掌編「ビターリキュール」
目の覚めるような鮮やかなルビー色から、色を持たない小さな気泡がいくつもいくつも上っては、グラスの外へ弾けていった。
「凄い色ですね」
「きれいだろ?」
「きれい。強い赤。情熱的」
玲子はグラスを手に取ると、カンパリソーダを繁々と見つめた。グラスの底へ沈められた真っ赤なリキュールが、彼女がグラスを傾けるたびゆっくりと底を揺蕩う。ソーダはこの間にも絶えずシュワシュワと弾けてゆく。信太は見かねて声をかけた。
「飲まないの?」
「飲みます」
あれ程物珍しそうに目をぎゅっと寄せて観察していたのに、今度は一気にごくごくと喉へ流し込んでいく。お洒落なバーカウンターが一瞬にして居酒屋になる。まるで駆けつけ一杯の生ビールみたいだ。
信太は苦笑しながらスコッチをちびり舐めた。こちらはオン・ザ・ロック。時間にも人間関係にも縛られず、世間の喧騒から離れた静かな止まり木で心身を労うのが、彼の週末の楽しみなのだ。
・
―お酒飲んだことないから、好きか嫌いか分からない。強いのか弱いのかも知らない―
信太のバイト先に新しく入って来た玲子は、自己紹介で惜しげもなく28だと披露しておきながら、お酒の話になるとぽかんと口を開けて、飲んだことない。と言い放った。3、4人いたバイト連中は、揃って
「ええー!!」
と腹から声を出した。信太もその内の一人だ。なにしろ彼等の職場は居酒屋で、酒とは常に隣り合わせの毎日だ。社員に隠れて生ビールを味見する者、ノリの良い客にご馳走になってちゃっかり一緒に乾杯する者――と日々酒に触れずに働く方が難しい職場なのだ。それなのにお酒を知らない玲子がアルバイト先に選んだ事も、採用された事も、彼等には驚きだった。なんでなんでと矢継ぎ早に質問が飛んだが、玲子は仏頂面で曖昧な返答を繰り返して、さっさと仕事に入っていった。
不思議系、さばさば系、近寄りがたいやつと認定された玲子への関心は、バイト初日にあっさり薄まった。ただ信太は少し違った。
―お酒飲んだことないから、好きか嫌いか分からない。強いのか弱いのかも知らない―
玲子は興味がないとは言わなかった。関心はあるのかも知れない。ただ機会がなかっただけなのかも知れない。それで信太は、自分がいつも一人で立ち寄る気に入りのバーへ玲子を誘ってみた。
少し考えて、玲子は真面目な顔で行ってみたいですと言った。信太は満足げに頷いた。
・
「これから毎週土曜日はさ、こうやってお酒を知りながら、色々語る時間にしてみない?」
「そういうの、ちょっと面倒くさいな」
「ははっ、はっきりしてるな」
「毎週必ずとか、この時間にこれをやるとか決められるの苦手なんで」
「そうか」
「でもカクテルは面白い気がしてきたから、色々飲みたいと思ってます」
「じゃあどうする?」
「行くときは声掛けて貰っていいですか?」
「毎回?」
「できれば」
「それで行ける時は一緒に来るの?」
「はい、行ける時は全部行きたいですね」
「あはは!そうか、そうなんか」
「だから土曜にこだわらなくていいです、時間も別に、都合が合うなら、よろしくお願いします。カクテルの他にも、どんなのがあるか、知りたい」
真っ赤なルビーは潔く玲子の唇へと吸い込まれていった。
「うん、面白いな。後から苦い。カクテルって全部こんな感じですか」
「いいや、色んなのがあるよ。リキュールだけじゃない。同じリキュールでも何と合わせるか、レシピでいくらでも変化する」
「ほおう!」
「次何飲む?どんなのが飲みたい?」
一杯飲んだくらいじゃけろっとしている玲子の顔いろを確かめて、信太は二杯目の相談をはじめた。
「甘くないやつ」
「なるほど」
信太は少し思案して、バーテンダーにジントニックをオーダーしてやった。カウンターの奥と、店の壁を占領するように聳える棚へ、所狭しと並ぶリキュールの瓶を、玲子は興味津々、目を輝かせて眺めている。
イタリア・ミラノ生まれのカンパリ。アルコール度数は25度。苦みが特徴のこのリキュール、原材料のハーブやスパイスは、実は公表されていない。あの燃えるような鮮やかな赤がどうやって生み出されているのか、絶妙な苦味はどうやって生まれるのか、全ては秘密とされている。そこが人々を一層虜にする。
ビターリキュール
君の生まれて初めての一杯に、相応しいと思うよ。
信太は飽きもせずにいつまでも瓶を見つめ続ける玲子を見て、面白そうに笑った。
終
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