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中学受験の保護者に感じること(家庭教師目線) ~育ち編~

ありがたいことに前回の記事、『中学受験の保護者に感じること(家庭教師目線) ~偏差値編~』が過去イチ好評な記事となっているので、受験論に関して新たに記事を書いてみることにする。

今回は、中学受験に関して、「育ち」に関する記事を書いてみる。

育ちの良しあしとは、様々な場面で使われる言葉だが、一般的にはマナーとかお行儀といった観点から使われる場合が多い。ただし、今回の記事で使う「育ち」という言葉は少し違ったニュアンスである。

中学受験をする生徒さんは、早ければ3年生くらいから、遅くても5年生くらいには塾通いを始めることが多い。当然のことながら、同じ時期から同じ塾に通っても、それぞれの生徒さん毎に成績の伸び方は異なる。

それには様々な要因があると思う。塾でどの程度集中しているか、家庭学習をどの程度しているか、勉強のやり方は工夫されているか、、、本当にいろいろな要因がある。

しかし、少ないながら家庭教師として中学受験生を見てきた私からすると、伸びやすい生徒さんと伸びにくい生徒さんには、ある決定的な違いが存在すると思う。今日はそれについて語ってみる。その違いこそ、私の言う「育ち」の良しあしである。

※受験論に関しては好評であれば引き続き書いていくつもりなので、よろしければスキや拡散をよろしくお願いします。
また、今回の記事、最後の有料部分は、本文中で抽象度の高い議論をしてしまったこともあり、一転して具体的な手法をまとめてみました。もしよろしければサポートもかねて購入のほどよろしくお願いいたします。
ちなみに前回記事で触れた今年の生徒さんは、2人とも2/1に第一志望に合格したので私はハッピーです。


2つの要因 変えられるもの

子供の成長には、大きく分けて二つの要素が考えられる。遺伝要因と環境要因だ。どちらがより重要かという観点には諸説あるわけだが、実践的には遺伝要因は考えてもしょうがないことだ。

なぜなら、遺伝要因は変えられないものであり、環境要因は(ある程度は)変えられるものだからだ。

生まれてきた時点で、遺伝的な性質を変えることは非常に難しい。もちろんどうしようもない遺伝的な影響はあるが、それを考えてもしょうがない。今回の記事では、持って生まれた能力をいかに最大化するかということが焦点となる。

それに受験勉強レベルの話であれば、遺伝によって絶対的不利をこうむることはほとんどないと考えられる。容姿端麗なタレントや能力抜群のスポーツ選手になることには大きく遺伝が影響するが、受験勉強は合格点を超えるだけの話であり、そこまで重要ではない。

ともかく、環境要因が重要だ。どういった環境を子供に与えるのがよいのだろうか。私個人の経験では、それははっきりしている。客観的方向性を持った「世界」構築を促進することだ。これは単なる受験対策に限らない、人生において重要なことだ。より詳しい内容を次節以降に書く。

子供の「世界」を構築する

子供の「世界」を構築すること、そのために良い環境を用意すること。これが私が重要だと思うことだ。「世界」をより良いものにするための方向付けをする、その環境を与えることが環境要因を良きものにすることだ。

「世界」とは何だろうか。実は「世界」という概念は、初期の頃の私のnoteで触れている。

簡単に言えば、人にはそれぞれ、それぞれなりの知覚と認識によって構成された「世界」があり、それは「客観的なこの世界そのもの」とは異なっているということだ。(ラディカルに考えれば、客観的なこの世界など存在しないとすら言える)

一方で、「世界」があまりにも狭いものになってしまうことは、子供の健全な成長のためにあまりよろしくない。中学受験という観点にしぼって考えてもこれはよろしくない。ある程度、「世界」を客観性に近づけつつ広げていくということが非常に重要だと考えている。

では客観性をどのように考えるかであるが、これは過去の先人の積み重ねから大きく外れないということだ。それは主に自然科学的領域だ。それも身近な自然科学だ。自然科学というと難しく響くが、自然科学が長きにわたって知見が積み重ねられてきた領域という前提を踏まえれば、非常に多くの人間が価値を感じてきたものであると考えられる。これは並大抵のことではない、多くの流行はすぐに廃れる。この世界を理解しようとする自然科学的思考はいつの世もなくなることはない。こういったある種の普遍性を目指すことが客観性につながるというのが私の考えだ。

だから良い環境要因とは、こうした普遍性への方向付けができる環境に子供を置くことだ。

では、具体的な例を出してみる。生物で言えば、公園で木を見る、虫を見る、鳥を見るといったこと、物理で言えばブランコ、ジャングルジムといった遊び、化学で言えばお湯を沸かす、石鹸で遊ぶ、地学で言えば土を触る、雲を見る、季節や天気を感じること、、、もちろんほかにもたくさんあるだろう。こういういたって自然な体験をすることが、実は一番良い環境要因だと私は考えている。なお、特定の分野へ分類したのは便宜的なことであり、実際には複合的だ。

子供の感受性は非常に豊かであり、見るものすべてが新鮮のはずだ。いわゆるタブララサ状態である。色々な知覚をしながら次第に自我が芽生えていく中で、子供自身の「世界」は形作られていく。その「世界」の構築に少しの客観的方向性を与えてやること、これが良い環境を与えるということであり、「育ち」を良くすることにつながるのだ。

良い条件をはき違えた落とし穴

少し差別的なことを書くかもしれない。高級な住宅(特にマンション)、一人っ子。この条件が実は一番「育ち」が悪いかもしれない。こういう条件の子は大概中学受験をするし、家庭教師もつけやすいので、結果として私が目にしやすいということもあるが、このような家庭で育つとどうも「世界」の偏りが大きいように感じるのだ。

マンションで季節感のない、快適な暮らしをし、あまり外に出ることがない。電子機器に幼いころからふれ、その世界に没入する。一人っ子で、他人と対立などを経験せず、欲しいものを手に入れる一方で、忙しい親からは必ずしも無償の愛のようなものを感じない。

上記のような想定が容易にできてしまうのだ。もちろん、そこに育つ子供は全く悪くないし、保護者の方も頑張ってお金を稼ぎ、良い条件を子供に与えようとしている。にもかかわらず、皮肉なことに、中学受験勉強で伸び悩む場合が多いように感じる。

例を挙げてみよう。理科の問題で、季節による天気の変化を考えるとき、身近な生き物について考えるとき、自分の体感としての経験があるかないか、が非常に重要だ。冬になると日が低くて、早く日が落ちるから公園から早く帰らなきゃいけないとか、夏には夕立が降ってくるとか、セミが良く鳴いているとか、蚊ががたくさん飛んでいるとか、こういう至極当たり前のことだ。もっと単純な例で言えば、夏が暑いとはこういうことだ、冬が寒いとはこういうことだ、という原体験のようなものをきちんと持っていることだ。

社会でいっても、多くの人がいて、それぞれ違うことをして生活をしている。個人でお店をやっている人、スーパーで働いている人、農家の人もいれば、会社に毎日通っていく人、何もしていない人、なんかいつも散歩しているおじいさん、、、それぞれの人はそれぞれの価値観と思惑で動いている。こういうことを体感的に知っているかどうかで、社会の学習の実感も変わってくるだろう。

こういうことをリアルに体感していない場合、身近なことでさえ非現実的で、すべてが観念的になる。勉強内容を自分事に関連付けられないのだ。このような状況だと学習効率は著しく低下する。できる子が「そんなのあたりまえじゃん」と思うことが、当たり前じゃないような状況になってしまうし、そもそも勉強への興味が持ちづらいのだ。

このような状況が「育ち」が悪いということであり、同じように塾に通うようになっても今いち伸びなやむような状況の原因の一つなのではないかと思う。

これを変える方法は実は単純。子供を外に連れ出してみること、ちょっと自然環境の中で、ただ自由に遊ばせてみること、余計なことを言わないこと、危なくなければ邪魔しないこと、保護者もスマホを見ていないこと、、、こういったことを実行するだけで、すぐに「育ち」は良くなっていく。なお、これをより具体的に実行し、知性に昇華させていく方法は有料部分で詳しく語っている。

抽象度と「育ち」

私は苫米地英人さんの影響を強く受けていることもあって、「抽象度を上げること」を非常に重要なことと考えている。抽象度を上げるということは、物事を構造的に捉える上で重要だ。

例えばイヌやネコの抽象度を上げると、ほ乳類→動物→生物 のようになっていく。抽象度の高いところでの真実は、抽象度の低いところですべて成立する。例えば、「生物とは○○である」と定義されれば、動物もほ乳類もイヌもネコもすべて○○の条件を満たしている。

最も抽象度の高いところでの真理がこの世界の真理であり、これを探求するのが自然科学である。

一方で、抽象度の高い思考を実現するには、非常に具体的な体験の積み重ねが重要だ。ある程度の体験がなければ、帰納的に抽象度を上げることができない。多くの体験から帰納的に抽象度の階段を上がることができれば、そこから演繹的にもろもろの事象を見ることができる。

高抽象度における大局的な真理から、演繹的に個別事象を見て、判断できること。これが抽象度を高く持つことの重要性であり、苫米地英人さんは盛んに抽象度を上げることの重要性を説いている。

一方で、タブララサ状態の子供の場合、抽象度の階段を上るための原体験が必要だ。高抽象度思考は大人の思考であり、大人の思考を身につけるためにはまずは子供的な(=個別具体的な)体験の積み重ねが大事なのだ。

中学受験では、抽象度のある程度低い問題から、徐々に抽象度の高いところまで考えさせるような問題が多い。算数であれば、中学受験では方程式を基本的には使わないで鶴亀算や仕事算といった、条件依存的な特殊算を用いる。

中学で習う方程式は、これらすべてを画一的方法で解くことができる抽象度が高い手法だ。一方で、計算そのものには具体性が感じにくい。中学受験で特殊算をやる意味は、より抽象度の低いところで体感的に問題を解くことができるところにあると私は考えている。鶴亀算であれば、初めにすべてを亀だと考えて、一匹を鶴に置き換えると、足は2本減るから、、、のように論理だてて解き方を考えてみる。この思考錯誤的な方法が、数学的な高抽象度に移行する前の直感的な基礎能力になっていくのだ。(ちなみに鶴亀算をやるときに「育ち」の悪い生徒は鶴の足の本数、亀の足の本数を知らないことがあったりする)

以下有料部分で、体験を活かして知性を生み出していく具体的方法について保護者側の発話例も出しながらお話しする。客観性に近づく自然科学的体験をしながら形作られていく子供の「世界」をさらに知性に昇華させるためには何が必要なのだろうか。

中学受験にも直結する知性を生み出す体験の活かし方(有料部分)

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