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随筆「先生と命と読書」


 通勤の僅かな時間を読書に充てて久しい。それも新聞を読んだ後の事である。何しろ自室に籠るとぐに創作へ入りたがるので、本を広げる時間が自ずと限られてくる。それで昨年から定期的に通う歯医者の待ち合いであったり、たまに電車へ乗る機会があれば、寸暇を惜しんで本を開く。そうして自分の目はホームの足元と文字の隙間に落ちる。或いは天然自然と紙の狭間を行き来する。

 こうして得た貴重な時間に開く本は大抵が先生と決まっている。先生と一口に、自分にとりも当然の如く唯一人を示して得意に語っても、世に先生と呼ばれる御方は幾千万とおられるだろうから、自分の場合は少し様子が異なるけれども、きちんと御名を申し上げておく必要を感じるので、判然はっきりさせておくが、実は夏目漱石先生の事である。かつて読書時間を何十冊分もしかと確保していた折は、先生を一冊読んだら他の作家を手に取ると云う具合に、見事にバランス取って楽しんでいた。無論今でも心の赴くまま手を伸ばしたいと思っている。それが極端に読書時間が減少して、それでも読みたい本を選ぶとなると、先生の比率が結果的に上がってしまったと云う訳なのだ。

 昨今、多方面から、手に取って損の無い事請け合いの好奇心くすぐる素敵な本を立て続けに紹介されて、断然読む気概と心意気でもって即刻買い物籠へ用意だけは済ましたんだけれど、己の成長と或る目的の達成を新書の購入条件にしよう等と企んだものだから、遂いつまでも財布の紐閉めたまま、今日まで時を潰してしまったのである。全く望みばかりが積まれて、甚だ困った事態なのである。困ったと云って、それは幸福の悩みなのだから、案じるには及ばないのだけれども、早晩書物購入許可の新ルールを創り上げなければ売り切れ必死、抱く希望も荒唐無稽出鱈目、読みたい読みたいの法螺吹きもいい処である。何かよい方法は無いか知らん。

 先程自分はいつでも先生を読んでいると申し上げたが、只今は「思い出す事など」を読んでいる。これは一時危篤状態に陥りながらも復活成し遂げられた先生が、療養先の修善寺から東京へ戻られてお書きになられたもので、随所に人の生き死にの話が垣間見える。結果的に助かった先生の命と、時を同じくして、結果的に黄泉の国へ旅立たれた先生にとり近しい方の命とは、何ら違いのない物でありながら、行き先が全く反対となった訳である。作中で先生が黙々と命と向き合って居られる最中、読み人たる自分にしても向き合わざるを得ない命の話であった。
 その中に、先生が受けたある青年からの見舞いが紹介されているのだが、自分はこの一文を両の黒目でなぞった時、たちまちの内に心へ滲みて、暫くその一文から先へ読み移る事が出来なくなってしまった。繰り返し、同じ処を撫でた。此処ここに一寸紹介しようと思う。

「ある知らない人から、先生死に給う事なかれ、先生死に給う事なかれと書いた見舞いを受けた。―中略― この同情ある青年の為に生き延びた余を悦んだ。」

 先生死に給う事なかれ。青年のこの、余りに直接的な表現が、二度も繰り返されて此方こちらの身へ迫って来る。余りに切実に、自分の胸へじかに訴えて来るのだ。青年はその後どうしたろうか。立派に大人になりおおせて、幸せに暮らしたろうか。自分は青年のその後が案じられて仕方が無かった。無論、全ては過去の話である。何処の誰かも知らない。私は青年の行く末が気に掛かるが、令和の今になって、自分がどれだけ気を揉もうが、明治や大正に一滴ひとしずくの影響だって与えないのだから、全く、心配するに及ばないのだ。それなのに自分は何だか気が付くと盆槍ぼんやり青年を思い出している。どうして先生の容態を見聞きしていたか、矢っ張り新聞かしらと思いながら、さぞ心砕いた事だろうと、同情している。

 そして不図、これはどうも青年に自らを投影させたのかも知れないと気が付いた。自分は、「先生死に給うことなかれ、先生死に給うことなかれ」と筆を執った青年の心持ちが、ありありと目に浮かぶ様である。もし仮に、自分が大正の世で活字広げて先生の重篤の報に触れたとしたら、矢張り切実なる思いを紙に認めて祈る様に投函するだろうと想像するのである。それが命の行く末左右するわけではなくとも、送らずには居られなかったろうと思う。或いはこれらの多くの想いが天に受け容れられて――等と云うスピリチュアルな云い分も可能性の内には在ったかも知れない。只其処まで話を押し広げると神の領域になるから今は述べない。あくまで自分は紙の領域で語ろうと思う。

 そう云う訳だから、その後、一旦は命を繋ぎ留めて、世に「思い出す事など」が発表されて、青年の心は少なからず一度救われたと思うのだ。そうであれば自分も嬉しい。そして、この随筆を執筆中、新聞で思いがけず先生の御詠みになられた句を目にする機会を得た。自分はこれを、療養中の同じ時期に御詠みになった句に違いないと思った。調べてみれば矢張りそうであるらしい。手元に参考文献が無い為断言は出来ないけれど。

「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉」〈夏目漱石〉

 近頃の傾向として、一つの作品に触れる時、他の作用からその作品への造詣を深める情報を得る事は儘ある。今度もそうして、自分の力の及ばぬ処から、著者へ、作品へ、より一層近付くことの出来る知識を得て、自分は大変感謝している。そんな事を思いながらの通勤中、水流豊かな川と、大きな空を眺めながら、不意に一句思い付いた。

「先生帰らざること久し 彼岸花」


 遂長くなった。先生を語るといつも長くなる。話を自らの読書へ戻そう。今の一冊を読み終えたら、今度こそ一度先生を離れて、気になっている本たちを読もうと思う。先ずは本屋へ行く時間を設けて、探して来ようと思う。もしも積み上げた読書希望の数々に出会えたとしたら、その時は、それを買う事が許される正当な理由が必要である。何かもう、御都合主義的な、新たなる決まりでも設けようか。それとも単純に、九月に長編小説を一本書き上げる位の集中力を発揮したから、その御褒美とでも言いくるめてしれっと買ってしまおうかしら。

 全く、意固地な自分を騙し々々だまし生きるのも気楽じゃないのである。それこそ神の領域から「買って良し」とあっさり命じて欲しい位なのである。

                    十月の空の下より  いち



〈余談〉いち門下生として世を生きる自分。先生のお帰りは待ち遠しくもあるけれど、到底叶わぬとよく分かってもいるのです。因みに赤い彼岸花の花言葉の一つは「また会う日を楽しみにしています」なのだそうです。

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