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『ブッダが説いた幸せな生き方』は、お釈迦様の教えが簡潔にまとまっている良書。

以前、『ブッダが説いたこと』(ワールポラ・ラーフラ 著 今枝由郎 訳 岩波文庫)という一冊は、ブッダの基本的な教えを知るために最適な一冊であると述べましたが、

この本を翻訳している今枝由郎氏が書いた『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)は、よりブッダの教えが馴染みやすく簡潔にまとまっており、日本人がお釈迦様の教え自体を知るのに最適であると感じました。

実際に今枝氏は、「あとがき」のなかで、

ラーフラ師の古典的名著『ブッダが説いたこと』が、ところどころ「インド的で、非常に煩わしく」映る文体ゆえに、師自身が懸念されていたように、訳書が日本人読者にすんなりと理解されないとしたら、あまりに残念であるという思いです。それゆえに、師の名著を私なりに咀嚼・敷衍し、日本人にとってより受け入れやすいものにしようと努めました。

と述べていますが、確かに『ブッダが説いたこと』は、翻訳書であるため、ブッダの教え入門としては、すんなりと理解するのが難しいのかもしません。

ところで「仏教」というと、「宗教」として敷居が高く感じられたり、日本という風土のなかの仏教を連想したりしてしまいますが、今枝由郎氏は、この『ブッダが説いた幸せな生き方』の「はじめに」のなかで、「現在の日本仏教はブッダの教えから遠ざかったものになっており、その真価が人々に伝わっていません」とし、「日本仏教には、各宗派の開祖たちによって変容されたり、新たに付け加えられた日本独自のものも少なくありません」としたうえで、

一番の問題は、日本人は仏教に慣れ親しんでおり、仏教を知っているつもりでいることです。仏事事、お墓、お彼岸、お盆、除夜の鐘、初詣でなどなど、仏教にまつわる事柄は日常生活に溶け込んでおり、風物詩となっています。しかしそれらはすべて日本という土壌風土で考案され発展してきた特殊なもので、いわば「奇形」としか言いようのないものです。二千五百年近く前のインドで、一人の「目覚めた人」すなわちブッダが説いたことから、遠く離れ、逸脱し、歪曲されてしまっているものです。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 6頁

 

と述べています。

すなわち、お盆になるとお墓参りをするなど、日本仏教の慣習=ブッダの教えそのものではないのです。

ちなみにブッダの教えについては以前にマガジンとしてまとめました。


「病い、老い、死といった、誰一人として望まない苦しみも、ブッダにとっては人間存在に内在する不可避的なものであり、それをなくすことは不可能」であり、そのことは誰一人避けようがない「第一の矢」にたとえられますが、今枝氏はこのような「矢のたとえ」に関して、以下のように述べています。


 ブッダが説いたのは、この避けようのない「第一の矢」を受けた場合に、どう対処したらいいのかという実践でした。多くの人は苦しみに直面したとき、苦しみの原因、実体に対する無知ゆえに、取り乱し、嘆き悲しんで、混迷します。これをブッダは「第二の矢」を受けることにたとえています。ブッダは、「第一の矢」を受けた人が、さらにその上にいたずらに「第二の矢」を受け、一層苦しみ嘆くことがないように、アドバイスするだけです。

同 27頁


 よく考えてみると、実生活において私たちは、往々にして「第一の矢」そのもので苦しむことより、「第二の矢」で苦しむことの方が多いのではないでしょうか。それをブッダは、「いたずらに取り乱し、嘆き悲しんで、混迷する」と言い、受けなくても済む「第二の矢」を自ら受け、一層苦しむだけであると言っています。

同 27-28頁



仏教(ブッダの教え)は、頭で理解して終わりではなく、「「第一の矢」を受けた人が、さらにその上にいたずらに「第二の矢」を受け、一層苦しみ嘆くことがないように」、気づきの瞑想をはじめとして、ブッダが説いたことを自分で確かめながら日々「実践」することが大切なのです。


 ブッダは神でもなく、神の子でもなく、超能力者でもなく、一人の人間でした。それゆえに死者を蘇らせたり、病人を奇跡的に治したりする力は持ち合わせてはいませんでした。一般的意味での宗教の開祖たちは、神あるいはその化身、さもなければ神からの啓示を受けた存在である、と自ら主張します。しかしブッダは「自分は人間以上の存在である」と主張しなかった唯一の開祖でしょう。そして自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間としての自らの努力と知性により体得したものであると主張しました。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 26頁


 ブッダは人として幸福に向かって歩むべき道すなわちレシピを教えるだけであり、その道を誤らずに歩めるかどうか、美味しい料理ができるかどうかは各人次第です。
 ブッダは、自分の教えはことばの次元ではなく、実践によって一人ひとりの人格に具体的に反映されて、初めて意味があるものと考えていました。
 ブッダはこう述べています。
 「よい教えは理解してこそ糧になり、理解したことは、実践してこそ糧になる」
 仏教は、空虚な理論、教義ではなく、誰にでもできる、誰もが行うべき実践の教えです。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 36頁



……次回に続きます。


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