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私を救ってくれたのは、ベジタリアンが当たり前の世界

摂食障害になったのは、高校1年の夏だった。

水以外を受け入れられなくなって、3か月で10キロ痩せた。半年後には30キロを切り、25キロも目前となった。

今年わたしは20代最後の年を迎えている。あんな日々が10年以上も前のこととなった。29歳の誕生日を想像することなどできなかったあの頃の私へ。そして、現在進行形で苦しむ誰かへ。

これは、今、かつて普通と思っていた生活を送りたくてもできない人への備忘録。  


私が知らない、当たり前の世界

今日はベジタリアンが身近にいる環境に出会い、生きやすくなったお話。

病気の経緯や何故旅に出るに至ったかについては端折って話すと

ヨーロッパでベジタリアンの文化に出会うことで、私はこのままのスタイルで生きていていいのだと開き直れた。

あんなに人と食べることこそが苦痛だった日々を日本では送っていたけれど、海外だからこそ好きなものは人それぞれ。好きなように食べていいんだと思えたから、人と一緒に生活を送れるようになった。

ベジタリアンなんていうと、日本では異端視される。面倒な奴だと思われる。でも、日本の外では当たり前に存在する文化だった。

彼ら用のメニューが常にあったし、お前らベジーのためにわざわざ作ってやったんだ、とふざけて笑いあう会話が飛び交っていた。

そう、私は知らなかっただけ。

狭い日本の箱の中でしか生きてこなかったから、知らなかっただけなのだ。

ベジタリアンには宗教的な観点もあって、それについて特質して取り上げたい訳ではない。

私がここで言いたいのは、当たり前と思って過ごすこの日々は当たり前ではなく、息苦しいと悲観している現実は、その場限りの現実であるということ。知らないだけなんだから、知りに行けばいい。


あの日私は救われた。

野菜しか食べられない私は、友達と長い時間を共にすることはもちろんできず、家族との食事もあえて忙しくすることで避けて生きてきた。旅行なんてもっての他である。13年目にしてようやく家族と旅行に行けるようになった。

かといって、野菜を使ってでさえも自分で調理することは怖く、でもお腹はすくものだから、コンビニで大量に買い込んでは飲まずに吐いてを繰り返していた。

そんな時間が苦しくて、なのに止められなくて、一日の何時間もそんなことに時間を費やし生きてる意味は何なのだろうかと自問し、また朝が来る。

そんな日々の繰り返しだった。

私の偏食っぷりを見せられなかった。心配されたくなかったし、でも、私が口にできる精いっぱいは野菜だけ。かなしかった、むなしかった。

なのに、ヨーロッパにはベジタリアンという文化があった。ただそれだけ。あるか、ないか。それだけだった。

普通などどこにもない

きっかけは違うにせよ、なんだ、私みたいな人いっぱいいるじゃん。これも普通じゃん。それだけで、人と一緒にご飯を食べられた。幸せだった。誰も、私のことを気にしない。

とても救われた。私の居場所をようやく見つけられた安堵感に浸る思いと感動を今でも覚えている。

好き嫌いがあってもいい。肉がダメな人、豚がダメな人それが宗教がらみであっても、好き嫌いであっても、だれも気にしない。料理は大皿でテーブルに出され、好きものを好きなだけが当たり前。

誰も私を不思議に思わない。だから、私も好きにできた。

そう、日本にその文化がたまたまなかっただけ。

ベジタリアンの文化は食にまつわることだけど、そこから感じたのは、彼らの根底には他人は他人、自分は自分という精神が大前提であるということ。ある意味冷たくもある。必要以上に干渉しないわけだから。だけど、つまりは自分も他人も尊重するという精神。他人と違うことは変ではない。その人の持つ個性を尊重してる。

食事だけではなかった。生活を送るすべての場面で、私は受け入れられているという実感に浸り、私の"生きてる姿"、"ありたい姿"に向き合うことができた気がする。

そんな環境こそを、私は求めていたのだと思う。

何が好きで何が嫌いか。
何はやりたくて、何はしたくないか。
何のストレスならOKで、何のストレスは耐えたくないか。
それらを、自分に合わせて選択する自由が私たちにある。その選択肢を知る機会、それを自由に選んでも非難されない環境、それらが私の人生観では圧倒的に不足していた。

摂食障害の本質は、フィジカルではない。見た目で問題視されるけれど、根底は精神的で根深いものだ。私たちは長い年月を一緒に生きていかなければならない。私が怯えていたのは、人との食事だけではない。生き方考え方そのものが皆違う世の中で、自分の存在に自信がなかったのだ。正解などないはずなのに、正解を探すように生きてきた。

だからヨーロッパで当たり前の文化との出会いは、私を開放するきっかけとなった。私は私を隠さず生きる道を、長いトンネルの先に待つ光をようやく見つけた。

逃げでもいい。何でもいい。今とは違う現実へ。

拒食症過食症で悩む人には思い切って今ある環境を飛び出してみてほしい。それもできれば、日本ではない、今の常識が常識でないところへ。

甘えもきかない。でも、日本人だから、文化が違うから、ご飯が口に合わないから、という優しいウソが使える環境へ。

今この環境は、当たり前ではないんだよ。


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