いつ、ご近所さんを忘れたのか?
カンボジアにいると、「ご近所付き合い」は日常。
子どもの面倒を、家族以外の人……隣の家の人が見ていたり。
道を通りゆく、知り合いなのか知り合いじゃないのかわからない人たちが会話を始めたり。
「ATM探してるんだけど」なんて話しかけられたり。
私が屋台をしていると、うっかりカンボジア人だと思われて、バリバリのクメール語で道を聞かれることもある。
そんな時は、迷わず隣の屋台にエスカレーションするけどね。
大人になってやらなくなったこと
私は大人になるにつれて、「知らない人になんとんなく話しかけること」をやらなくなったなと気付いた。
きっかけは、今日トゥクトゥクに乗った時のこと。
信号待ちの時、たまたま私のトゥクトゥクの隣に、空車のトゥクトゥクがピッタリと止まった。
私は、なんか近いなあ~と思っていたくらいだったけど、トゥクトゥクの運転手さんたちは一言二言の会話をしていた。
きっと、「今日も暑いね」とかそんな程度の会話だと思う。
それでも、たまたま居合わせただけの通り過ぎていく人と言葉を交わしていた。
最初からできなかったわけじゃない
今日の経験があって、改めて「知らない人になんとなく話しかけること」を考えてみた。
元来、私は知らない人に話しかけない人間だったのだろうか?
違う。少なくとも、子どもの頃は色んな人に話しかけていた。
ではいつ、その感覚を忘れてしまったのか。
私の場合は、反抗期・思春期あたりに忘れてしまったように思う。
何故忘れたのか。そのほうが良いと思ったのか。
考えてみたら、色んな感情が出てきた。
・人に頼らず解決できた方が良い・しないといけない
・突然話しかけたら変に思われるかも
・誰もそうしている人は居ない
・子どもっぽい
・必要性を感じない、煩わしいと思う
・面倒ごとに巻き込まれるかもしれない
他人の目を気にするあまり、他人を巻き込むくらいなら1人で解決しようと思っている節があることを確認した。
でも、こんな風に思うにもかかわらず、トゥクトゥクの運転手さんたちのちょっとした繋がりを好ましいと思うのは、何故だろう。
ご近所付き合いヒーリング
カンボジアで屋台を始めて1ヶ月。
私にもご近所さんができた。
それは、毎日お肉を仕入れに行くお肉屋さんだったり、たまにご飯を食べに行く飲食店だったり、ご近所屋台の人たちだったりする。
私がご近所付き合いから得るものは多い。
例えば、「どうでもいい話ができる」ということ。
頭の中になんとなく漂っている思いを、外に押し流していける。溜め込まないで済む。
意味のある会話ではなくても、「なんとなく誰かと会話した」ということで精神的に救われることがある。
意味のない会話をできる雰囲気があること。
例えば、「認知されている」ということ。
カンボジアで、私はアウェイの存在。でも、ご近所さんには私がそこに居ることが認知されていて、許されている。
欲求段階説的に言えば、「社会的欲求」が満たされる。
私はその集団の中に所属していて、それで良いのだという気持ちになれる。
例えば、「解決が早い」ということ。
何処に行けば何が買えるのかもわからない。スマホで検索しても出てこない。そうなれば、必然的に誰かに聞くより他に解決策はない。
1人で街を彷徨っていたら日が暮れてしまうし、心も疲弊してしまうけれど、そんなことはない。誰かに聞けば、知っている誰かしらに繋いでくれるものなのだ。
便利さが失わせたもの?
今、私たちの生活はスマートフォンの普及で急速に便利になった。
LINEでリアルタイムのやりとりをすることもできるし、待ち合わせ場所に迷ったら地図アプリで探せる。スマホ1つで、何時でも何処でも色んな予約ができる。
昔、私が生まれたくらいの頃。
まだ、携帯を持っている人は極限られた人だった頃だったらどうだろう。
待ち合わせ場所は、事前に予習しておかないと迷い続けてしまうし、リアルタイムで連絡を取る方法はないから、待ち合わせに遅れたら、自分も相手も大変な不安だっただろう。ライブのチケットだって、ネットで予約は出来なかったから、早い時間からチケットを買いたい人が売り場に殺到していたに違いない。
それはある種、とても非効率な生き方だと思う。
便利になった今から逆行していくのは、あまり考えづらいくらいには。
だけど、この頃には必ずあったであろう、「自分がどうしようもなくなったら、誰かに頼る」という考えは、忘れないでいたいと思う。
道に迷ったら誰かに聞く。
待ち合わせ場所から移動するときに誰かに言伝を頼む。
店員さんとの何気ないコミュニケーションを楽しむ。
便利さにかまけていると、私は多分忘れてしまう。
なんでも1人でやって、なんでも1人でできてしまう。
特に、これからは「個の時代」なんて言われている。
でも、個の時代だからこそ人はより寂しさを感じるようになるし、「人との繋がり」というのはより強く必要とされるようになるはず。
日本に帰っても、ご近所さんに「こんにちは」って言える私でありたい。
その一言は、私を救うし、誰かを救うかもしれないから。
ご清聴、ありがとうございました。
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