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<無常>は「すべてのものごとは移ろい変わる」という真理。 『ブッダが説いた幸せな生き方』④

『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)を読んでいます。


前回取り上げた「縁起」から「必然的に導かれる」のは「無常」です。



無常」というと、この世のあらゆることは最後は終わってしまって「はかない」、それゆえに「かなしい」「むなしい」と思ってしまいがちですが、ブッダのいう「無常」とは、けっして感傷的なものではありません。


「無常」については以前に解説したことがありましたが、

『ブッダが説いた幸せな生き方』のなかで、著者の今枝由郎氏は、

日本における無常観は、古来「もののあはれ」とか「世のはかなさ」というように、感傷的、情緒的にとらえられ、ものごとのありのままの姿すなわち客観的真理として冷徹に認識されることはありませんでした。しかしブッダが「ものごとの移ろいによる苦しみ」といった場合、それは感性的な次元ではなく、ものごとの本質的な事実認識です。

と述べています。

また今枝氏が、「世の中で私たちが経験するすべてのものごとは、たえず移ろい変遷する性質のもので、実体のない虚仮的と言えるものです」としつつ、

世の中で変わらないものは、「すべてのものごとは移ろい変わる」という真理だけであるというのは、逆説的な真理です。

と指摘している点は、大変重要です。

私たちは不確実な時代のなかで、時々変化や死を怖れ、いつまでも変わることのない永遠不変の真理を想定したり探し求めたりすることがあります(そして結果的に散財してしまうこともしばしば💦)。

しかしブッダの教えを鑑みるならば、もし永遠不変の真理があるとしたらそれは皮肉にも、「「すべてのものごとは移ろい変わる」という真理」なのです。

さらに今枝氏は、「仏教が無常を前面に押し出すのは、人生のはかなさを自覚させることによって、前触れもなく突然訪れる死によっていつ終止符が打たれるともわからない、限りある貴重な人生の一瞬一瞬を活用し、意義のあるものにするようにとの注意喚起です」と説明しています。

仏教は無常、死ということをよく問題にすることから、暗い印象を与えます。しかしそれは何も人を意気消沈させるためのものではありません。死とか無常を考えないと、人は自分の前にはいくらでも時間があるかのように思い、無為に過ごしてしまう傾向があります。仏教が無常を前面に押し出すのは、人生のはかなさを自覚させることによって、前触れもなく突然訪れる死によっていつ終止符が打たれるともわからない、限りある貴重な人生の一瞬一瞬を活用し、意義のあるものにするようにとの注意喚起です。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 124-125頁


ちなみに私自身が実感していることですが、もしお釈迦様の教えをきちんとふまえ、日々気づきの瞑想を実践するなどして、世の中が「無常」であることがしっかりと理解できるようになれば、毎日をただ漫然と過ごすことのない、有意義な生き方へとつながっていくのです。

一方、もし今日と同じような明日がやってくると思い込んでしまえば、何でも先延ばしにしてしまい、貴重な「今・ここ」を十分に生きることは出来なくなります。

そして「無常」について考えると、どうしても「無我」というものについても言及せざるを得ません。

……次回へと続きます。

お忙しい中ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます😊


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