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「世界」は人それぞれだった

こんにちは、SGです。

今回が2回目の投稿となります。内容はわたしが最近見聞きして考えたことについてです。具体的には世界に対する認識というテーマを考えているので、少々哲学的、観念的になっておりますことをご了承ください。

苫米地英人さん、宮台真司さんほか、いろいろな人の言説を見たうえで、わたしの「世界」の一部として勝手に書いたものなのでオリジナルではないと思います。その点ご承知おきください。(この表現は違和感がありますが先を読んでいただければわかると思います。)

では世界に対する認識を自明なところから書いてみたいと思います。

わたしたちは、五感によって世界を知覚しています。五感には限界があって、例えば赤外線や紫外線は知覚できません。また、今目の前にないものを見ることはできません。つまり、知覚しているものはかなり限られた部分なのです。

さらに、知覚したもののうち、脳は一部しか認識しません。例えば、最寄り駅の階段が何段あるか覚えている人は少ないと思います。これは、脳がその情報を重要視しないようにしているからです(すべての物事を認識するほどの余裕は人間にはないのです)。

もちろん認識するものは人によって違います。先ほどの例でいえば、健康を重視して階段を歩くことにチャレンジしている人は階段の段数を覚えているかもしれません。ただ、その人が駅のトイレの数を把握しているとはかぎりません(おそらくトイレが近い人は把握していると思います)。

ことほどさように、人間の認識するものは世界のほんの一部分にすぎず、また人それぞれであるということがわかります。

そうであるにも関わらず、私たちは世界という概念を自分の中に持っています。ということは、そこで考えられている世界は自分の脳内で完結しているということです。それを「世界」と表現するならば、世界には人(生物)の数だけ「世界」があることになります(厳密にいえば、認識を持つ者と持たないものを外部から確実に見分ける方法はないので、そこは曖昧です)。

このことは様々なことが示唆していると思います。全ては網羅できず知り得ないと思いますが。今回は、1つ具体例を挙げます。

私たちはよく物事の認識の相違による面倒ごとを起こします。例えば、言った言わないで言い争いになることです。客観的な証拠がない場合は特に泥沼化しがちなこういったことも、「世界」が人によって違うことによって説明できます。記憶とは「世界」の一部ですから、お互いに異なっています。つまり、双方とも自分の記憶にあるものとないものが違います。そして、自分の「世界」こそが正しいと嘘偽りなく考えるので相手が嘘つきに見えて不毛な争いとなるのです。

このようなことを踏まえて思うことは、「世界」が世界ではなく人によって異なるものだという認識を多くの人が持つべきだということです。不毛な争いに対して冷静になるほうがよほど建設的です。

また、自分自身に関して言えることもあります。それは、息詰まったりイライラしたりとネガティヴな感情を抱いている状況はばかげているということです。なぜならこれは「世界」に属する問題です。つまり自分次第のことなのです。

そうはいっても、なかなかネガティヴな感情というのは消し難い面倒なものです。そこで最近自分が得た具体的な対処方法は他人の「世界」に接触を試みることです。なりきる(宮台さんのいうところの感染=ミメーシス)というほうがベターな行動かもしれませんが私には難しいです(感情が劣化してクズ化しているのでしょう汗)。

他人の「世界」に接触すると、自分の「世界」はゆすぶられ変化します。自分の「世界」が変化するとき、上記のことから自明のように自分自身の持っている感情も変化します。こういったことを繰り返す中で、様々な視座から自分自身をとらえることができます(そういうことができる「世界」を手に入れます)。そうなってしまえば、少なくとも目の前のネガティヴ感情に振り回されるような次元からは脱せると思います。

他人の「世界」への接触を怖がる人がいます。傷つくのをおそれて自分の殻に閉じこもる人も。しかし、そう言った行為は結果的に自分の「世界」を貧しく住みずらいものにするのではないかと危惧します(自戒を込めて)。

さらに言えば、私たちが新しい枠組みを知り、捉えるようになる中で「世界」が変わっていくと、さらに「世界」がよりよいものになっていくという再帰的な「世界」の広がりや深まりもあると思います。このように考えれば、自分には無理だと思うようなことも実は実現可能であるということにもなっていくのではないでしょうか。なぜなら、すべては自分の「世界」に内包されるので、自分が実現可能であるという「世界」を築くことができればよいのですから。

これを突き進んでいくと、「世界」というのはかなり自在に可変なものになっていくようにも思えます(その境地にはなかなか達しないとは思いますし、実現可能性はわかりかねますが)。そうなってくると、そもそもいわゆる世界は無いということになってきやしないでしょうか。「世界」というものを作り出している者が見ている夢、それが世界という概念となるからです。これはいかようにもなり得るものであるためそういった点では世界はもともとないともいえるのではないかとまで考えてしまいます(まったくもって実用性のかけらもない思考です)。

今回はこんなところで終わりにしたいと思います。いずれ、こういった認識を得るに至ったきっかけである、変性意識状態の概念を知ったこと及び実践した体験(これだけだと意味不明かと思いますがお気になさらず)など具体的なことも書きたいと思います。

書き添えておけば、恥ずかしながら私自身が「世界」が人それぞれであることに思い至ったのはつい最近のことです(もしかしたらこんなことは常識で、なにを今更当たり前のことをと思われるのが怖いです)。

自分の「世界」の絶対性という虚構で他人を傷つけてきたのだろうという経験はたくさんありますので心より謝罪しつつ。

また次の投稿でお会いしましょう。お読みいただきありがとうございました。

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