ねむるように逢いに行く
忘らるる 童の頃の貴公子よ
出会いかさなる 白きそのきみ
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笛を吹く 夢の終わりに目覚ましと
忘るるまなく 忘られぬ君
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「まもなく、この新幹線は、終点に到着します。お降りお乗り換えの準備をして、しばらくお待ちください。」
泣いていた。
またか。いつからだろう。忘れた。
私には、眠ると泣く癖がある。泣かないときもあるけれど、最近凄いな。隣に座っていた人が心配している。
確かに仕事や人生に嫌気がさして、旅に出た。
今はその道中だ。
だが、違う。この涙はそういうのとは、ちょっと違う。説明することもないけれど。しかしよく寝たし、よく泣いたな。
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翌日。
旅先で立ち寄った神社の大木に、
何だか見入っていた。
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それはおそらく昭和のある年。
東京の下町で幸せに暮らす夫婦がいた。仲睦まじい。
妻は最近、夢にうなされることが多い。夫はいつも心配そうな顔をして、真夜中に、妻の枕元に胡座を掻いて座るのが日課だ。妻は目が覚めると、いつもたくさんの涙を流して、現実に帰ってくる。
「おかえり」
夫は妻の流した涙を指で拭う。妻はその度に安堵する。また逢えてよかったと。
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ある土砂降りの雨の夜。そんな夫婦の元にひとりの青年がやって来た。彼は記憶を失くしている。唯一の手掛かりは、彼が握りしめていた二十四の瞳の文庫本だった。
青年は、二、三日夫婦の元で過ごした。その間も妻はうなされた。
何が哀しいのかも分からず、原因は何なのか分からず。
だが妻は、それ以外はとても溌剌とした人物であった。日中、夫や青年と過ごすときも快活だった。だが妻は、青年が現れたことによって、それまで夫と二人で過ごした時間が、とても遠い日の記憶のように感じられた。妻は次第に、その青年が気になりだすのだが、その感覚は何なのか。妻にも分からないでいた。
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生きるために人を斬ってきた、くの一がいる。
殺される前に、ただ殺す。それまでのこと。
何処からきて、どこへ行くのかなど関係ない。
目的はただ、殺すだけ。度重なる乱世において、心など不要そのもの。主が変わっても、務めは同じ。
そんなくの一に、新たな主は、調略を命じた。 主は、くの一に、ある男と寝所を共にするようにと言う。
その男とは、ある大名に仕える側近だった。
「恐れながら。大名本人ではなく、側近に?」
「問答無用。」
くの一は早速、調略の為に動く。
男を目の前にしたくの一は、前にこの男とどこかで会ったことがあるような錯覚を覚えた。
それは危険な事だった。もし身元が明るみになれば命はない。その前に殺すか。殺されるか。しかし命令は調略であり始末ではない。思案していると男が言う。
「 …今、なんと?」
くの一は、聞き返した。
なんとも不思議な感覚だった。
直感的にこの乱世の終わりを悟った。
この男が終わらせるというよりも、もっと偉大な何かがそれを終わらせると。
だが終われば自らは、生きられないとも感じた。
男が発したことばより、ことばを発する唇の微かな動きだけが、妙に印象に残っていた。
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新幹線に乗る前に。
いや旅に出る前に、本屋に立ち寄った。
そのとき。本を選んでいるとき。
学生時代の国語科の先生の言葉が掠めた。
本屋に入った瞬間の、あのぽそぽそした感じはなんだろう。
心の乏しさを感じながら、それを補うかのように移動時間にでも読もう。一冊の本を選んだ。
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屋敷にいると手紙が届く。
中を改めると、同じ薬と手紙が三枚ずつあった。
不可解に思いながらも、それらが入っていた空の封筒を覗くと、内側に文字がある。からくりか。
封筒を破って文字を見る。なんだこれは。
寄せ書きになっていた。
寄せ書きにはこう書かれてある。
【風邪 大丈夫?】
【早く元気になってね。】
【バスの添乗員さんがね、とても面白かったんだよ!手品をしてくれたの!】
【一緒に大阪に行けなくて残念。】
【早く学校に来てね。】
何だ これは。あぁ、なんだか、頭が。
身体が、こころが、ばらばらになる。痛いよ。だれか、だれか…
握りしめたその手紙の日付が妙に目に焼き付く。
六月六日。それを見て自分が旅に出た日だと思い出す。旅? 自分…? いや違う。
自分は、屋敷に仕える下女である。違う。自分は、自分は…。
混乱する。
すると目の前に、見知らぬおなごが美しい装束に身を包み、屋敷を後にしようとしていた。
あの者は、誰だ。仲間に聞いた。どうせ殿のそばめ(妾)だろう。そばめにしては堂々と、こんな陽のある時に出て行くだろうか。下女はその、美しい装束とは裏腹の、ただの物体として おなごの形(なり)をしている者に、陶器に触れたような冷たさと恐怖を感じた。
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目を覚ますと夫が心配そうに見つめている。
妻はどうやら、風邪を引いていた。
そこへ玄関がなにやら騒がしい。だれかが戸を叩く。
青年だった。
青年は、近所の面倒見のいい世話好きの元へ越してった。
「今日は帰ってくれ。」
夫が言う。それでも青年は執拗に、妻に大事な話があるという。妻はそのやり取りを床の中でぼうっと聞いていた。すると、ずかずかと青年が部屋に入ってくる。両肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
「奥さん、奥さん○○ちゃんだよね?」
急に夫が取り乱した。今なんて言ったの。
「思い出したんだ。僕と○○ちゃんは、いとこだよ。三つ年の離れたいとこだよ。」
いとこ?何を言っているの。あなた学生じゃない。
私、何歳だと思っているのよ…バカみたい。高熱が、酷い。
妻はまた意識が遠のいていくのを感じた。
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火薬と血の臭いがする。
戦場で、女の悲鳴を聴いた。
駆け付けてみると、男が女を犯そうとしている。
男は敵軍か味方の軍か、分からないまま無意識のうちに男を串刺しにした。刀を抜くときの感触が妙に生々しく、結局刀は抜けなくて、亡骸となった男の飾りばかりの刀を奪うことにした。
くの一は、助けた女の悲鳴によって我に返った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
目の前で、自分の目の前で男が串刺しにされた。
なんておぞましい光景なのだ。しかし串刺しの光景よりも更に恐ろしい事が自分に待ち構えていたのだと思うと、下女はどちらの道もおぞましく、自らの運命を呪うしかなかった。
悲鳴を上げた下女に、刀を持ったおなごが近づいてくる。
殺される。本気でそう思った。
おなごは悲鳴を上げた自分を抱きしめて言った。
「自分を許せ、お前の恨みは私が引き受けた。何もかも。すべてここへ置いていけ。」
意味が分からなかった。すぐに身体を離して、叫んだ。
「行けー!走れぇー!!」
下女は、はっとした。ここは戦場だ。下女は走った。
くの一は、空を仰ぎ見る。火薬の色をした世界に大声を上げ、下女を逃がしたくの一は、再び戦場へ戻って行った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
風邪さえ引かなければ、自分もバスに乗れたのに。
─バスの添乗員さんがね、─
─手品が上手でとても面白かったのでしょう。─
─なんで知っているの?─
え、なんでって。なんでだろう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
誰もいないアパートに私だけがいる。
看病の後がある。
身体が重い。そばには茶色の、丸いお盆がある。コップの飲みかけの水は、私のだろうか。薬と一緒に置いてある。
布団から起き上がり、夫の書斎を見ると古新聞が二枚ある。頭がじんじんする。眠りすぎたか。早く会いたい…誰に?病で床に臥せて気持ちが赤子に返ったみたいだ。
今は字なんて読めないはずなのに、妙に記事の見出しが飛び込んでくる。
【岐阜で十二歳女児、神隠し事件…】
【修学旅行で大阪に行った岐阜の小学生達が、帰りのバスで横転事故に巻き込まれ全員死亡した事件…】
何なんだ…。
「目がさめた?」
後ろから夫に声を掛けられる。思い出したんだねと哀しげな顔をする。
妻は頭がずきずきする。
きみのいとこは帰ったよ。すごく遠い明日の明日。夫は言う。明日のあした…?
何を言っているのかさっぱり分からない妻。
自分たちは夫婦などではないと言う夫。
何を言っているのと、信じない妻。
夫は、教えてくれた。
ある日突然、現れて三日三晩寝込んだ。
その間、夫は。いいや、夫と思われていたその人物は、思い付く限りの、やもめなりの雑多な看病をした。医者にも診せ、そのまま眠られても困るからと、相談をし、あとは警察に任せようかと話がつきかけた時。きみは不意に目を覚まして、自分の名を呼んだ。
その人は、自分という言葉を妙に規則正しく遣う人であった。こちらは、ゆれる五十音をあやふやに。あなたもわたしも自分という。
だから妙なことで、あなたに気付く。
わたしは、見ず知らずのあなたのその名を、二度ほど呼んだと。あなたはいった。
『見ず知らずの自分の名を。』
驚く自分を尻目に、きみはその名を二度ほど呼ぶと安心したかのように、また眠りについた。
そんな自分と眠るきみを見た医師は、親しい間柄だと勘違いをした。そして、警察などと大事にすることなく、目が覚めてからでも遅くはないのではと言い残して帰って行ったという。
その日の深夜からだった。
きみが、今に至るまで、何度もうなされるのは。
そしてその日から。自分に出来ることは、物理的に流れたその涙を拭うくらいだった。
そういってその者は、慣れた手つきで、わたしの頬を拭った。起きているときに、こうするのは初めてだと言いながら。欠落する記憶とぼんやり浮かぶその顔は、私に向けられたその眼差しは、あきらかに慕う者に向けられるべき眼差しなのだと、ゆるやかに感じた。
覚えている。わたしはあなたを。覚えている。
やがて、きみと同じようにあの青年が現れた。
きみの恋人か、なにかと思った。
ちがうの。子どものころ、神社であそんでいてね。神社?あれ…なんだっけ。なんでもいいよ。受け入れる。
青年はね、きみとはちがって、順調に記憶を取り戻していった。記憶…やはり青年は、誠わたしのいとこだった。少し思い出したの。たわいもない喧嘩をしたことを。そうかい、そうかい。
肉まんはね、豚まんなの。そうかい、そうかい。
自分と青年はね。仲良くなって酒を酌み交わしたのさ。きみがうなされず、静かにねむる夜だった。青年は言うのさ。
「夢にしては随分と、りあるな世界だ。たいむましーんに乗ってやって来たという感じでもなさそうだし。」
自分もかなり酔っていて、ぷつりぷつりと頷いていた。ぷつりぷつりと聞いていた。
「だけどもしかしたらさ。あにき。どこか遠くに行くことなんて、夢を見るように誰でも簡単に出来るのかもしれないね。」
そんな事をぷつり、ぽつりと言い残し、酔いつぶれて眠ってしまった。そして眠るように現と夢の往来を終え、帰っていってしまったのさ。帰る?どこへ。
おそらく僕は思うのさ。僕?誰…?
タイムリープした先での出来事はね、寝ている時に見る夢みたいなものなのさ。
え…?いま、なんて言ったの?
もうじききみは、目が覚める。
夢からさめたら、夢での出来事なんて忘れるように、ここでの出来事も、きみが涙をながした意味も、自分はそれをただ拭うことしか出来なかったことも、すべてゆるりと、忘れ消えゆくと思うのだよ。わすれゆく。こころを焦がしたこと全てをさ。
わすれゆく?それは困る。
困る?どうして。
だってわたしは、あなたの…
あなたの?
顔となまえが…
ゆるやかに。僕はそれでいいと思うのだよ。だけどきみは またこれからも、きみはきみにしばられて、もがいてもがいて。くるしむかもしれないのだよ。
苦しむ?
だから忘れゆくこと前提で、僕はきみに余すことなく、いいや。ちがうな。本当はまだ、いくなとおもうから、語りかけているのだと。自分で理解しているのだよ。
君だったんだ。ずっと、ずっと君だった。
さっきから、ずっとなにを言っているの。
彼は、話し出した。
風邪を引いて、修学旅行に行けなかった小学生がいる。本当は、風邪なんかじゃなかったんだ。どういうこと?本当はね、修学旅行の前の日に乱暴されたんだ。その乱暴された小学生というのは、君のことだ。
何を言っているの。そんなことある訳ないじゃない。
あぁ、きざまれる。待て。いくな、戻って来い。嘘よ。だってあの後私は、
くの一に助けられただろう? えぇ。
本当ならね。なに。本当ならばあの後。本当ならばあの後。なんなの。遺体が見つからないようにバラバラにされ、埋められた。山に。あぁ。そう。だから身体が痛むのね。だから世間は、神隠し事件と取り上げた。さっきより新聞が、色ぼけてみえる。
今 彼が、私の手をいくなと掴んでいる。だから かろうじて、ここにいる。
忘れていい。忘れられることは、忘れていい。それでも忘れられない事は、忘れはしない、でも許そうと思えるその日まで、ゆるやかに。しずかに、別のせかいに身をゆだねればいい。自分はそう思う。そういうと彼はいけずにも、わざと腕を離した。また同じところに戻ってこられるとも限らないのに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
くの一に助けられた下女は。いいえ、私は、走っている。ただがむしゃらに。森か。山か。分からない場所を。躓いてこけた。ここまで来ると、もう大丈夫。全身泥だらけ。膝がいたい。だが進まなくては。やらなくちゃ。変えなくちゃ。遠い遠い明日のあしたが、明日なのだから。
誰もいない。夜の校舎。職員室に忍び込んで、修学旅行の旅費を盗んだ。一体、いつの時代だろう。翌日。騒ぎになった。だけど誰がその記憶を消したの。自分には「盗んだ」という記憶がない。結局、行き先が近場に変更された。あしたを変えた。だけど変わらない事もある。
行き先が完全に変更された後。「盗んだ」記憶を取り戻した私は、なんともまぁ正直に、旅費を盗んだのは自分であると名乗り出た。ところが盗んだ記憶はあっても、理由だけはどうも思い出せず、分からないままだった。そりゃあ、いじめられもするわ。みんなみんな、楽しみにしていたのだから。 言えなかったんだよ。 え、そうなの? きみはよくもわるくも思い出す。覚えている人だから。 せめて出発してから、思い出せばよかったのに。 それならそれで罪悪を感じてしまうのがきみだろう。 それもそうね。あぁ、もう少し走れば変えられたのかな。ほんとうの敵は一体だれで、何と闘うべきなんだろう。空を見上げても、火薬の匂いのしない世界にいま、いるのに。
覚えておきたいというのは、私の都合かな。いま私、本当にあなたの事を忘れかけている。いいえ。船を漕ぎ出そうとしている感覚。それでいいのさ。それでいい。
それでいいのだよ。うん。それでよかったのよね。周りからはいじめの標的にされたけど。つらかったね。それがちっとも、つらくはなかったの。そう思う感覚は、既に麻痺していたから。そうかい。
私は結局、行き先の変わった修学旅行には行かなかった。行けなかった。そしてその修学旅行の最終日。事件が起こる。その場にいた同級生や、大人はなにが起きたのか当時よく分からなかったという。当時?ここは…会場?赤い晴れ着を着た人と、金の帯を付けた子と。袴を履いた人の何人かが、私になにか言う。こわい、なにを言っているのか聞いてごらん。あの子達。あの日の子達。大きくなったな。許してね。許すも何も。私こそ。盗んだから。だけど、結果的にこの会場にいられるのは。 なんて言ってたの。聞かなくてももう十分だから、それでいいの。そうかい。きみがそれでいいのなら。大人になったみんなが皆、許してくれたわけじゃない。うん。だけど。 あ、また風向きが変わった。
おかえり。ただいま。ちょっと私の変えたあしたというのを見てくるわね。
夕方のニュース。親が噛り付くように見ている。醤油の香り。肉じゃが。お鍋コトコト。火は大丈夫かしら。そこじゃないだろ、でも危ないから。…あ、ここでは火を触ってはいけないと、言われているんだったわ。でも、危ないから。鬼の居ぬ間のなんとかよ。少し小さくする?いや、もう止めておこう。止めた瞬間、名前を呼ばれて驚いた。親は私を抱きしめた。
私は、あしたを変えた。だけど、変わらないこともある。あなたの書斎で見つけた新聞記事は、少しばかり内容に変更が出ているのかしら。その日、同じ時刻。別の場所で。大きなふたつの事故が起きた。あぁ、もう少しがんばって、走ればよかったなぁ。事故直後。私に対する風当たりはきつかった。だけど皆、かすり傷程度で済んだのは、帰りの道が混んでいなかったからだという。ずっとずっと後になって、無事だった我が子に安堵した父兄や、教師たちは慮ることになる。もしも、あのまま滞りなく、例年通りの場所に向かっていたら。帰って来られなくなっていたということに。全員が。何とか、いのちここにある身として帰ってきた。良かった。だけど。こわい思いをさせてしまって、ごめんね。盗んだ旅費は、みんなが無事だと分かった後。校長先生に返したの。みんながこわい思いをしたことを、忘れちゃいけないよと言われたの。だけど、私は心の中で、行き先を変えないバスの中に、自分も乗ることが出来ていたら。どれだけ楽だったろうとおもったの。先生は得体の知れない私に、怒るとも褒めるともしない、どう接すればよいのか分からぬ様子でいた。
明日のあしたの、明日のあした。ずぅーっと明日を、私は変えた。だけど何なの、このにがみ。多くの人に見守られて。その見守る人たちも、悩みながらも見守って。なんなの。何でこんなに、にがくて潰れそうなの。…え? なに。…いま、なんて言ったの。それが…私の、名前? …だれ。どこから聞こえるの。どこ?
泣きながら目を醒ますと、隣には夫だと思っていた男がいる。私は思わず、手を伸ばした。なんて悪夢だ。あぁ、悪夢さ。だからもうじき目を覚ますよ。心配せずとも大丈夫さ。だけどその前に。きみにまたこうして会えて良かった。男は言う。
人生は一度きりじゃないの? あぁ、一度きりさ。そのはずさ。それなのにどうして。よくわからないのもまた、人生さ。
一度きりの人生で、こんなにもたくさんの記憶があるなんておかしいわよね。きみだけじゃないさ。そうなの? 分からない。だけど不思議なことも起きるものさ。辻褄の合わない、説明のつかないことの方がきっと多いのさ。そうだといいけれど。また逢える?分からない。きっときみだけじゃないはずさ。記憶があるのは辛いから、忘れるように出来ている。 都合よく? あぁ、都合よく。人は辻褄の合わないことをきらうから、忘れるように出来ている。本当かしら。どうだろうね。
私もあなたも、もう分かっていた。とても長い旅をしているのに、まだ旅を続けなければならないということに。目が覚めたらさ、・・・え、なに?
…未来に戻ったらさ、ここでの記憶を忘れてしまうだろう?代わりに僕が覚えておくからさ。心配しなくていいよ。本当に?あぁ。覚えておくとも。
何故だろう。彼の口調がおさなく感じられるのは。
だけど一つだけ覚えておいてほしいことがあるんだ。なに?
一つだけお願いがある。何?
口元が動くだけで、もう声は届かなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
再び神社の大木の前にいる。立ち去ろうとすると、神社の人に引き止められた。大学生くらいだろうか。
忘れ物だといい、古い文庫本を渡された。昨日もこちらにいらっしゃいましたよねと。昨日?そういえば来たかな。知らないうちに一日経っていた。確かに昨日、ここで文庫本を開いて時間を過ごしたが、それは私のものではない。なんて古びた本だろう。
「二十四の瞳、違いましたか。」
大学生は言う。落とし物の本をパラパラとめくって。
「昨日につながる今日…」
「はい?」
「あ、いや。むかしその本を読んだとき、妙にその言葉が気になったなと、思いまして。」
あぁ、まただ。また思い出す。私の記憶に、学生時代の国語科の教師のことばが、掠める。
─本を読んで、読み続けて。心の幅と人生の幅を広げてほしい─
「昨日につながる今日。やはりあなたのものでは。」
「いいえ。」
少ししつこいと思った。
「私の本はこれです。」
取り出して見せた。
「夢十夜、ですか。」
「はい、」
「映画なら、観たことがあります。」
「映画?」
「夢をカタカナに変えた、"ユメ十夜"」
「へぇ。」
「どこまで読まれました?」
「…」
些か、馴れ馴れしいと思った。けれどこれも旅の思い出と思うことにしよう。
「どうかされました?」
「あ、いいえ。」
「すみません。馴れ馴れしくて。急ぐ旅をお止めしちゃいましたね。」
「いいえ。ずっと旅をしておりますので、急ぐ旅でもありません。」
「そうですか。」
なんだろうか。持っている本に目を落とした。
「…まだ、第一夜のほんのちょっとしか、読んでいません。」
「作家が出てくる話ですよね。」
「作家?」
「ちがいましたか、」
「いいえ。私がよく分かっていないだけかもしれません。」
大学生は、ひとりで話し出す。
「僕、あの作家。本当にいたんじゃないかなって思うんですよね。漱石自身とかではなくて。もっと別の、誰か。」
「はぁ。」
「なにかを、待っているんですよ。」
「へぇ。」
なんて言えばいいか分からなかった。
─本を読んで、読み続けて。心の幅と人生の幅を広げてほしい─
神社を後にしたあと、改めて夏目漱石の夢十夜をよんだ。どこに作家が出てくるのだろう。よく分からない内容だったけれども、もっとよく分からないのは、この大学生だと思った。
(完)
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おわりに
若い時分の私が、このような作品を書いたという事は、きっとなにかの定めにありましょう。
私は、あれから随分、歳をかさねました。
旦那さま。いつも分からぬお方の名前を、なんとか思いだそうと度々試みてはみましたが、どうも無理なようでした。だから旦那さまと勝手にお呼びし、かつて過ごした日々を懐かしく、折に触れて思い出すという形で、あなたに会いに行っておりました。
しかしそれももう必要がないようでございます。
私は、おばあちゃんになりました。
白ききみ わが身離れ 逝くこころ
ぬくもりの背に おもいだす きみ
たくさんのことを忘れて、たくさんのことを思い出し、いま、私はねむるように。あなたに逢いに行く。
完。
2021年7月1日(木)
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