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自己否定からの抜け出し方~自己正当化ともいう~

 私には不思議な習性がある。

 例えば、外国語の勉強を始めようと思い立ったとする。
 他言語の動画を見て新しい単語を覚えたり、文法をざっと洗ったり、なんでもいいから他言語に触れることを習慣にすると決める。
 まず初日。今までやっていなかったことを始めたので「プラス」の自己評価を下す。
 翌日。早くも継続出来なかった場合。これは「マイナス」の自己評価を下す。自分でやろうと思ったことが出来なかったのだから当然だ。
 では、翌日も行った場合。この場合はどんな自己評価を下すのだろうか?
 この場合の評価は「ゼロ」である。昨日出来たことなのだから、翌日も出来て当たり前。その次の日も、それからずっと毎日、継続出来て当然。継続出来ても「プラス」にはならないが、出来なかった瞬間に「マイナス」が重くのしかかる。
 私にとってはこれは至極まっとうなことだ。そして、誰しも同じように生きていると思っていた。


「小さな達成を積み重ねて自己肯定感を養う」と言う手法が、ずっと疑問だった。

 その「小さな達成」すら出来なかったときの自己否定のリスクが大きすぎないか?

 ずっとこのように考えていた。私にとってその「小さな達成」とやらはプレッシャーでしかなく、「これすら出来ない自分は本当に駄目だ」と追い込むことでしか物事を成し遂げられない。
 こういう心理状態の人間は、出来ていない状態は「マイナス」、行動して初めて「ゼロ」の状態になる。私は今でも、これが当然だと思っているのだが、どうやらそうでない人も居るらしい。
 そうでない人の捉え方は、行動していない状態が「ゼロ」、行動した状態が「プラス」になるらしい。信じられないことだが、同時に納得もした。
 行動を積み重ねれば積み重ねただけ「プラス」と思うことが出来るようになれば、そりゃあ自己肯定感も上がるし自信もつくよな、という具合に。
 そして同時に悟った。

 まず意識改革からしなきゃ駄目じゃねえか。


「意識改革」と言葉にするのは簡単だが、実際に行うのは難しい。
 物事の捉え方というのは生まれてからこの方積み上げてきた習慣に他ならず、長い年数を生きていればそれだけ塗り替えるのは難しい。
 かの有名な習慣についての本「Atomic Habits」では、習慣を身につけるのに必要なのは「自分はこういう人間である」という、アイデンティティの改革だとしている。そして逆説的に、習慣もまたアイデンティティの形成に大きな影響を与えていると説く。喫煙、飲酒、運動などの行動としての習慣がアイデンティティに影響を与えているとするなら、思考パターンや価値観、物事の捉え方という思考としての習慣は、よりダイレクトにアイデンティティに直結していると言えないだろうか。
 全てを「マイナス」に捉えるからネガティブになる。「マイナス」に換算するから自己否定に陥る。もはやどちらが先かも分からないが、長年悩まされてきた自己否定の源泉は、この「マイナス」に捉える価値観にあったのだと、最近になってようやく気付くことが出来た。
 この考え方を続けて得た驚きの思考方法をいくつか紹介しよう。

  • 「やりたいこと」が知らぬ間に「やるべきこと」「やらなきゃいけないこと」にすり替わっている。

  • 都合の良いときだけ「やりたいこと」に戻り、「自分でやりたいと思ったことも出来ないなんて」と自分を責める。

  • いつもいつも謎のプレッシャーが圧し掛かっている。

  • 習慣を積み重ねれば重ねただけ、「出来たことへの自信」ではなく「出来なくなる不安」が蓄積される。

  • 多数の小さな「出来たこと」を全て無視して少数の大きな手を付けていない課題に対してだけ目を向けて「今日も何も出来なかった」と自己否定をする。


 いやあ、何とも素敵な考え方だとは思わないか?
 どれだけ頑張ったって達成感なんて得られないはずである。「やって当然、出来て当然」なのだから。
 しかし、充実感を与えてくれる達成感にもデメリットはある。

 以前記事にした通り、達成感は継続の邪魔にもなり得ることを考えると、まるっきりデメリットという訳でもない。それに自らを追い込んで物事を続ける、というのは精神的にはよろしくないかもしれないが、自己を律していると捉えることもまあ、出来なくは無いだろう。長い期間、強いプレッシャーを自分に与え続けた先に待つのは精神と身体の崩壊だろうが、適切な範囲に収めればよい話だ。それが出来ていないという話はさておいて。

 しかし、自己否定はどうしてもメリットが思い付かない。メリットが無いなら止めればいいのだが、これだけ自己否定へのお膳立てがされている中で自己を肯定するのは至難の業だ。
 なんとかならないものかとここ一年頭を捻り続けていた――、というのは嘘で、案外あっさり答えは見つかった。


事実など存在しない、ただ解釈があるのみだ。

力への意志

 こちら、かの有名な哲学者ニーチェの言葉である。
 たとえば、コップの半分まで入った水がある。見た人によって、

  • コップの半分水がある

  • コップの半分しか水が無い

 という解釈が生じる。人によって多く見えたり、少なく見えたりする。
 そして更に言えば、この「コップの半分まで入った水」というのも、半分という概念があるからそれを事実だと捉えているだけで、「コップの半分まである水」というのは実は「事実」ではなく多くの人が抱いている共通の「解釈」に過ぎない、とするのがニーチェの考え方だ。
 後半は屁理屈みたいなものだが、好きな考え方だ。物事というのは確かに解釈次第である。一見不幸に見える状況でも、解釈次第では幸運にも出来る。

 そんな解釈次第で物事は変わるという、「ものの見方」を発信している、ひすいこたろうという方が居る。斜に構え過ぎて斜めなのが真っ直ぐだと錯覚している私でも、彼の「ものの見方」は素敵だと思い、たまに動画を拝見している。
 そんなひすいさんの動画で、以前、とある人の講演会に行ったときの話をしていた。

「どんな人でも称賛が50%、逆風が50%になるように出来ている」

 講演会の先生はそのように話していたのだが、ひすいさんはこのとき、
「この先生は間違っている」
と思ったのだそうだ。
 当時、ひすいさんは仕事が上手くいっていて、周りには褒めてくれる人ばかり。逆風が吹く要素などどこにもなかったのだという。
 しかし講演会の先生は、そんなひすいさんの心を見透かしたかのように、次のように続けた。

「この話をすると『それは間違っている』と言う人が必ず居ます。そういう人は、逃げられないところに猛烈に逆風を吹かせてくる人が居ます。例えば、奥さんとか」

 これを聞いた瞬間、ひすいさんは天地がひっくり返った感覚に襲われた。先生の言う通り、ひすいさんの奥様は正に猛烈な批判を浴びせてくる人物、逆風を吹かせてくるお人だった。
 
「妻が強烈に逆風を吹かせてくれるから、多くの人から称賛されているのかもしれない」

 本当のところはどうかわからないけれど、そういう考えを持てるようになったひすいさんは奥様に感謝と尊敬の念を抱くようになり、夫婦関係が改善したらしい。
 動画ではその後、飛行機は効率よく離陸できるよう、毎回逆風に向かって飛び立っている、という話を取り上げ、強烈な逆風や逆境は、高く舞い上がれるチャンスだと語っていた。
 
 私は自分を追い込む負のスパイラルを自覚したとき、不意にこの話を思い出した。そして思った。

「自分で自分に逆風吹かしてるって、どうやったって高く飛ぶことしか出来ないのでは?」


 都合よく受け取り過ぎだと批難されそうなものだが、所詮この世は解釈次第なのだ。多少自分に都合のいい様に解釈したって罰は当たらないだろう。普段自分に都合の悪い解釈ばかりしているのだから尚更だ。



「プラス思考なのはいいけど、なーんかそこはかとなく気持ち悪いっすね」
 という捻くれ者のために、出来るだけ論理的に言い換えてみよう。
 そもそもどうして自己否定は起こるのだろうか。理由は多々あるだろうが、一番大きい理由は今の自分のままでは駄目だという危機意識があるからではないだろうか。
 では何故、今のままでは駄目なのだろうか。このままだとやりたいことが出来ないから、夢を叶えられないから、周りに置いていかれるから……、色々否定的な言葉が思い浮かぶが、その根底にあるのは、
「もっと成長したい」
 という上昇志向の現れなのではないだろうか。偶然ネガティブな形で表出してしまっているだけで、「成長したい」という考え自体は、極めてポジティブなもののはずだ。
 自己否定という形で表出してしまっている成長欲求を抑えつけたり、無かったことにするのは、自分の成長機会を逃してしまうことになり、損失となる。
 自己否定という行為だけを見ると悪かもしれないが、根源にある感情を汲み取ると必ずしも悪と断言することは出来ない、と言えないだろうか。

 どうだろう、納得いただけるだろうか。
 正直なところ、どれだけ理屈を捏ねたところで、純然たる屁理屈である。自己否定を正当化しないと自己を肯定出来ない捻くれ者は、人より一つ二つ工程を増やす必要があるらしい。
 自己否定などついぞしたことが無い人は「こんな愚かな人間も居るんだな」と笑ってくれればいいし、自己否定を繰り返してしまう人は「こいつ屁理屈しか言わねえな」と笑ってくれたらいい。
 皆が笑顔になってくれるのなら、多少の恥など喜んで晒そうではないか。


 そして万が一にも、この屁理屈が誰かの役に立ったのであれば、幸甚であると言う他ないだろう。





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