない、と、思っている。
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憎悪と怨嗟は晴れる事がない。
元彼達が離婚したらそれが一番の報酬だと思っている。
けど本当SNSでキラキラ女子アピールしている略奪女だけは本当に許せない。見なければというが、近過ぎて見てなくても情報が入って来るんだ。
こいつらがご近所だと思うと吐き気がする。
因みに私は元彼の要望で元彼の家の隣の駅に住んでいる。だから近所なのだ。
引越しにもお金はかかるし、現状社会的ステータスがない以上契約も難しくなる。あと今の家はそれなりに気に入っているし、広さ的にも同棲出来る広さ。彼氏も気に入っているので、当面は引っ越さないだろう。
そんなこんなで、1人の時間はイライラしたり、掃除したりゲームしたり、フリマやネットで内職しながら、過ごしている。
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一年経って。
失ったものの大きさと得られたものの大きさ。
畑が違い過ぎて、全然、比較出来ないけど。
新しいバイト先の店長は私の事をすごく気に入ってくれ、また派手髪でも許されているし私がオタクである事を最大限に活かせる職場。
時給換算するとぶっちゃけ営業してた時より良い。
まあ不安定なのは社員でない以上仕方ないのだけど、今はこのままやれる事を少しずつ見つけて行こうかなと考えている。
状況は厳しいけれど、あの日、終わらなくてよかった。
あの日、死ななくてよかった。見方を変えればそれまでのバリキャリの私は死んだとも言えるけどね。
人とは違うけど。
もう戻れはしないけど。
全ては繋がっているのだとしたら
きっと今私が思う幸せ、の為に必要な犠牲だったんだ。
今のところ、私は思いの外元気に生きています。
二回忌にはもっと良い報告が出来ますように。
一年前に死んだ私へ。
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