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鵺 (第五稿)

鵺 (第五稿)

 後白河天皇の御代、南禅寺に悟省という若い僧がいた。
 元はといえば武士の子であったが、長い戦で幼くして天涯孤独の身となり、南禅寺の門の前で倒れていたところを禅師に助けられた。やがて勧められるままに仏門に入り、今では形ばかりの経を読むなどしている。
 この悟省、「省みる」という文字を戒名に戴いたのにはそれなりの訳がある。幼い頃から絵に興味を示し、筆を握っては周囲の人物や野山の風景などを好き勝手に描いていた。実力は確かで、筆一本の濃淡で様々なものを描き分けることができた。やがてその絵が評判になり、寺を訪れた商人がいたずら描きのようなものを言い値で買っていった。
 そのようなことが幾度か続き、僧は天狗になった。「なんだって描いてみせる」と豪語した。やがて、絵が高値で売れれば自分の価値が高くなったと勘違いするようになり、仏道修行にも身が入らなくなった。絵を売った金で町に出ては酒を飲む、ばくちを打つ、女を抱くといった荒れ放題である。心の内の欠けた部分を埋めようとして、埋め切れずに掻いているような有様であった。
「自分で儲けた金だ。おれは客だ。しかも仏に帰依している上客だ」と言って憚らぬ有様であった。
 やがて、それは禅師の耳に入り、僧は呼びつけられた。
「今後は吾の心を省みると書いて悟省と名乗るがよい」
お前のことはこれから馬鹿と呼ぶと言われたに等しいのだが、本人は気にも留めず聞き流していた。

 ある日、悟省は禅師に呼ばれた。
「鵺(ぬえ)を描いてみなさい」
怪訝な顔の悟省に禅師は言った。
「よいか。本物そっくりに描くのじゃぞ」
悟省が鵺とは何ですかと聞くと、「よくわからぬ」という答えが返ってきた。カチンときて言い返す。
「よくわからぬものに本物もなにもないでしょう? 」
「じゃから、本物を描けと言うておる。」
面倒臭いことになりそうで悟省は顔をしかめた。正直、絵を描くことにすっかり飽いてしまっていたのである。適当に描くだけでみな有難がって買っていく。悟省にとって絵は人々に売れればよいものになっていたのである。
「何のためにそのようなものを描かねばならないのですか? 」
と問うと、禅師は「『何の』ではないな」と答えた。まったくよくわからない。ためらっていると、癇性にふれた。
「隠れて絵で稼いでいることは聞いておるぞ。今までお前はただ飯を食わせてもらっておったではないか。食い扶持を払えと言って何が悪いか!! 」
誰が禅師の耳に入れたのかと疑念をまき散らしながら、悟省は無言でその場を辞した。
(何が禅師だ。怒ってばかりのあんたのほうがよっぽど修行が足りないよ)

 悟省は少し困った。無理矢理鵺の絵を描かされることになったが、そもそも鵺など先ほど聞き及んだくらいで、生まれてこのかた見たこともない。先輩の僧にたずねると、ひょーひょーという声を上げながら、「悪いがおれも見たことはない」とそっけなく返された。意地悪そうに笑っている。以前、女郎屋に誘わなかったことを恨みに思っているらしい。つまらん男だ。
「お前に与えられた修行なのだろうから自分で考えて自分でやれ。お前は息の吸い方を誰かにきくのか?赤子以下だな。」
揶揄されていると感じ、見せつけるようにしばらく息を止めていた。先輩が去ったと同時に溺れた者のように大きく息を吐き、吸った。
 ふと、障子の向こうに影が映ったような気がした。

 京。辻に腰を下ろすと、悟省は辺りを見回してみた。都にはさまざまなものがあふれているが、鵺とやらがかごの中に捕らわれているのも、手足を狸しばりにされて売られているのも見たことがない。先代の帝の世に、御所の上空を騒がせ射落とされたと聞くのだが、その後どうなったか誰も知らない。隅で商う顔なじみの薬師にたずねると、
「頭が猿、胴は狸、手足が虎、尾は蛇。雷を落とし、なんだかわからない鳴き声で泣き喚くそうじゃ。お上はその声を聞いて病に倒れたと聞く。おお、こわい」
と、まるきりわからず、病除けに要らぬ薬を買わされた。
 考えるのが面倒臭くなった。とりあえずそういうことにしておこうと、狸の胴に、猿の頭を載せ、虎の手足をできる限りそれらしく描き、尻から蝮(まむし)を垂らしてみた。
 それらしく見える。なるほど、これが鵺か。
 寺へ帰ると 、小走りで方丈に向かった。わざとらしく息を切らせながら、書き物をしている禅師の前に絵を広げた。「描くのにとても苦労しましたよ」と口先だけの言葉を添えて。
 禅師は硬い目で鵺と悟省を見比べると、
「これは、頭が猿、胴が狸、手足が虎で、尾が蛇というだけの虚仮威しじゃ。わしは鵺を描けと言うたのだがわからなかったのか? やりなおし。」
口元をこわばらせながらぶっきらぼうに聞き返す。
「なぜこれが……本物ではないと…わかるのでしょうか?」
「お前が一番、これが本物でないと知っておろう。」
悟省が眉の根を寄せ、渋面を作っていると、
「一所懸命に絵を描くので夕餉(ゆうげ)はいりません、とでも言いそうな顔じゃな。殊勝なことじゃ」と皮肉を言う。
「食べますとも」咄嗟に言ったものの、退室した悟省は頭を抱えた。紙の上の鵺に目を走らせる。うまく描けていると思うのだが、これではまだ売り物にならないということなのであろうか。少し面倒がすぎる。柱を蹴飛ばした。

 そんなやりとりがあったからか、夕餉の最中もぼんやり鵺のことを考え続けた。禅師の顔を思い出すほどに苦々しい唾が出るが、一体、それがどういう生き物なのかは少し興味がある。どこに棲んでいるのだろうか。雌雄の違いはあるのだろうか。やはり人を捕らえて食うのだろうか。とりとめもなく考えを巡らしながら、漬け物ををぼりぼりと噛む。これは骨を砕く音だろうか。
 少し腰をすえてかかってみるのも悪くないと思いはじめた。本物でないと罵倒されて絵描きとしての矜持を傷つけられたところが少しあるのである。
(どんなものでも俺が描いたものが本物だ)
すると「おまえは馬鹿だよね」と誰かに揶揄されている気持ちがわいた。ムカムカと腹が立つ。
「うるさい! 」
と虚空を怒鳴りつけた。正面に座っていた稚児が驚いて椀を取り落とした。

 寝る前に厠に立った。手水鉢で手を洗っていると、竹林の向こうの暗がりが気になってしかたがない。誰かにじっとりと見られているような気がする。かすかな寒気を感じ、足早に部屋に戻った。

 冷雨の朝。出入りの行商人から、ある大店の主人が鵺の墨絵を持っていると耳にした。悟省は作務衣が濡れるのもかまわず転げるように街に下りた。「鵺を目にしたい」という衝動が、堰を切って溢れ出したかのようであった。

 南禅寺から来たと言うと丁寧に奥に案内された。客室を飾る上等な屏風の一面に、「それ」は描かれていた。
(これが鵺か)
 濃淡で描かれた大妖が虚空から都を見下ろし、威圧している。一目で一流の絵師によるものとわかった。精緻な筆使いの見事な一品と思える。誰が描いたかを聞くと知らぬ名を告げられ、ちりりと炎が揺れるのを感じた。やらねばならぬと目を剥いたとき、悟省を噛み殺そうと牙を剥いた猿(ましら)の目と合った。捨て置けぬものを感じる。敵愾心とともに、なぜか鏡でも見たかのような心地がする。ぶるんと一つ、頭を振った。
(名も知らぬ絵師がどれほどのものか。見てろよ、俺の方が…)
ふと、見知らぬ絵師の姿に禅師の姿が重なった。咄嗟に筆を握った。これでもかというくらい細部にわたって鵺の姿を紙に写した。
(踏みつけてやる)
完成した絵を突き付けた時の、禅師の顔が見ものだと思った。そしてもう一人の見えざる者も。
(お前らなんぞ、俺のこの手でぶち壊してやる。)
「くだらないことはおやめよ」
と、言われた気がしたが、構わず筆を走らせた。

「馬鹿者!!わしは鵺を描けと言ったのだ。誰が染物屋の絵を写してこいと言うたか!! 」
 言い終わる前に椀が飛んできた。三日後の朝のことである。殊勝な顔を取り繕いながら絵を広げて見せたのだが、返ってきたのは熱い粥であった。
 悟省は思わず声を荒げた。「どうだ、うまく描けただろう」としか思っていなかったので、陳腐な言い訳しか浮かんでこない。
「そんなことを言、言われても。誰も今まで、鵺なんぞ……見た者はおりません」
禅師は冷たい目で問い詰めた。
「探したのか? 」
 長い沈黙のあと、師匠の激怒を受け止めきれない坊主のように「まだです」としか答えられなかった。
 禅師は悟省の絵を八つ裂きにして放り投げた。丹精込めて描いた絵が、ただの紙切れとなって宙をはらはらと舞うのが悲しかった。いろいろなものに負けた気がする。絵の出来映えを見せつけて禅師の鼻を明かし、名も知らぬ絵師に代わって名を上げるはずだったのである。ただ、心のどこかが恥ずかしくもあり、それを隠さなければならないと感じた。
(なぜ俺はここまで言われねばならぬのか。これは、難癖をつけて俺をいたぶっているだけではないのか。この寺を出て行けということなのではないか)
不平を込めた目線を真正面から受け止め、禅師は平然と言った。
「やりなおし。何度でも」
その声は平生よりも柔らかいものであったが、悟省の耳には届いていなかった。紙切れとなった絵をかき集めると、無言でその場から去った。

 夕刻。拾い集めた紙切れをかまどにくべることにした。まだ気持ちがおさまらない。禅師、絵師、寺や京、お上、みな無くなれ。それらの感情を、いつもより煙が目にしみたせいにした。年甲斐もなく目頭に違和感を覚えた。
 びゅっと、意識が何かに引き込まれた感じがした。
 一瞬、煙が庫裏の窓から外に吸い出されていったのである。逡巡の後、恐る恐る勝手口を開けてみた。誰もいない。小さな石が三つ積んであった。近所の子どもの悪戯だろうか。風の冷たさに、体が震えた。
 今朝がたからのもやもやが少し晴れた気もする。だが、同時に湧き上がる、禁忌に触れたようなこの昂りは一体なんなのか。鳥肌の立った首筋を掻いて、炊事にもどった。
 これから紙切れを焚き付けにして、三十人分の大根を煮なければならない。悟省は目の前の作業に没頭することにした。

 朝、起きたときから胸騒ぎがした。誰かにどこかへ導かれていくような気がするのだ。訳も無く胸がドキドキし、不安が心の中で踊る。眩暈がする。首を振ると一瞬遅れて周囲がぬらりと巡り、自分が何か別の生き物にでもなったような気がする。眼前に掌を拡げてみる。なにも変わらない人間の手であった。すこし安堵する。
(気の病だろうか)
 視線を巡らすと、誰が置いたものか枕元に筆が落ちている。手に取るときれいな湖水に浸かるように気持ちが落ち着いてくるのがわかる。目の裏が澄んでいく。
 そういえば、と、燃えていく紙のことを思い出した。
 燃えていく紙のことしか思い出さなかった。

 その日から、悟省は鵺のことばかり考えるようになった。日々のお勤めをただ愚直に黙々とこなしながら、奇妙なことに絵についてだけは頭が冴え渡った。
 名も無き絵師の屏風絵を思い浮かべては頭の中で何度も描き、また何度も燃やす。
(確かに俺はあの絵師と同じくらいには描ける。いや、それ以上にうまく描くことはできるだろう。だが、うまく描くとはなんだ? 何をどう描いたら、うまく描けたと言えるのだ? )
 果てしなく続く自問自答は、闇夜の森を手探りで進むに似ていた。

 毎日が変わった。
 街に下りては猿回しの使う猿に向かってうんうん唸り、境内にひょっこり現れた狸の親子を射殺すように見つめる。裕福な商家に豪奢な虎の毛皮を触らせてもらいに行き、薬屋の軒先で不味そうな蛇の干物を嗅いでみる。旅人を見かけると話しかけ、鵺について知っているか尋ねる。誰もが首を横に振り、そのたびに落胆するのだが、あきらめなかった。
 禅師のことを思い出すのはやめた。絵師をなぶるのをやめた。

 托鉢に出るようになった。寺にこもっているよりも何かを探さねばならないと思うのである。
 都の辻に腰を下ろし、改めて人々を眺めてみる。かつてはまるっきり関心がなかったものが別のものに見える。
(あの男はどこの誰なのだろう。向こうの女は何をして暮らしを立てているのだろうか。この旅人はどこに流れていくのだろう。がきどもは何を囃しているのだろう。)
 一人の老婆が転んだ。悟省は思わず泥だらけの老婆に駆け寄っていた。なんで俺はこんなことをするのだと悩みながら老婆の手を取ると、心の臓のあたりに疼くものがあった。老婆は微笑むと、小声で礼を述べた。
 その時、ふと、奇妙な考えが浮かんだ。
(この婆さんは、本当に婆さんなのか。街の連中は、皆本当に人間なのか。実は毛だらけの狸の体を衣に包み、蛇の尾を隠し持っているのではないか。夜ともなれば手には虎の爪が伸び、猿のような甲高い声で叫び出すのではないか。)
 段々と恐ろしくなり、慌てて老婆から戻した手を自分の頬に当ててみる。つるんとした肌の手触りも、自分のものではないように感じる。
 血相を変えて何事かつぶやく若い僧に怯え、老婆はその場を立ち去った。悟省はよろよろとその場に座り込んだ。
 足早に去って行く老婆の手はどう見ても虎のそれであった。
(やはり俺はおかしくなってしまったのか。)

 それ以上考えることができなくなり、俯いたまま時が過ぎた。
 ふと、日が陰った。雲ではなく、何かの影が、自分を照らす陽光を遮ってでもいるかのように。
 突然、懐かしさのようなものが打ち寄せてきた。
 時が止まった。
 誰かに呼ばれたような気がする。(誰が? )
 見てはいけない気がする。(何を? )
 そいつは見ろと言っているのだ。
 たぶん、見たら何かがわかるのだ。
 俺が本当に描きたいものが何か。
 うまく描くとはどういうことか。
 だが、わかったら俺はどうなる?
 見てみたい。見てはいけない。
 見たい。見たくない。
 見る。見るな。
 見るな見るな見るな見るな……
 叫ぶ。
 声にならない。
 意識を埋め尽くす無限の繰り返しに耐えきれず、顔を上げる。
 刹那、耳が音を取り戻す。
 街行く人々の声が戻り、思わず辺りを見回す。
 威勢のいい物売りの声、子供たちの遊ぶ声、女たちの甲高い笑い声。
 雑踏の中、悟省は夕陽の残滓を浴びて立ちすくんだ。
 自分自身を盗んでいったかのように、影が長く伸びていた。

 独り取り残されている悟省は、一瞬、目の端に黒い塊を見たような気がした。
 黒い塊を、見たような気がした。
 悟省の手は、悟省の手だった。

 しばらく後、寺に幾つかある納屋の一つを仕事場に借り、一人で籠ることが多くなった。初めの頃は食事も皆と一緒にとっていたが、やがて仕事場に運んでもらい一人でとるようになった。夜も、風の吹き込む納屋で寝た。
 その内、悟省がいつも一人で誰かと話しているという噂が流れた。

 日がな一日、辻に托鉢し、何かを探し続け、歩き回り、夜は納屋で一心不乱に絵を描いた。水浴びすら厭うようになり、吐き気を催すような臭気を纏うようになった。熱気が皮膚を爛れさせる夏も、寒気が骨の髄まで沁み入る冬も。何か怪しいものを見たという噂を聞けば、徒(かち)で何日もかかる遠方を訪れ、鵺のことかと聞き回った。まるで生き別れの母でも探すかのように。

 やがて、悟省の正気を吸い取りながら、一つの像を結ぶように、鵺の姿が結実し始めた。
 絵の中で踊る墨の化け物は、怒り狂い、ねじくれたような姿勢で唸ったまま、紙の上に静止していた。いや、止まっているのではない、動きながら時を止められたかのようであった。猿の貌に優しさや慈愛、苦しみや悲しみが浮かぶこともあった。猿のような、狸のような、虎のような、蛇のような、だが人のような何かだった。
 納屋は、異界そのものを描いたと言っていいほど、精緻な化け物の絵で埋め尽くされていた。誰も近づくことが出来ない暗病みを漂わせ、排泄物が腐敗してゆくような臭気を隠すことができなかった。
 僧たちは、悟省と目を合わせることを拒んだ。祟りを恐れて稚児も寺男も近づかなかった。

 ある晩、禅師が悟省を部屋に呼んだ。悟省はげっそり肉の落ちた頬に髭だらけの姿で、禅師の前に現れた。禅師は悪臭を気にする素振りも無く、悟省を招き入れた。鵺を描くよう命じた、あの日から数えてちょうど五年目になる。
 雑務を命じた後、黙って退出しようとする悟省の背中に尋ねた。
「描けたか? 」
その瞬間、悟省の暗闇に小さな稲妻が閃いた。
「描けませぬ。ですが、わかりました」
「ほう、何をだ? 」
「鵺の姿を、追うことに、これで、いいのだということが、無いということを」
 悟省は一礼して、何事も無かったかのように庫裏に向かった。
「吾の心、省けたかな」
 禅師は静かに微笑み、ひとりごちた。悟省の瞳に映る狂気のことも、もはや映らぬ禅師自身についても、いつかこうなるかもしれぬとわかっていたことなので悲しくはなかった。

 悟省が去った後、部屋の片隅に丸められた紙くずが落ちていることに禅師は気づいた。鼻でもかんだのかとつまみ上げたが、墨の色が気になって平らに拡げてみた。
「これは……」
簡潔な線と上品な濃淡で描かれていたのは暗雲に囚われた悟省の姿だった。ただ、猿の頭のようであり、狸の胴に見え、虎の腕としか思えず、なぜか蛇の尾が生えていると思えた。

 そのとき、どこかの闇の中で虎鶫(とらつぐみ)の鳴く不気味な声がした。
 禅師は電光に撃たれたように、よろめき倒れ、板の間に頭を打った。
 そして血を流しながら、気でもふれたかのように大笑いしたのだった。
「わしも祟られたか。これは愉快。わははは。」

 秋の夜のことである。
 悟省は、足を満足に動かせなくなっていた。食い物にまで気が回らず、何も食わない日が度々あった。不思議と腹も減らぬから放っておいたら、この様だ。
 いつも通り托鉢をし、京の市で墨を買い、引き摺る足で帰りが遅くなった。
 寺に戻ってみると、納屋から火の粉混じりの黒煙が上がっていた。蝋燭の火しか思い当たらない。火が出た。
 瞬く間に納屋を包む炎。僧たちが慌てて集まってくる。
 呆然と眺める者たちの中で悟省だけが、何かに気がついた。
 視線である。
(そこにいる。来ている。「あれ」が)
 僧たちの制止を振り切り、納屋の中に飛び込んだ。辺り一面の炎。今まで描いた数多くの化け物が巻き上げられ、燃え崩れながら、ひらひらと踊り狂っていた。
 立ち尽くす悟省は見た。猿の頭。狸の胴。虎の腕。蛇の尾。そして。
(なぜ俺には炎の中にそれが見える? )
 今まで紙の上に与えてきた形が、炎の中に映っていた。
 実際にそこに何かがいるのか。
 頭の中で炎の中に描いたのか。
 ともかく、「それ」は生きていた。
 「いつもお前を見ていましたよ」と誰かの声がした。いや、声ではなく歌のようであった。
 誰が歌ったのか?
 それは、母の顔をしていた。一度も見たことのないはずの、母の。

 (おれは描けた。)
 暗病みから霹靂が走った瞬間、落ちてきた梁が悟省を下敷きにした。
 炎に包まれた悟省は満足そうに笑っていた。
 もう、すべてがどうだってよかったのである。

 翌日、梁の下から折り重なった黒焦げの男女の亡骸が掘り出された。女が何者かは誰も知らなかったが、これも縁あってのことと、同じ墓に葬られた。
 卒塔婆にはただ、「悟」とだけ書かれた。

作 中田 淳一
協力 大渕 牧人・太田 洋平


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