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苦しみの根源的な要因「三毒」とは❓ 『ブッダが説いた幸せな生き方』⑥
前回は『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)を読みながら「無常」と「無我」の関係を取り上げましたが、今回は苦しみの根源的な要因といえる「三毒」についてです。
この本の著者である今枝由郎氏は、人間は全てのものが虚仮(こけ)であるという本質を知らずにそれを誤って実体と見なす、ことに、
「私」「我」に対する誤った認識(=無明)から、欲望が生まれます。ブッダは、これが苦しみが生起する根源的な要因であると見なしました。そしてこの欲望に対するさらに詳細な分析、洞察から、三毒に至りました。
と述べています。
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ブッダは、欲望を徹底的に考察し、渇望と嫌悪と、そしてさらにその奥にある、人間が自分でも自覚できず、抑制し難い根源的な生存欲に至ります。ブッダはこれらを貪瞋癡の「三毒」と名付けました。
ちなみに貪瞋癡(とんじんち)というこの「三毒」については、以前にもnoteで取り上げたことがあります。
今枝氏は、「三毒」とは、
貪(ラーガ)=貪欲。好ましい対象を手にしようとする欲望。
瞋(ドーサ)=瞋恚。好ましくない対象を排斥しようとする怒り、憎しみ。
癡(モーハ)=無明。根本的・根源的な生存欲ともいえる抑制の利かないもので、ものをありのままに正しく理解しないこと。
であるとしてますが、
注意すべきことは、この三者は同列に並ぶのではなく、癡がもっとも根本的なもので、貪と瞋はそこから派生して同列に並ぶものです。(中略)
人間の日常生活レベルにおいては、貪と瞋という正反対の二種類の欲望が働きますが、それらが満たされないこと、すなわちものごとが思いどおりにならないことが多く、それがドゥッカ(苦)なのです。
と説明しています。
そして、
ブッダの最大の発見の一つは、彼以前には単に欲望とされていたものを、彼独自の透徹した考察で、貪・瞋・癡の三要素に分析し、癡を根幹とし、貪・瞋はその根本から生まれる正反対に働く二つの衝動であるという構造を明らかにしたことです。
と述べています。
つまり私たちの日常、特に恋愛や消費生活においてよく生じる、何でも自分の思い通りにしたい・モノにしたいという欲望(貪)と、決して自分の思い通りにならない・手に入れることができない、といったことから生じる怒りや憎しみ(瞋)は、正反対のものですが、ブッダの教えによれば、この二つは「ものをありのままに正しく理解しないこと」である無明(癡)から派生しているのです。
癡 ⇒ 貪
癡 ⇒ 瞋
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ちなみに以前の記事で、今枝氏が、
「(一)条件付けられた生起(縁起)としての苦しみ」
「(二)ものごとの移ろい(無常)による苦しみ」
は、「苦しみの両面と見なしたほうがいい」と指摘している点は、「ドゥッカ」(苦)の本質を考えるうえで非常に重要であると述べましたが、
について正しく理解できていないこと(無明)が、ドゥッカ(苦)が生じる原因であると言えるのです。
さらに今枝氏は、
三毒を根源とするさまざまな欲望、そこから生じる執着は人間の心の正しい働きを妨げるもので、日本人の日常生活でもよく使われる煩悩(パーリ語でキレーサ)ということばで総括されます。
結論として、ドゥッカ(苦しみ)は、欲望および執着、すなわち煩悩から生起すると言えるでしょう。
と述べています。
しかしブッダ(お釈迦さま)は「欲望および執着、すなわち煩悩から生起すると言える」ドゥッカ(苦しみ)は、消滅させることが出来ると説いているのです(「滅諦」「道諦」)。
……次回へと続きます。
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