本が読めないのに「本屋」に通いつめてたのはなぜ?
幼い頃から本屋に行くことが好きでした。
でも
本を読むことができなかったのです。
どういうことかといいますと、文章を理解することが苦手だったんです。
本が好きなのに、読めない。
読書感想文なんて、小学生のときは本当に辛すぎました。
なのに
家の近くの本屋にはずっと通いつめていたのです。
本屋の雰囲気が好きだったのでしょうか?
それとも
本屋の匂いが好きだったのかなぁ?
あるいは
本の装丁を眺めるのがよかったのか?
今、思い出してもよくわかりませんが、暇さえあれば本屋に行っていました。
その頃はおこづかいも少なく、本を買うことがほとんどできなかったので、店員さんに白い目で見られつつ(自分が勝手にそう思い込んでいただけかも…)、それでも本屋に行きたい衝動を抑えることができませんでした。
小学生の低学年の時から、小説の本棚を見るのが好きでした。小説にあこがれがあったのかもしれません。
本をパラパラめくっても、何を書いているのかわからなかったし、暗号みたいなものが永遠に並んでいる感じでした。
たとえば、司馬遼太郎さんの本がズラーっと並んでますよね。まず作者の漢字が読めない。
しま 〇たろう の 「〇ぶが 〇く」?
(司馬遼太郎 の「翔ぶが如く」)
本のページをめくっても、チンプンカンプン。
「大人になったら読めるのかな?こんなむずかしい本。こんな本が読める大人の人は凄いし、カッコイイ!」そう思っていました。
本屋にはたくさんの人が来ているのに、本当に静かだ。
みんな本を読んで、それぞれ自分の世界に入っている。本と対峙している。真剣なまなざし。カッコイイ!
今はもう、その本屋はなくなっています。
でも
あのときの店の蛍光灯の明るさ、本や雑誌の位置、本の装丁、本の匂い、店員さんの顔や声、静かな店内、真剣なまなざし、こうやって書いていると思い出すのです。
今でもとてもリアルに。
いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。