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発達障害当事者からみる「発達障害ドラマ」〜『厨房のありす』いち当事者としての所感〜


近年のメディアにおける「○○障害」の扱われかたを憂う

発達障害を扱ったドラマを、本当によく見かけるようになった。
ほぼ毎クール、何かしらのドラマが放送されている。

いまや、発達障害だけではなく、視覚障害や聴覚障害を扱った作品もよく見かけるし、それが話題となることもある。
っていうか、いまって「障害」がブームなの???

障害についての認知が世間に広がるのは大変喜ばしいことだけれど、ブームにしてほしくはないんだよね。

今期でいえば、日本テレビ系・日曜ドラマ枠で放送中の『厨房のありす』。
「自閉スペクトラム症の天才料理人」が主人公のドラマだという。

どんなもんかと試しに観てみたのだが、なんだかモヤモヤした気分が残った。

このドラマを観た当事者の人たちは、どう感じているのだろう。
WebやSNSで探してみたけれど、私が求めているような情報はなかなかヒットしない。
そんなときは、そうだ、noteだ!

私もお世話になっている『デコとボコの共同運営マガジン』の運営者であるリケジョママさんが書かれた記事を見つけた。
これを読んで、めちゃくちゃ共感してしまった私。

そして、私も書きたくなった。
リケジョママさんのような、スッキリとしてわかりやすい文章は私には書けないけれど、このモヤモヤを吐き出さずにはいられない。

ただの戯言かもしれないけれど、聞いてもらえるとうれしいな。

あらかじめお断りしておくが、私は決して「発達障害の代表」として意見したいのではない。これから書くことは、あくまで「いち当事者」としての意見であるということを、何卒ご了承いただきたい。


『厨房のありす』をASD当事者目線で観ると…

私は、ASD(自閉スペクトラム症)の当事者である。

確定診断を受けたのは40代後半になって。20代までにきちんとした検査を受けていれば、間違いなく重度の発達障害だと診断されていただろう。
成長するにしたがって次第に落ち着いてきた部分もあって、現在は中等度だ。

ADHD(注意欠如多動症)も併せ持っているが、ASDのほうが若干強め。
正真正銘の「アスペルガー」である。

そんなバリバリのASD当事者である私が『厨房のありす』を観て感じたことを、思いのままに書こうと思う。

まず感じたのは、「障害を誇張しすぎ」だということ。
このドラマの主人公・ありすの持っている特性の表現があまりにもオーバーすぎて、いまいちリアリティに欠けるなぁと感じた。

ドラマを観た人たちに「ASDってこうなんだ」と先入観をもって見られるのは嫌だなーっていうのが、当事者としての私の正直な感想だ。

役者さんが定型さんだから致し方ないか。
演技力があると評判の役者さんらしいが、やっぱり違う。
真剣に演じてくれているのだろうとは思うが、ぜんぜん違う。

ADHDに比べると、ASDはかなり演じにくいだろうなと思う。
だったらなぜ、当事者が演じないのだろう。
当事者の役者さんが演じる、リアリティにあふれたドラマも観てみたいと思うのは、私だけだろうか。

「コミュニケーションに難があり、人づきあいが苦手。不器用でポンコツだが、特定の分野においては非常に高い能力を発揮する」

なんていうキャラクター設定は、ドラマや映画、漫画や小説などのエンタメ作品では普通によくみられる設定だ。

それは、主人公に何かしらの難がなければ、ドラマが成立しないからである。ドラマを面白おかしくするために、そのようなエッセンスがどうしても必要になってくるのは容易に理解できる。

にもかかわらず、こと「障害者」というフィルターを通すと、途端に偏見の目で見られる対象となってしまう。
「障害者」と言わなければ、単なる「変わり者」と言われて終わるだろうに。
それが悲しいなって、私はこのドラマを観て思ってしまった。

「発達障害者」というキャラクター設定を、どうしてもこの主人公にあてがわないといけなかったのだろうか?
このストーリーだったら、別に「発達障害者」じゃなくてもよかったんじゃないの?
その必要性が、私にはどうも理解できないのだ。

この作品はオリジナル脚本であり、原作はない。
ASDについての監修は当然入っている。

だが、私にはどうしても、発達障害のことをよく知らない人が
「発達障害って、だいたいこんなもんでしょ」
ってな感覚で、適当につくられたような気がしてならないのだ。
(※注※ これはあくまで私の個人的な所感です!)

発達障害のことをよく知らない人が、このドラマを観ると
「発達障害って、こんなもんなんだ」
と誤解する可能性があるのではないか?
それを私はとても危惧している。

自閉スペクトラム症は、「スペクトラム(境界が曖昧で連続しているという意味)」と称されているように、人によって実にさまざまな特性が見られる。

発達障害のある人が100人いれば100通りの特性があり、それぞれのグラデーションがある。特性のあらわれかたも、困り具合も、それぞれ異なる。

これをテレビドラマで表現するのは、たしかに相当、難易度が高いだろうなと思う。

だけど、ドラマを観た人たちに変な先入観を植えつけないように、当事者の人たちにも気持ちよく観てもらえるように、発達障害のことを知っている人にも知らない人にもどちらにも配慮しながら、作品づくりをしていただきたいなと思う。

「発達障害のある人には何らかの特殊能力がある」
っていうのも、都市伝説的に誤解されてるような気がする。
サヴァン症候群とか、たしかにそういう人も存在するけれど、すべての人がそうではないんだからね。

このドラマの主人公も、驚異的な記憶力と化学の知識を持っているという設定がされている。これっていわゆる「ギフテッド」じゃないか。
こんなの、発達障害でも少数派中の少数派なのに、それをさも「発達障害のデフォルト設定」のように見せるのだけはやめてほしい。

そんなふうに思う当事者は、きっと私だけではないはずだ。


『厨房のありす』に共感できたところ、共感できなかったところ

このドラマのなかで私が共感をおぼえたところは、ありすの過去の職場のシーン。

手際が悪くて時間だけかかり、スムーズに仕事をこなせなくて、まわりに迷惑をかけてしまう。そして「あいつとはいっしょに働きたくない」と同僚が上長に申し立てている場面を目撃してしまうシーン。

このシーンは、観ていて胸がきゅっと痛くなった。

そう、私も似たような経験をたくさんしてきたから。
それで若いころから、職場をいくつも渡り歩いて……もとい、転々としてきた。
実際に、ありすが言われたのと同じようなことを言われてクビになったことだってある。

逆に、「これはないだろ!!!」って思ったのは、現在の職場でのシーン。

ありすは「ありすのお勝手」という小さな食堂を営んでいるのだが、そこでのお客さんへの対応が、ありえない。

口の利きかたもなっていないわ、ロクに目も合わせようとしないわ。
それどころか、遠目にお客さんの様子をうかがうなんて、あまりにも無礼すぎて目も当てられない。とんでもないシーンだった。

おまえは『巨人の星』の明子姉ちゃんか!
って、画面に向かってツッコんでしまったじゃないか。

いくら障害があるからって、これはひどい。はっきり言って、これはお客さんの前に出てはいけないレベルだ。これでは誰だって不快になるし、お客さんが激怒するのも納得だ。
こんな店員がいたら、たとえ自分と同じ障害を持っているとわかっても、到底受け入れられない。

誤解してほしくないから言っとくけど、ASDタイプの人って、人づきあいはうまくなくても礼儀正しい人がめっちゃ多いんだからね!

こんな表現のしかたをされたんじゃあ、定型さんたちに
「やっぱり発達障害のやつと働くのは嫌だな」
なんて思われかねないじゃないか。

発達障害を抱えている人たちには、人とのコミュニケーションや手際よく仕事をこなすことを苦手とする人たちが、たしかに多い。

だけど、それをなんとか改善しようと、できるだけ「普通」に近づこうと、懸命に努力している人たちばかりだ。
少なくとも私の知っている人たちには、障害があるからといってそれに甘えたり、苦手だからとそこから逃げたりするような人はいない。


これが私の「発達障害のリアル」

発達障害のある人って、実年齢よりずっと幼く見える人が多いよね。

私だってそうだ。見た目も幼なきゃ、振る舞いも幼い。それはよく自覚している。話し下手だったり不器用すぎたりするから、年相応には見られないんだろうなぁ。だから、年下にもタメ口をきかれたり、ナメられたりするんだよね。

で、このドラマの主人公であるありすはどうかというと、これがビックリするほど幼すぎる。
子どもならまだしも、大の大人がそこまでするか???
って思わずにはいられないんだよ。

ありすのように、自分の決めた手順やルールで物事を進めるのが好きだというのは、よくわかる。
自分の思ったとおりに事が進むと楽しいよね。めっちゃ落ち着くし。

私にもたしかに、こだわりの強さは存在する。

子どものころ、クレヨンや色鉛筆や絵の具の並び順に、異常なくらいのこだわりがあった。「自分の好きな色の順番」というのが自分のなかにあって、それのとおりに並んでいないと嫌だった。
誰かに貸して、返してもらったときにそれが入れ替わってたら、すぐに自分の決めた順番に並び替えてたな。

だけど、自分ルールや自分のこだわりが守られないからって騒ぎ立てたり、ましてやそれを人に押しつけたり、強制的にやらせたりなんてしないよ。
そのあたりのドラマでの描きかたが、むちゃくちゃやなぁと私は感じた。

自分の感情をコントールできなくて、ひどい癇癪持ちで、暴れたり喚いたり、まわりにさんざん不快な思いをさせて迷惑をかけまくった子どものころの私でも、それは絶対にないわ。

強いこだわりといえば、ルーティンもそうかな。

手の洗いかた、歯みがきのしかた、お風呂の入りかたなどなど、起きてから寝るまでに、私にはいくつものルーティンが存在する。

いつ何をどの順番でやるか、すべて手順が決まっていて、自分で決めた手順のとおりにやらないと、間違えたり忘れたりしてしまう。私のルーティンは、それを防ぐためのルーティン。自分ではこれが限りなく効率的だと思っているので、これを日々遵守して生活しているのだ。

整理整頓は大の苦手なクセに(これはADHDの特性)、生活必需品はしっかり定位置が決まっていて(こっちはASDの特性)、誰かにちょっと動かされたりすると気持ちが悪い。

いや、これは「気持ち悪い」から、じゃないな。それが自分にとって最も効率的でスムーズにこなせる方法だと思っていて、それを「気持ちいい」と感じるからなんだよね。


たかがドラマ、されどドラマ。

もしかしたら、発達障害に限らず、他の障害も同じなのかもしれない。

たとえば、視覚障害や聴覚障害を扱ったドラマや映画を、当事者の方たちはどんな気持ちで観ているのだろうか。

私と同じように、「それってやりすぎじゃない?」「それはないない!」とか言いながら観てるのかな。うん、きっとそうなんだろうな。
それでも、「ドラマを通して障害のことを多くの人に知ってもらえるのはありがたい」なんて、本当に思ってたりするのかな。

刑事ドラマや医療ドラマだって、本物の刑事さんやお医者さんたちは「ないない!」ってツッコんでるもんね。あまりに間違いが多すぎる、って言ってるのをよく耳にするし。

発達障害ドラマも、そんなもんなのかな。

所詮はドラマ。
わかってるよ。
こんなの「作りモノ」でしかないって。

単純にエンタメ作品として楽しむのも、アリなんだろう。
楽しみかたは人それぞれだから、それはそれでいいんだけどね。


当事者としての願いと、誓い

当事者として、強く願う。

わざわざ「発達障害」をキャラクター設定として明示するのならば、それ相当の正しい表現をしてほしい。

当事者でない方たちに「正しく表現してほしい」というのは無理難題かもしれない。だけど、できるだけ誤解を生まずにすむような作品づくりを目指していただけたら、当事者としてはとてもうれしい。

そして、当事者として、私にできることは何なのか。

当事者にしか理解できないことが、まだまだたくさんある。
発達障害にまつわる情報は増えてはきているものの、まだまだ足りない。

私にしか書けないことも、きっとまだまだたくさんあるはずだ。
書くことで、世の中の生きづらさを抱えている人たちの力になりたい。

私はそんなリアルな「生きづらさ」を描き続けていこう。
そう心に強く誓った。


最後に、ここに書いたことは「発達障害の代表」としてではなく、あくまで「いち当事者」としての意見であるということを、あらためて申し添えておきたい。

人によって、いろんな見かたがあると思う。
「あくまで私の見かたはこうです」
というお話でした!

こんな長い長い私の戯言にお付き合いくださって、どうもありがとう!


『厨房のありす』は、TVerで見逃し配信中!
あなたは、どんな感想を抱くだろうか?


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