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過去・未来ぼくら対せかいⅢ

私はいま大学進学を機に故郷ふるさとを離れ、寮で一人暮らしをしています。
特に不自由というわけでもなく、こちらで友達がいないわけでもない。
なのに、なんとなく、「過去」が遠い昔の記憶のようになってしまって、
長いトンネルの先の「未来」が見えないのです。
進んでも進んでも、終わりが見えないトンネルに入ってしまいました。
だから入り口の光に見惚れてしまう。
確かにある思い出が今朝の夢のようで、立ち止まって、
後ろを振り返ってしまうのです。

私の大きな人生の転機は間違いなく高校でしょう。
私は中高一貫校で、高校進学と共に外部から新しい生徒が入ってきます。
本当にドキドキしました。
今まで超少人数だった場所に外から知らない人たちが来るのです。
そんな恐怖と裏腹に、そこで家族のような友人を得ました。

高校一年生は、なんの変哲もない、まだ少年の影を残した青年でした。
将来のことも、大学のことも、何も考えていませんでした。
ただ一日一日を噛み締めて過ごしていました。

人生の転換期は高校二年生です。
これは間違いない。
誰に聞いても私は高校二年生で大きく変わったそうです。
自覚している範囲で言うと、ぼくはかなり嫌なやつになったと思います。
いわば「ああ言えば、こう言う奴」になりました。
今思えば、本当に井の中の蛙です。
あの時私は学校と他大学連携の少し大きいイベントのリーダーをしていました。
各部署に分かれ、ほぼ完全に生徒主体でした。
そこで言わば普通の会社の組織のように立ち回ることになるのですが、
なんとなくそこで少し大人になった気分になっていたと思います。
今思えば、キッザニアではしゃいでいる程度のことだったのかもしれません。
なのに大人になったと勘違いし、自信を纏い、偉そうなやつに降格していました。
しかし、自信があったのは事実、挑戦意欲が凄まじかったの覚えています。
不幸中の幸いとしてそのエネルギーを他者と共同体に注いでいたのです。
長らく所属している部活動の後輩たちを想い、仲間を想っていた。
これも今振り返れば、美術を愛したのか、美術部という共同体を愛したのか。
それもまた、わからなくなってしまいました。

友人関係に関しても少なからず苦労しました。
いかんせん私の友人関係は私を含め一般的に見て言わば「はみ出しもの」集団でした。
エリート街道の中、不登校になった者、ADHD故か社会になかなか溶け込めない者、圧倒的にコミュニケーションが苦手な者、エリートな兄と姉の陰でもがいている者。
そして、他者に求められることに必死になっていた私。
他にもみな、社会のピースになりきれなかった、
しかし、確かに「己」という一本の支柱を抱いていました。
そんな奴らだったこそ、今があるのかもしれません。
よく彼らが「お前のおかげで人生が変わった。」と言ってくれます。
もちろん心の底から嬉しい。
ですが、そんな私もまた、人生が変わりました。
社会を知る前に支柱と噛み合わない「己」を曲げない人間に会えた。
だから今の私がいる。
そう、確信しています。

クラスメイトにも恵まれました。
私のクラスもまたかなり尖っていました。
おそらくあの共同体の中だと、私はかなり厄介者だったかもしれません。
しかし、そんな中でもいまだに交流はあります。
私のような少し困った性格をしている負けず嫌いの女の子を初め、
真面目すぎて、もうすでに全てを諦めたような瞳をしているいつも後ろに座っている子。
彼女達は他のクラスメイトと少し違う雰囲気がありました。
二人ともびっくりするくらい優秀で、
恋人がいる私ですら、いいお嫁さんになるだろうなぁとしみじみ思っていました。
どちらかというと、私はあの子たちから何かもらった事しかない。
相談に乗ってもらい、わがままを聞いてもらい、長くなった私の鼻を優しく抑えてくれた。
彼女達もまた、私のように人生に迷走し始めている。
今が恩返しのチャンスかもしれません。
私にできることなど限られてはいますが、何もしないよりはマシでしょう。少し、お節介を焼こうと思います。

もう一つ私に大きく影響を与えた人物がいます。
先ほど少し出しましたが、部活の後輩達です。
この子達が今の私の進路のトリガーになったと言っても過言ではないでしょう。
私は美術部という組織の安定化にかなりこだわりを持っていました。
一人づつしっかりコミュニケーションをとり、
真心込めて向き合いました。
ある後輩に関してはほとんど5年の付き合いになります。
キラキラした瞳の中学一年生を見て、
反抗期も親の次に向き合ったのではないでしょうか。
そんな子達がふと、私の背中を見ていることに気づきました。
お手本になるというほどのことはできませんが、
「少し先を歩いている人」くらいにはなったと思います。
私のこだわっていた箇所の一つとして、よく
「ぼくに憧れちゃダメだよ、ぼくは何十億とある選択肢のうちの一つだから。」
と伝えていました。美術部として、絶対に縦の関係を作りたくなかったのはあります。
しかし、私に憧れてしまうと、その子にしかない何かを汚してしまうような気がしていました。
それが功を成したのか、卒業式に贈ってくれた色紙にはこうありました。
「先輩のようにはできないかもしれませんが、私たちは私たちなりに、先輩が作った部活を守ります。」
思わず涙が出ました。
ついこの前まで反抗期に手を焼いていた子達がこんなに立派に、、、
なんだか親になった気分です。
だからこそ、私の親にも、そう思って欲しいものです。
そんな想いで成長した部活です。
私は長らく部長を務めましたが、あまり作品を作っていないんじゃないかと言われます。
しかしそれは間違いです。
アート作品の定義は人によってある程度異なりますが、
私は「感情を込めた。論理の外側にあるものであり、誰かに何かしらの影響を与えるもの。」と考えていました。
そう思えば、
私の最高傑作は、賞を取ったいくつもの作品でもなく、
「美術部という人生の彩り方を学ぶ空間」です。

人生の転換期なんて、実はなかったりするのかもしれません。
なぜなら毎日が転換期のように感じます。
しかし、高校という時間は間違いなくその土台になりました。
今でも私の帰る場所です。

こんなことを考えると、どうも悲しくなります。
今までの思い出というのは間違いなく私の心の血肉となっていますが、
あの時の風景、
あの時の匂い、
あの時の感情、
あの時の状況に
戻ることできないのです。
それがどうも切なく感じます。
さらに皮肉なことに、あの頃のぼくを失ってから、宝物であったと気づきました。

その思い出が時間と共に遠くになってしまっています。
私がいかないでと言えばいうほど、
遠く、ぼやけてしまっているのです。

京阪電車の吊り革、いつものプラットフォームに
私達の期待が膨らんだような入道雲。

油絵の具と、シンナーに混ざった、後輩達の清らかな声に
サラサラと悲しそうに泣く落ち葉。

学校帰りにこっそりと食べたラーメンの味に
肌を刺す冷たい風と友人の温かい言葉。

いつもの駅で笑いながら飲んだ缶ジュースに
肩にひとりぼっちで落ちた桜の葉。

無機質な電線にやわらかい夕陽と現実味を帯びていない空想の未来

その中で私たちは、変わり映えのない日々に、何かを探していた。

その何かが今かもしれないのに、
私はなぜこうも虚しくなっているのでしょうか。
追い求めたものが今ここにあるというのに
なぜこうも悲しいのでしょうか。

かつてさよならと言った過去にその答えがあるのでしょうか。
住む場所が遠く離れてしまったからなのか、
記憶と心が離れてしまったのか、
四季折々の風と心の季節風は
その答えを運んできてくれるのでしょうか。

もしかすると、答えなど無く、
あるのは私の忘れたくない「過去」の思い出と
かつてのぼくの「せかい」だけかもしれません。


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